入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)《三吹村は横手村(現白州町)を相手として代官所に訴訟》

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)《三吹村は横手村(現白州町)を相手として代官所に訴訟》
正徳元年(1711)十月、三吹村は横手村(現白州町)を相手として代官所に訴訟を起こしている。三吹村は小物成山中山をはじめとして奥山、黒沢山横手山、大武川の北、南、北は桑の木沢、志の沢より奥は山上までの入会に対して入会料を納入しているのに、このたびの白須村と横手村の山論の折、代官所に提出した山絵図には入会の各村を記載せねばならないのに、三吹村を除外していることは承服することはできない。
また、三吹村と同様に、山絵図の村名記載から除外された二か村についても関係者から事情聴取をしてもらいたい。さらに三吹村は、かつて代官所より入会の黒沢山横手山から山漆の実を採取するよう指示されたが、黒沢山の日影山には山漆の実は無く、横手山は日向山に少量ある旨を申L上げ、このことを証文として残し、以後歴代の代官様に確認を願い、かつ山漆の実を納入し続け、また用木入用の御下問ありし時も、三吹村、台ケ原村連判にて証文としたこと、去る元禄十六年(1703)の黒沢村と牧原村との山論の時も代官所の確認を得ており、今回の山絵図から除外されたことは迷惑のことである、と訴訟の理由を陳述している。
しかし、この訴訟は短期には解決されず、正徳五年(1715)五月に三吹村は、「武川筋三吹村横手山え入相出入」という文書を以て、横手山の入会権の確認を再度求めている。そして、その確認を求める訴訟の理由を次のように述べている。
先に横手村が白須村と、横手山について山論をしたおり、三吹村は横手山に入会したことがないとの理由で、代官所に提出した入会の絵図に三吹村の村名を記載しなかったのは誤りである。
そもそも横手山の入会については、万治年間(1658~1660)横手山入会の村々が詮議し、代官所に提出した証文に三吹村は記載されており、さらに横手山の入会村の内の長坂上条村、長坂下条村、渋沢村からは三吹村は前々から入会に入っている旨の書面が提出されており、三吹村は横手山、柳沢山の入会を申し立て、現地において入会の各村々立会いのうえ詮議し、三吹村は昔より入会地として横手山に入会していたことを認めている。
三吹村は前記の横手山の入会権の再確認の提訴より前の正徳二年(1712)五月、台ケ原村を相手に訴訟を起こしている。三吹村名主の差上申覚書之事という文書によれば、台ケ原村と三吹村との問に、小物成山の境界についての訴訟がなされている。それは台ケ原村の地内に三吹村の者が耕作している田畑があり、また、三吹村地内に台ケ原村の者の田畑があるという状態であるが、その歴史は古く、六〇年以前に遡ると言われる。しかし、今回は境界を明確にしたいので訴訟に及んだもので
あるとしている。ここには長い年月にわたる慣例に不都合が生じ、境界線の明確化を必要とする事由が生じたものと考えられる。
三吹村は横手村を相手に、横手山の入会権の再確認を求める提訴をした正徳五年(1715)に、台ケ原村、横手村を相手に中山の入会のことで山論をしている。
「武川筋台ケ原村横手村三吹村中山争論申付覚」という文書によると、台ケ原村、横手村、三吹村の入会である小物成山中山は、先年三か村相談の上、境界を設定して、それぞれ草木の採取をしてきたが、三吹村の者達が無断で新しい境界を設定したので、三吹村が二か村から訴訟されたものである。代官所の検分により三吹村の無法な境界設定は取り消され、入会料も改定されて決着している。