2011-12-01から1ヶ月間の記事一覧

慶長12年(1607)甲府城番武川十二騎(『武川村誌』)

慶長12年(1607) 甲府城番武川十二騎(『武川村誌』) 山高孫兵衛親重 馬場民部信成 青木与兵衛信安 米倉丹後守信継 知見寺越前守盛之 折井仁左衛門次吉 入戸野又兵衛門光 山寺甚左衛門信光 柳沢三左衛門 曲渕筑後守吉清 小尾彦左衛門重正 跡部十郎左…

武川衆御重恩の覚え(『柳沢氏の研究』)慶長9年(1604)

慶長9年(1604) 武川衆御重恩の覚え(『柳沢氏の研究』) 百二十石 柳沢兵部丞信俊 百十八石八斗 伊藤三右衛門尉重次 八十石 曲渕勝左衛門尉正吉 五十六石四斗弐升 曽根孫作 八十六石 曽雌民部定政 六十石 折井九郎三郎次吉 九十石 折井長治郎次正 百…

武川衆二十四士重恩之惣目録

武川衆二十四士重恩之惣目録 〔武川衆…『武川村誌』「資料編」第一章 中世〕 天正十八年(1590) 正月二十七日 馬場勘五郎 曲渕玄長 青木尾張守 青木弥三左衛門 横田源七郎 米倉左大夫 米倉彦次郎 米倉加左衛門 米倉彦大夫 曲渕庄左衛門 曲渕助之丞 折井…

甲斐と武川衆 天正11年(1583)12・13・14・15・16・17・17・18年

天正11年(1583) 3月28日 徳川家康,甲府に在り,諏訪頼忠に信濃諏訪郡を与える〔家康公伝〕 4月1日 徳川家康,市川紙工の諸役を免除〔国志〕 4月18日 ~20、徳川家康,甲斐国内の寺社の多<に寺社債を安堵〔家康公伝〕 5月9日 徳川家康,…

武川衆の動き天正十年6月6日家康の配下に

6月6日 徳川家康,武田旧臣岡部正絹に命じ,巨摩郡下山城を築かせる〔家康公示〕 6月15日 甲斐国領主利尻肥後守秀隆,国人一揆に撃殺される〔国志〕 北条氏政,渡辺庄左衛門に命じて郡内に進入させる〔家康公伝〕 6月20日 徳川家康の臣大須賀康高,…

本能寺の変 その時家康は、武川衆は

本能寺の変 6月2日 信長の死。本能寺の変、一日の酉刻に明智光秀・織田七兵衛(信澄)により信長が討たれた 6月2日 明智光秀、京都本能寺に於いて織田信長を襲撃。〔信長公記〕 【家康の動き】 家忠は家康が伊賀・伊勢を通り、大浜(愛知県碧南市)に上…

勝頼の首級、甲府へ その時信長は、家康は、武川衆は

勝頼の首級、甲府へ ◇信長 勝頼の首は直ちに信長の本営に送られる 3月13日 松平家忠、穴山信君へ人馬を返還。〔家忠日記〕 3月14日 織田信長、信濃国伊那郡波合に着陣。 松平家忠、甲斐国甲府善光寺を見物。〔家忠日記〕 家忠、善光寺を見学する〔家忠…

〔武田滅亡〕その時武川衆の動きは

〔武田滅亡〕 3月11日 徳川家康・穴山信君、甲斐国甲府の織田信忠を訪問。 武田勝頼・武田信勝、天目山の戦で織田軍に敗北。田野に於いて一族・郎党と共に自刃。長坂光堅らも殉ず。 武田勝頼、甲斐国天目山にて敗北・自刃。〔理慶尼記〕 信濃国高遠城以下…

天正10年(1582)

天正10年(1582) 1月1日 松平家忠、遠江国牧野原城で越年する〔家忠日記〕 1月7日 松平家忠、遠江国牧野原城の定番を戸田氏と交替する〔家忠日記〕 1月16日 松平家忠の長男(後の松平忠利)、誕生する。〔家忠日記〕 1月25日 信濃木曽義昌…

その時武川衆は天正9年(1581)

天正9年(1581) これより先、二月以来昼夜兼行 の突貫工事により韮崎新府中城の工が漸く進捗し、9月末日に竣工の旨を盟邦に披露したが、この日、常陸佐竹氏の将梶原政景がこれを安房の里見氏に報ずる(武州文書) 1月1日 松平家忠、遠江国高天神城攻…

馬場美濃守信房  三省録(志賀 忍) 馬場美濃守信房  柳庵随筆(栗原信充)

馬場美濃守信房 三省録(志賀 忍) 甲州の武田信玄の家老の中にて、馬場美濃と申たる侍は、戦場常存と申四字を書き、壁に懸置て、平生の受用と仕るよし申し傳ふるところなり。初心の武士心得のため仍如レ件。 (武道初心抄』) 馬場美濃守信房 柳庵随筆(栗原…

新羅明神《新羅三郎義光が元服した場所》   兎園小説(瀧澤馬琴)

新羅明神《新羅三郎義光が元服した場所》 兎園小説(瀧澤馬琴) 新羅明神は三井寺北院現在谷に鎮座也。祭神は素盞鳴命(須佐之男命)也。此神五十猛神を師て新羅国に至り、智證大師唐土より帰朝の時、船中の佛經を擁護して日本に帰り給ふに依て、新羅明神と…

曲淵勝左衛門由緒書   半日閑話(大田覃)

曲淵勝左衛門由緒書 半日閑話(大田覃) 高祖父勝左衛門吉景、武田信虎より勝頼迄奉公仕、甲州武川と申す谷へ住居す。天正十年勝頼生害後、先方侍扶助信長停止に候共、神君武川之者共一同に御扶助被レ下、忍て遠州相良辺に罷座候處、同年六月信長生害有レ之、…

武川次衆事

武川次衆事 曽雌藤助 米倉加左衛門尉 入戸野又兵衛 秋山但馬守 秋山内匠助 秋山織部佐 秋山宮内助 功刀彌右衛門尉 戸島藤十郎 小澤善太夫 小澤甚五兵衛 小澤縫右衛門 小尾與左衛門 金丸善右衛門 金丸新三 伊藤新五 海瀬覚兵衛 樋口佐太夫 若尾木工佐衛門 山…

武川衆文書   一話一言(大田南畝)

武川衆文書 一話一言(大田南畝) 急度申入候仍此已然の御役様には壹萬石に鑓百本被仰付候へ共向後之義は壹萬石に鑓五拾本相残五拾本之代に鉄砲貳拾挺可持之旨 上意候右之外は最前被仰遣之通相違無御座候恐々謹言 三月廿三日 安藤対馬守 重信判 酒井備前守 …

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)追記 鳳凰山名錯綜の中における本村文献(寛延三年山論)の意義

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)追記 鳳凰山名錯綜の中における本村文献(寛延三年山論)の意義 山地と山麓住民との関わりについては前述の入会と山論で見てきた。しかもそれはそれぞれの時代の杜会的背景により、その関わり方に違いがあることも…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)黒沢村は柳沢村を相手取り、甲府御役所に提訴

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)黒沢村は柳沢村を相手取り、甲府御役所に提訴 文化八年(1811)十一月に入ると、黒沢村は柳沢村を相手取り、甲府御役所に提訴している。提訴の内容は、寛延三年芦倉村との山論裁許の折の絵図面を、黒沢、山高…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)道路、橋梁の問題、それに伴う土地の問題

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)道路、橋梁の問題、それに伴う土地の問題 農民の生活が入会に依存する度合いが高まるにつれ、道路、橋梁の問題、それに伴う土地の問題も生じてきた。次のものはそれに関係のあるものである。 寛政二年(一七九〇)…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)三吹村は一橋領地日野村より告訴される。

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)三吹村は一橋領地日野村より告訴される。 天明七年(1787)四月、三吹村は一橋領地日野村より告訴されている。告訴の内容は、辺見武川の大境は、北は深沢川を境とし、西は釜無川を境とする。その大境の日野村…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)宮脇村、新奥村、上円井村、下円井村の四か村、役所に対して、差上申済口証文之事の書面を提出

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)宮脇村、新奥村、上円井村、下円井村の四か村、役所に対して、差上申済口証文之事の書面を提出 天明二年(1782)四月、宮脇村、新奥村、上円井村、下円井村の四か村は役所に対して、差上申済口証文之事という…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)幕府、日陰山論争証拠調査

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)幕府、日陰山論争証拠調査 宝暦元年(1751)三月二十六日江戸表より代官と手代が来甲し、四月四日には韮崎に到着、その後宮脇村に一五日間、教来石村に一五日間滞在され、横手、白須、台ケ原三村が入会願を提…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)鳳凰山の誤解

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)鳳凰山の誤解 寛延三年七月十九目の甲斐国巨摩郡芦倉村と同国同郡黒沢山高柳沢三か村山論裁許の事の中で、芦倉村の御林境について、「東は小沢より東北の方堀切、薬師嶽、観音嶽、地蔵嶽、芦倉よりは高根相手三…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)甲斐国巨摩郡芦倉村と同国同郡黒沢山高柳沢三ケ村山論裁許之事

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)甲斐国巨摩郡芦倉村と同国同郡黒沢山高柳沢三ケ村山論裁許之事 芦倉村訴えの趣同村分内野呂川入山内え黒沢山高柳沢三か村より新道を作り小屋を掛け立木伐採候右山内東は「地蔵嶽」より「えんとうが嶽」峯通り北…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)若神子村、下黒沢村、塚川村は黒沢村、山高村、柳沢村を相手取って提訴

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)若神子村、下黒沢村、塚川村は黒沢村、山高村、柳沢村を相手取って提訴 享保七年(1722)七月、若神子村、下黒沢村、塚川村は黒沢村、山高村、柳沢村を相手取って提訴している。訴訟の内容は、今回武川筋鳳凰…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)《三吹村は横手村(現白州町)を相手として代官所に訴訟》

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)《三吹村は横手村(現白州町)を相手として代官所に訴訟》 正徳元年(1711)十月、三吹村は横手村(現白州町)を相手として代官所に訴訟を起こしている。三吹村は小物成山中山をはじめとして奥山、黒沢山、横…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)《牧原村は柳沢村・山高村・黒沢村を相手取って、奥山前山出入の件について訴訟》

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)《牧原村は柳沢村・山高村・黒沢村を相手取って、奥山前山出入の件について訴訟》 元禄十五年(1702)十月、牧原村は柳沢村・山高村・黒沢村を相手取って、奥山前山出入の件について訴訟をしている。その中で…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)《村内取り交わし文書》

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)《村内取り交わし文書》 入会山に関する書面の取り交しは村対村で行われているばかりでなく、村内の者の間でも行われている。 延宝四年(1676)には、三吹村名主、長百姓二名の連署で、村内の三名の者宛に入会…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)山高村は、牧原村を 奉行所に訴訟

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)山高村は、牧原村を 奉行所に訴訟 明暦元年(1655)に入ると、六月十日の日付で山高村は、乍恐書付を以御訴訟申上侯との表題の文書で奉行所に訴訟を起こしている。 訴訟の内容は、山高村と牧原村の境界地を牧…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)諸文献

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)諸文献 寛永十七年(1640)三月二十日には、塚川村より黒沢村庄五郎宛、清兵衛家寛永年中は庄五郎と申候と添書のある入置中手形之事という文書が提出されている。書面の内容は入会料滞納に伴う詑状である。 寛…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)肥料と牛馬耕と農具

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)肥料と牛馬耕と農具 幕藩体制の確立の中での経済の発展、特に農業に関係あるものは、治水かんがい技術の進歩・品種の改良・肥料の進歩・農具の発達など、さらに幕藩行政サイドの勧農、農学者の活動、領主の課税…