明治天皇御巡幸 白州町

交通の整備と明治天皇御巡幸

 

文明開花、殖産興業を目指す政府のもとで意欲的であった藤村県令は、道路整備にも積極的であった。着任して一年を経た明治七年(一八七四)一月の告示で「四方ノ声息通ジ難ク、民情随テ固廼ニ安ソジ物産工業為ニ興ラス」(山梨県政百年史)と述べ、四囲を山岳に囲まれた本県の実態から、殖産興業を推進するためにも道路整備が急務であることを指摘している。以来、甲州街道をはじめ旧街道の修築が急速に進められた。

当時の道路整備は、曲折や高低差の修正、架橋など本格的なもので明治十二年(一八七九)までに、諸道の修築延長が百二十里に達したと伝えられている(県政百年史)整備に要した膨大な経費は、学校建築などと同様に大部分が区、戸長はじめ村の有力者や篤志家の寄付によったというから、当時の諾改革は民問の協力なしには推進し得たかったといえよう。

交通制度もまた新政のもとで改革整備が行なわれた。本県では明治五年(一八七二)、県が大蔵省に提出した会杜創建の稟議にはじまる。これによると各駅(甲州街道の各宿駅のうち、本県内に十八駅)に陸運会社を設立し、相対賃銭で人馬継立業務を行なうというものである。

稼ぎを行なうものはすべて入社し、その鑑札をもたたければ営業できないことになった。陸運会杜はその後の改正を経て、明治八年(一八七五)には全国規模の内国通運会社と連合し、鉄道開通まで主要な運輸機関としての役割を果したのである。

本町の台ヶ原、教来石両宿もこのようにして交通集落としての機能を保ち、近世以上に繁盛した。

おりから地域住民あげて新時代の到来を自覚するようなできごとがおこった。明治十三年(一八八0)、明治天皇の山梨、三重、京都三府県のご巡幸である。ご巡幸は伏見官をはじめ太政大臣三条実美、参議伊藤博文、内務郷松方正義ら供奉する文武百官四百余人を随え、六月十六日皇居を出発したのである。

本県ではすでに四月十三日、県下から各郡長に内達され、二十六日には聖旨を県民に布達、三十日には沿道各町村において心得べきことを各役場へ布達していた。甲州街道を進まれた行列は、甲府に二日滞在後、六月二十二日、午後一時五分、円野御小休所を出発、午後二時十五分、菅原行在所(北原延世宅)にご到着、一泊された。すでに現つ神として尊崇されていた主上をはじめ、新政府の要人多数を迎えて、台ヶ原宿はもちろん沿道各地では近世における大名行列以上に混雑を極めたと思われる。

御泊行在所は菅原村北原延世、御馬車舎は古屋喜代造、御厩は北原延世囲内、御立退所は菅原村蓮照寺、御小休所は教来石駅河西九郎須宅と定められ、五月十八目、近衛局御先発陸軍会計軍吏副横幕直好から次のような指令があった。

○菅原行在所

北巨摩郡台ヶ原駅北原延世

北原延世は酒造業を営み、家宅広く行在所に可なるを以て笹子峠と同じく、五月七日、行在所に内定し、左の箇所の修繕を指令す。

○御泊行在所

一、御浴室並御厨取設ノ事

一、御馬車屋並御馬繋取設ノ事

一、表裏へ内メリノ事

一、門並玄関へ轟張折釘打ノ事

一、馬繋場奥入二付宿並建札ノ事

一、在来便所へ障子〆切ノ事

〆六件

此営繕費金七百六拾五円余、外に私費修繕したるもの、表裏門戸修繕費金百参拾四円余也

御立退所同村蓮照寺

供奉官員以下膚従老の宿割は、駅内及び隣村の民家舎北原慶造外三十余戸に割当する。宿割左の如し。

 

第一号甲     大臣護衛警官  北原慶造

第一号乙     伏見宮     台原台祥

第三号      参議護衛官   原光太郎

第四号      内閣書記官以下 宮川庚平

第五号      内務書記官以下 原田佐左衛門

第六号      駅逓官員    北原民平

第七号甲     警視以下    清水勘四郎

第七号乙     護衛長     石井半十郎

第八号      大蔵書記官以下 大輪関三郎

第九号      陸軍中将    山田勘兵衛

第十号      陸軍佐尉官   古屋荘平

第十一号甲    騎兵下土以下  山本庄吉

第十一号乙    騎兵下土以下  島口杢兵衛

第十二号     宮内卿     北原篤

第十三号     宮内少輔    北原篤

第十四号     宮内書記官以下 宮川仁左衛門

第十五号     式部助以下   原弘

第十六号甲    待従      古屋茂一

第十六号乙    待従      古屋照時

第十七号     待医以下    小松浜平

第十八号     内膳課     入戸野六平

第十九号     調度課     台原益之

第二十号     内匠課     島口元右衛門

第二十一号    内廷課     北原庄太郎

第二十二号    宮内属     細田信茂

第二十二号ノ内  輿丁      細田董顕

第二十二号ノ内  輿丁      細田治郎吉

第二十三号甲   輿丁      菊原是副

第二十三号乙   御厩課     細田

第二十四号甲   宮内属以下   伏見伝八郎

第二十四号乙   宮内弥雇・馬丁 鈴木員村

第二十四号乙ノ内 馬丁      鈴木清兵衛

第二十四号乙ノ内 馬丁      伏見孫右衛門

号外一号     文学御用掛   山田伝左衛門

号外二号     印刷局     大森直竜

 

○御小休所

御小休所も亦、行在所と同時に内定する。北都留郡田尻駅、犬目駅、花咲駅、初狩駅東八代郡駒飼駅、東山梨郡日川村東八代郡石和駅、中巨摩郡竜王村、北巨摩郡円野村、教来石駅の十箇所なり。指定したる家主の氏名及び修繕筒所左の如し。

北巨摩郡教来石駅河西九郎須

御小休所

一湯殿床下並入口戸締ノ事

一玄関薄縁敷設ノ事

一玄関西ノ方二畳ノ間東ノ方唐紙ヲ障子二替ル事

一門前へ幕串並折釘打ノ事

〆四件

 

・御休泊所共二御膳水井へ雨除蓋新調井建札取設ノ事

但上屋根有之分ハ不及其義二見込

右の件々現場検査の上御照会および候処相違無之候也

明治十三年五月七目

宮内省十五等出仕中村保福

 

なお御厩部から次のような指示があった。

仮厩五十三頭建取設ノ事、

北巨摩郡台ヶ原駅山本庄吉、島口多左衛門、島口文左衛門、島口佐次右衛門、鈴木清兵衛、伏見伝八郎、島口嘉吉、山本覚、古屋庄平、古屋茂一

右山本庄吉外九人ハ第十号十一号旅館最寄農家ニテ在来ノ厩ヲ以テ使用ノ積ニ付、別ニ仮建厩ヲ要セザル事

また御膳水については水質極めて精良たるものを選び、四月八日、沿道各郡長に通牒して、予め良水と認むる井水、湧水、流水の場所を調査せしめ、数回水質の分析試験を行ない、宮内省内膳課に報告して次のように採用された。

一、円井御小休伊藤徳右衛門持井戸

一、台ヶ原御泊北原延世持井戸

一、教来石御小休字細入沢湧水

すべて行在所には御厨、御浴室を新設し、御昼行在所及び御小休所には御厨のみを新設した。御浴室は梁間六尺、桁問弐間半、御厩は梁間四尺、桁間九尺、御小休所の御廊は六尺四方羽目板屋根大板葺で、その図面まで示されている。行在所北原延世宅における玉座をはじめ宿泊状況は図面の通りで、北原家の家族は隠宅に移った。また山梨県病院では、台ヶ原駅と下教来石駅に病院出張所を仮設した。

翌二十三日午前七時、行在所を出発。御出門直前に山梨県令藤村紫朗に謁を賜う。七時四十五分教来石駅御小休所(河西九郎須宅)にて休憩。

八時三分ご出発、駅北の端場坂下において早乙女が十四、五人ずつ二組に分れ馬八節を唄いながら田植をしているさまを御通覧たされて長野に向われた。このとき菅原行在所において鳳来村の中山平右衛門、菅原村の小沢らえ、にそれぞれ孝子、節婦として金一封を賜わり賞している。

また各行在所、御小休所等にては、民問より十二、三歳から十六、七歳までの男子にして品行方正容貌端麗なるものを選び給仕として採用した。菅原行在所にては北原忠、北原滝蔵、教来石御小休所にては灰原義一郎、三井幸作、海野義徳がその栄に浴した。

武川町 むかわまち 《「角川丹本地名大辞典」昭和59年刊より》

《「角川丹本地名大辞典」昭和59年刊より》

現況

〔成立〕昭和8年(1933)4月1日,新富村武里村が合併して成立

〔面積〕60.24km筥

〔世帯〕942

〔人口〕3,441人

〔村の花〕キク

〔村の木〕マツ

〔村役場〕山梨県北巨摩郡武川村牧原931番地

〔村名の由来〕

大武川・小武川などの川の流域に開けた村という意によって命名

〔立地〕

富士川水系の小河川県の北西部に位置する。西端は鳳風山を境に中巨摩郡芦安村,南は小武川をもって韮崎市,北東は釜無川をもって長坂町・須玉町、北は中山,大武川,尾白川をもって白州町に接する。

当村域内を富士川水系釜無川,大武川,石空川,黒沢川,小武川の諸河川が流れ、これら河川の形成した河岸段丘や沖積扇状地は,古代から中世初頭にかけては牧地とされ,中世後期から近世以降には開拓が進み,生産や居住の基盤になった。国道に沿う村役場(現北杜市武川町支所)所在地の牧原は,標高497mで、年平均気温12.6℃、年間降雨屋:は896mmである。また、牧原は近世初頭に甲府中山道下諏訪宿を結ぶ目的で開かれた信州往還の宿としてにぎわった。甲府より24km,中央自動車道小淵沢・須玉・韮崎の各インターチェンジからも相当の距離にあって,道路網の整備による,申央自動車道への距離の短縮が望まれている。

○沿革

〔原始〕

 

河岸段丘上の遺跡当村域の考古学的研究成果は、これまでのところ特筆すべきものはない。わずかに柳沢地内字真原の真原遺跡で縄文時代中期の住居趾,宮脇地内字大持原の地下式土壙が注目されるにすぎない。また,大武川,小武川,黒沢川河岸段丘にあたる山高,黒沢,新奥地内には,下原・新奥・上原遺跡などの縄文時代中期を中心とした遺跡が数多く知られている。

 

〔古代〕

 

真衣郷律令制下の当村域は巨麻郡に属し,「和名抄」に見える真衣野郷の地に比定される。大宝令によって郡郷制が敷かれると,釜無川右岸流域,甘利沢左岸流域一帯に50戸を1郷とする真衣郷が置かれたと考えられる。郷名の真衣は牧を意味し、この地域が7世紀以前,すでに牧地であったことを物語っている。当時,甲斐は郡31郷であったが(和名抄),牧地の名をもって,ただちに郷名としたところは当郷以外になく,7~8世紀にかけて甲斐国においての代表的な牧馬地域であったと考えられる。このような産馬の実績が8~9世紀にかけての「三代格」や1O世紀初頭の「延喜式」左馬寮式甲斐御牧の諸規定を生んだと推定される。真衣郷所在の牧馬地が左馬寮により官牧の称を与えられて真衣野御牧となり,八ケ岳山麓を牧地としたと推定される柏前御牧(一説には山梨郡に比定される)と合わせて年々30疋の駒を貢上することが定められた。当村域に牧原の地名があるところから真衣野御牧の牧地の遺称であろうと推定されている。

真衣野御牧の貢馬は,毎年7月,牧監以下が付き添って真衣郷を出発し,25日をかけて近江と山城の境、逢坂関に到着して出迎えを受け,都に入る。真衣野・柏前両御牧の駒は8月7日に献上され,この日,天皇は武徳殿に出て庭前を牧士が牽く駒のうち、最良の馬を選びとり,次々と親王、公卿に分かち、余りを左馬寮に下げ渡した.これがF駒牽の儀」で、平安初期の主要宮廷年巾行事であったが,律令制度の衰退に伴い寛治元年(l087)頃を最後に廃絶された。なお,「吾妻鏡」建久5年(1194)3月13日の条に「甲斐国武河御牧駒八疋」が鎌倉に参着し,源頼朝がこの駒を京都に送ったことが見えている。「国志」は現在の牧丘町に比定しているが,古代の御牧の駒牽の伝統により,武河牧を真衣野御牧の後身と考えて当村域とする説もある(古代官牧制の研究)。

 

〔中世〕

 

武田氏と武川衆平忠常の反乱の追討を命じられた源頼信は乱を平定し,頼信の子頼義,孫義光はともに甲斐守となり,のち義光は常陸介を務めた。義光の子義清は官牧を手中に納め,以後清光,信義,信長,時信と継ぎ,武田一門は栄えていった。時信は多くの子を武川筋の諸村に封じ,山高,白須,牧原,教来石,青木氏らが起こったという(国志)。のち青木氏から折井・柳沢・横手・山寺・入戸野氏らが,また山高氏から溝口氏が分派したと伝えられる。

永享5年(1433)4月,武田信光(信満)の子信長がこれらの武士を主カとする日一揆武士団を率いて、逸見・跡部両氏を主力とする輪宝一揆と戦ったが大敗し,柳沢,牧原、山寺の3将が戦死している(一蓮寺過去帳)。

戦国期、武田信玄の頃には武川衆武士団が,信玄の弟左馬助信繁・信豊父子の寄子となっていて,永禄10年(1567)8月の信州小県郡下之郷武田将±起請文には,武川衆柳沢信勝以下7人の士が連署している(生島足島神社文書).

米倉氏と折井氏の知行天正10年(1582)3月,武田氏が滅亡し,6月本能寺の変後,甲斐国一円は徳川氏の支配下に置かれた。徳川家康は武川筋に板巨蟠距踞した武士団武川衆に対し,統率者である米倉主計助忠継,折井市左衛門次昌を介して掌握しようとした。同年発給の本領安堵状によると,分散知行のうち当村域では

折井次昌は新奥で2貫文,

青木信時は新奥で16貫文,

小沢善大夫は牧原内飯田分4貫文,

米倉信継の宮脇内10貫文,

米倉豊継の宮脇村150貫文、同村小沢分2貴500文

などが充行われている(徳川家康文書の研究上)。

武川衆は同13年小牧・長久手の戦に参陣し,尾張一宮城の守備や信州上田城真田昌幸攻略に戦功があった。同18年正月、小田原北条氏攻略前には武川衆重恩として2,960俵が米倉・折井両氏に与えられているが,そのうち山高郷478俵余,三吹郷224俵余,牧原郷151俵余、宮脇郷84俵余と知行地が分布していた。これら知行地は米倉・折井両氏が各400俵,柳択信俊・山高

信直が各60俵など配分されている。武川衆は徳川氏の甲斐入国とともに武州鉢形領と相州へ移った。その後,村域は羽柴秀勝,加藤光泰,浅野長政・幸長を経て慶長5年(1600)関ケ原の戦後は徳川氏の再領となった。

 

〔近世〕

江戸期の村々慶長6年大久保長安の総検地によって,

牧原村は知見寺越前知行地195石余

柳沢村は馬場民部知行地138石余・蔵入地2石余の計140石余

三吹村は知見寺越前知行地129石余・蔵入地164石余の計293石余

新奥村は青木与兵衛知行地84石余

山高村は山高孫兵衛知行地275石余・蔵入地35石余の計310石余

宮脇村は米倉左大夫知行地213石余・蔵入地124石余の338石余

黒沢村は青木与兵衛知行地88石余

となり,

当村域7か村は知行地1,127石余・蔵入地326石余,計1,453石余となった(慶長古高帳)。

これらにより武川衆は各旧領に復しているが,

慶長8年徳川義直甲斐国に封ぜられると武川衆・津金衆20人が本領を給され,家臣団に編入された。

慶長12年には武川・津金衆は「武川十二騎」と称して城番を命ぜられ、山高親重,柳沢三左衛門,知見寺(蔦木)盛之らが2人宛交代勤番で付属した。

元和2年(1616)徳川忠長が甲斐一円を支配すると,武川衆は大番・書院番らに組み入れられて勤仕した.寛永9年(1632)忠長が改易されると武川衆は一時処士となったが,

寛永19年旗本に復帰が許された。このとき山高信俊は柳沢・宮脇で300石を拝領し,万治2年(1659)塵米200俵が加増され、寛文元年(/661)合計500石で下総・常陸へ知行地替えとなった。このとき武川衆は本貫の地である武州筋の村域周辺の知行地を去った。村の支配は江戸中期には全域甲府藩領となり・後期には幕府領となった。

 

〔村々の生活〕

○山高村は

寛文12年大田甚兵衛検地で高580石・反別58町5反6畝20歩,

貞享5年(1688)前島作次右衛門検地で高8石5斗・反別1町9反7畝4歩,

享保/7年(1732)遠藤又三郎検地で高6斗5升・反別9畝12歩増加し

合計高589石!斗9升・反別60町6反3畝6歩となった(延享3年差出明綱帳)。

村内は享保9年で家数83戸,このうち本百姓59戸、水呑百姓24戸,馬30疋・牛40疋、計70疋となっている(村明細帳)。

田畑では稲、粟,稗,菜,大根,大麦,小麦および煙草を少々作っており,耕作の余暇をみて薪を伐り出し韮崎宿まで付出し,商売を行った。

○三吹村は

寛文12年南条喜左衛門検地,

貞享5年前島佐次右衛門検地,

元禄7年(1694)遠藤次郎右衛門検地

を経て,高651石9斗5升6合・反別75町8畝10歩となっている。

村は名主が2人で名主給11俵は6俵が上組70軒,5俵が下組50軒から出し,

定夫2人の給分籾7俵は4俵が上組、3俵が下組に割り当てられている(延享3年村明細帳)。

文政4年(1821)に水害などのため家数120戸のうち潰百姓20戸,潰百姓同様の者34,5戸と村内の被害が大きかった。

平常は稲のほか野菜、木綿、煙草,大豆,蕎麦,粟,稗などを少々作っている。

○柳沢村は

宝永2年(1705)商人4人が茶・塩を販売,男子は薪を韮崎宿で売り,女子は麻,木綿、布などを織っている。

文政4年の農民構成は名主・長百姓が7戸,本百姓66戸,水呑百姓18戸となっており,村役人が多いのが特徴的である(村明細帳)。

○新奥村

村高・家数は一番少なく,他村と同じく田畑の耕作で生活を立てていた。

 

○三吹村は

元禄2年以後甲州道中台ケ原宿助郷役300石7斗を勤めた三吹村は,困窮のため寛政8年(1796)より免除され、代わって宮脇,黒沢,山高,柳沢,牧原,新奥の6か村が代助郷を勤めた。しかし,6か村も困窮化してきたので助郷勤高601石余の免除を願い出,吟味の結果,文化5年(1808)に大八田,塚川,長坂上条,渋沢の各村が代助郷を勤め,6か村には300石余の助郷勤高を申し付ける吟味申渡書が出されている(台ケ原宿伝馬助郷証文/甲州文庫史料)。

村域諸村は約8割が山林であり、専ら田畑耕作に依存し,一部薪など韮崎宿で換金して生計を立てており,畑作も大部分は自給用であった。全体として

「村々之儀ハ困窮村方ニ而,農業之間ニハ日雇稼ニ罷出,御年貢御上納之助ニモ仕候程之村方」

という状態であった(甲州文庫史料)。

村域は水質・気候の条件が米生産地に適し,良質の米が生産され,産米は韮崎宿の米問屋に集散され,年貢米は廻米および甲府御詰米として韮崎宿を経由して江戸・甲府へ送られた。周辺には入会地があり,秣場として肥料の供給源となったが利用をめぐり山論などが頻発した。

 

〔近現代〕

行政区画の変遷当村域の村々は,明治元年甲府県,甲斐府、翌2年甲府県の管轄を経て同4年山梨県下となる。

同7年駒城村(柳沢村ほか2か村)、

同8年新富村(山高・黒沢・三吹の3か村)・武里村(新奥・宮脇・牧原の3か村)が成立し,

同11年村々は北巨摩郡に所属した。

昭和8年富村武里村が合併して武川村となり,

同30年駒城村の一部を編入

武川米の生産当村は大武川,小武川などが流れる南アルプスの急傾斜地帯にあり,田畑合わせても1割にみたない土地柄であり,耕地や居佳地は標高475m前後の地域にある。

○柳沢は大正5年頃は戸数120戸・人口750人で主要農作物は、米と麦で養蚕吃次第に盛んとなり,農業2,養蚕4,山稼ぎの

割合となっていた。馬は近世以来多く、320頭に及び,用途は農耕および荷車引きを主としている。新富村でも牛1疋に対し馬166疋で(うち農馬ユ53疋・稼馬13疋),

武里村も牛4疋、馬99疋(うち農馬90疋・稼馬9疋)となっており,牛は乳用,馬は農耕用が圧倒的に多い(北巨摩郡町村取

調書)。山林の杉,檜、松は建築用と炭に加工され,村の重要な資源となっていた(駒城村取調書)。

村の人口は農家が中心であったが,

○薪富村では大工18人、左官1人,武里村は石工4人,左官1人,大工5人,鍛冶1人がいた。

また水害を防ぐため,特に柳沢地区では約1町歩の水害防備保安林が設けられ,柳,椚、松,杉などが利用されていた。生業の

うち養蚕は次第に重要性を増したが,近世以来米産地として知られた当村の米は良質な武川米として出荷された。しかし,第2次大戦となり昭和17年食糧管理法が制定されると米は量産本位となり,質低下を招いた。

戦後、武川村ではこの傾向に歯止めをかけ良質の特産武川米の生産に鋭意努カした。現在、武川米は武川村農家の良質米を武川村農協が厳重に検査しており,品質の良い武川米の銘柄が定着している。

 

〔水害の村〕

村域の河川は急流で平常は灌漑,用水に利用されるが豪雨時には大水害がしばしば起こった。

特に明治2年7月には三吹村地内釜無川通り字上河原二番堤防をはじめ17か所が決壌し、田畑流失29町歩に及び,柳沢・山高村でも被害があった。

明治31年9月の台風で釜無川の大氾濫が起こり,上三吹村戸数74戸が砂石に埋まった。今もこの災害に対し「上三吹水災

碑」がたてられている。

第2次大戦後は昭和34年8月に7号台風と9月に15号台風(伊勢湾台風)により村域は大水害を被った。流失民家129戸、死者23人,流失農地120h刮,堤防・橋梁のほとんどが損害を受けた。

この災害復1日は4か年の歳月と35億円の巨費を要したが,その結果,近代的国土建設の理想的工事が施され,農村自治の基礎ができた。その後昭和46年から同55年に第1次武川村総合言十画を立て村治の基本構想を定めたが,同56年から同65年にかけて第2次総合計画が進行中で、「ふるさとづくり」の実現に努めている。

その具体的構想は,

  • 街づくりを基盤とした交通体系の充実,
  • 林業生産基盤の整備拡充,
  • 「水と文化とあいさつの村」,人づくりの推進,
  • 生きがいと健康を求める村づくりの推進,
  • 行財政需要の的確・迅速な処理を推進し住民福祉の向上を図る

の5項目である。

現在の村域の山麓斜面は桑園,果樹・野菜栽培と畜産(肉牛)が行われている。西に鳳圓三山を望む大武川の渓谷沿いには胃腸病の霊泉として知られる藪の湯温泉があり,石空川渓谷の上流には精進が滝があり、渓谷の景観を楽しむ人々のため民宿もできている。

 

〔史跡・文化財文化施設

国天然記念物に山高神代ザクラ(実相寺),万休院の舞鶴マツ(現在は三代目)がある。

 

〔現行行政地名〕

○くろさわ・黒沢

〔世帯〕55

〔人口〕202〉

村の南東部。集落は山高とともに大武川の河成段丘上に位置する。当地域の河成段丘面は大武川氾濫原との比高40m以上。西から北は山高,東は氾濫原の水田地帯を隔てて牧原・宮脇,南西は県有林。農業・養蚕・林業を生業とし,山高とともに比高の大きい耕地の経営を行う。

  • しんおく・新奥
  • 〔世帯〕42
  • 〔人口〕1711

村の南東部。集落は小武川左岸の、水田を南に見下ろす新奥段丘の崖下に立地。南は小武川を隔てて韮崎市,東から北・西一帯は宮脇に接する。北の宮脇地内および東西方に3か所の飛地がある。集落の南および西に近く山地が迫る。小武川氾濫原の水田地帯は常に水害の危険にさらされているが、地味は肥え,屈指の穀倉地域である。段丘上に桑畑が卓越する養蚕農村地

 

帯でもある。

  • まきはら・牧原

〔世帯〕232

〔人口〕815〉

村の東部。東は釜無川を隔てて長坂町・須玉町,南は宮脇,南西は大武川段丘を望み,西は段丘上の黒沢・山高,北は大武川旧河道を境に三吹に接する。国道20号が中央部を南北に走り、県道横手目野春停車場線が北西境をかすめる。村役場1農協・武川郵便局1武川小学校・中央公民館1武川警察官駐在所・武川診療所など,村の行政・経済・教育・交通通信などの中枢機

関が集中し、商店が軒を並べ,村の中心をなす。大武川の氾濫原に立地する結果,多年にわたり激甚な水害を被ってきた。集落の形態は,旧信州往還に沿う街村であるが,近年,国道20号バイパスの開通により形成された商店街と,県道の整備により大武川旧河道に造成された三吹の新開地商店街とは,ともに近代的集落の景観を構成する。役場に接する旧村社八幡神社は社叢が森厳で,かつて真衣野牧の馬見丘に創建された古社といわれる。

 

○みふき・三吹〒

〔世帯〕261

〔人□〕932(新開地を含む)〉

村の北端。北西は中山地塁山地の山裾および尾白川を隔てて白州町,北は釜無川を隔てて白州町と長坂町,北東は釜無川を越え七里岩を隔てて長坂町,西は中山を隔てて白州町,南東は大武川と新興集落の新開地を隔てて牧原,南は大武川を隔てて山高

と柳沢の水田地帯に接する。国道20号釜無川にほぼ並行する。教育福祉センター・農業センターがある。元来,釜無川・尾白川・大武川の氾濫原を開拓した耕地を基盤とする農村で,当地の歴史は3河川の水害史でもあった。水害を受けた住民は中山山裾の高地に移り,新屋敷という新集落をつくった。当地北部の上三吹の集落形態は農村には珍しく街村型をなす。これは

近世の信州往還に沿って民家が集まったとみられるが,むしろ釜無川の暴流に対する抵抗を少なくするのが主目的で,それに街道沿いの利益が一致した結果とみるべきであろう。上三吹の北端に神明神社の祠が祀られ,その南方に整然として街村が展開するのは,水害を防ぐのに最適な形態である。明治年間から第2次大戦前にかけての数十年間、上三吹には和紙製造工業が盛んに行われた。清冽例な釜無川の水と,山野に豊かに産するコウゾ・クワの靱皮繊維を原料としたもので,武川半紙と呼ばれて有名であったが、戦後の産業構造が一変した影響で衰滅した。

一方,下三吹は、大武川・釜無川の水害を避けて申山山裾に集落を形成したが、この地域は狭すぎるため,大武川対岸の下三吹分に進出し,新開地の集落をつくり上げた。下三吹には国天然記念物の万休院(曹洞宗)の舞鶴マツと,村史跡中山塁跡がある。

 

○みやわき・宮脇

〔世帯〕97

〔人口〕380〉

村の東部。東は釜無川を1隔てて穴山台地上の須玉町,北は黒沢を境に牧原、西は新奥河成段丘を経て黒沢,南は小武川を隔てて韮崎市に接する。地内ほぼ中央に新奥の飛地がある。東部を国道20号が縦断する。集落の西方約500mの新奥段丘の末端に緩斜面があり,その中腹に、地名の由来ともなった古社諏訪神社が鎮座,社地は東方に面し,その北側の段丘崖下は清水が湧出するので,ここに集落が発生。近世以後の宮脇集落は,信州往還に引かれてできたが,南北両隣の上円井・牧原とは異なり,宮脇の新集落は小武川と黒沢川の水流に挟まれ,常時水害に備える必要から,狭い地域で足りる塊村の形態を示す。武田氏の時代に武川衆の領袖米倉氏が領した所で,屋敷跡・墓所などが今も残る。

 

○やなぎさわ・柳沢

〔世帯〕160

〔人口〕590(開拓を含む)〉

村の中央から北西部。大武川の南岸。北東は大武川を隔てて三吹,東は山高,南は県有林,南は山高の真原開拓地,西は大武川を隔てて白州町に接する。山高の南部に「く」の字形に細長い地域の飛地がある。県道横手日野春停車場線が北東部を横断し,沿道に駒城郵便局がある。大武川は荒れ川で洪水を起こしやすく,古くから常襲水害地で,住民の生活は苦闘の連続であった。男子は河川の改修や水害復旧工事,荒廃田の再開墾作業に出,林木の伐採、牛馬の飼料や屋根葺き材料の萱刈りは,いきおい女子の分指作業となる。「縁で添うとも柳沢は嫌だよ,女が木を伐る萱を刈る」の民謡(縁故節)は,柳沢の生活の厳しさを描写したものといえよう。

 

○やまたか・山高

〔世帯〕95

〔人口〕351〉

村の中央部。大武川河成段丘上に立地。同河成段丘面は,大武川氾濫原との比高50m以上。集落は周辺の地よりもはるかに高い段丘上にあるので,山高の地名が生じたと思われる。北は大武川の氾濫原を隔てて三吹,東は牧原,南東一帯は同じ段丘上の黒沢,北西は柳沢に接する。西部に真原の集落がある。地内中央部に食い込むように甲斐駒ゴルフ場(黒沢地域)がある。柳沢地内南端に2か所飛地がある。県道横手日野春停車場線が北東都を横断する。武川中学校がある。集落東端の日蓮宗実相寺には樹齢1,OOO年以上といわれる国天然記念物の山高神代ザクラがある。中世,武田氏の支族一条氏がこの地に拠って山高氏を称し,武川衆武士団の頷袖となったことから,その集落形態には,山高氏居館を中心に設形さされた趣きが認められる。

 

きたこまぐん すたまちょう・北巨摩郡須玉町(現北杜市)《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

きたこまぐん すたまちょう・北巨摩郡須玉町(現北杜市)《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

《現況》

〔成立〕昭和30年(1955)3月31日,若神子(わかみこ)村・穂足村・多麻村・津金村の4か村が合併して成立・

〔面積〕174.18km

〔世帯〕2,368

〔人□〕7,993人

〔地形図〕金峰山・御岳昇仙峡・八ケ岳・韮崎

〔町の花〕サツキ

〔町の木〕シラカバ

〔町役場・現北杜市須玉支所〕〒408-01山梨県北巨摩郡須玉町若神子2155番地

〔町名の由来〕町の中央を流れる須玉川にちなむ。

 

《立地》《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

須玉川流域の純農村地帯県の北西部,北巨摩郡

北東部に位置する。八ケ岳および茅ケ岳のすそ野に抱かれ、釜無川水系に属する須玉川などが南流する。北部と東部は山地でそれぞれ長野県南佐久郡南牧村・川上村および甲府市に接し,南は明野村・申巨摩郡敷島町韮崎市,西は武川葛か村・長坂町・高根町に接する。純農村地帯で,米作を中心に高原野菜・果樹の栽培,畜産業などが盛ん。町域南端を国鉄中央本線がよこぎる。

 古来甲信を結ぶ交通の要地であり,江戸期には佐久往還が,最近では中央自動車道が通り,須玉インターチェンジも完成した。

 

《沿革》〔原始・古代〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

縄文時代の集落縄文時代の遺跡は28か所知られ,前.中.後.晩期にわたっている。その1つである下津金の御所前遺跡は縄文中期に栄えた集落址で,昭和56年に実施された発掘調査では14軒ほどの住居趾が発見されている。また上津金の原之前遺跡からも中期の遺物が報告されており,この地域に豊かな文化が展開したことを裏づけている。その他,後・晩期の遺跡として桑原遺跡が調査され,敷;百住届圭止が2軒出土した。

豊富な縄文時代の遺跡に比べ,弥生時代以後は少ない。

弥生時代の遺跡では大豆生田(まみょうだ)遺跡,

古墳時代では若神子の湯沢古墳と馬具・直刀が出土したと伝えられる聖人塚古墳が知られているにすぎない。

平安期の遺跡では大小久保遺跡から土師器を生産した窯趾群や瓦の出土を伴った工房批が発掘されている。

供給地域など詳細はまだ不明だが,9世紀後半ごろの土器などの生産技術や生産体制を探るうえで重要な遺跡である。

なお律令制下,町域は巨麻郡速見郷に属したとする見方が有カである。

 

《沿革》〔中世〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

甲斐源氏〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

甲斐源氏の根拠地治承4年(1180)8月、平家打倒の兵を挙げた武田信義らの甲斐源氏は,信濃国へ入り,平家方の伊奈郡大田切郷の城に菅冠者を襲って自殺させた後,帰国して逸見山に宿営した。源頼朝から派遣された北条時政をそこに迎え,やがて彼らは時政とともに同地を去って,石和御厨に集結した(吾妻鏡)。

この逸見山は当時この地方を領していたと思われる逸見氏の若神子の居館を指すと推定されている。

若神子は甲斐源氏の拠点の1つであったのであろう。しかし,逸見氏の没落とともにその役割は薄れ,武田氏の嫡流となった石和信光の本拠石和へと中心は移っていった。

当町東向の信光寺は承久3年(1221)信光の開基というが,信光と当地域の関係は明らかではない。

鎌倉期の建長5年(1253)の「近衛家領目録」に逸見荘が見え,当町南部は同荘の域内であったらしい。また,当町北部の比志が山小笠原荘内であったと記す史料があり、明野村辺りに中心のあった山小笠原荘が当町域まで深く入り込んでいた可能性がある。

 

海岸寺〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

なお上津金の海岸寺は,南北朝期の高僧石室善玖が開山したという古刹である。石室は元に渡って臨済禅を修め,帰国後は京都の万寿寺天竜寺や鎌倉の建長寺などに住んだが、元中年間(1384~92)の初め頃,当時逸見地方を領していた豪族逸見氏の要請により,海岸寺を開いたといわれる(甲斐国社記・寺記)。

 

〔津金衆〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

戦国期の武田氏家臣団の中には,衆あるいは党とよばれる辺境武士団があったが,当地域内には津金衆と小尾党(衆)があった。「国志」によると津金氏は常陸国(茨城県)の佐竹氏の出身で,武田信昌のとき薩摩守胤義とその子美濃守胤秀が甲斐にきて仕え,津金郷と信州佐久郡の一部と上野国の一部を領して,津金氏と名乗った。その子孫からは小尾・比志・小池・箕輪・海ノロ(うんのくち)・村山・八巻・清水・井出・鷹(高)見沢・河上の諸氏が分出し,この武士集団は津金衆とよばれた(国志)。

津金郷は須玉川東岸に沿う山地で,信州佐久郡の平沢へ抜ける通路があった。

現在下津金に古宮城(古官屋敷)跡,上津金に源太城跡が残っていて,それぞれ津金氏の居館,要害城所在地とみられている。

塩川の上流で,穂坂路から信州佐久郡河上へ抜ける国境に住んだのが小尾党で,津金衆の一派であった。津金衆・小尾党は諏訪口の武川衆同様国境警備の任にあたっていた。

 

〔津金衆・徳川・小田原北条氏侵入〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

小田原北条氏の侵入天文9年(1540)春,武田信虎は,信濃佐久郡を攻略し,海ノロ(長野県南佐久郡)に伝馬制を実施したが,このとき津金氏は,信虎から伝馬免許の印判状を与えられている(信州津金文書)。津金衆が甲信を結ぶ陸上交通の面で活躍したさまがうかがわれる。

天正10年(1582)武田氏滅亡後の徳川・北条両氏による甲斐国争奪戦では,北条氏直の大軍が侵入した巨摩郡北部が主戦場であった。氏直は若神子に本陣を置き,在地の武田遺臣に臣従を要求したが,津金修理亮胤久・小尾監物祐光・跡部又十郎久次・小尾彦玉郎正秀・小池筑前守信胤ら津金衆はこれを拒否し,逆に徳川家康に従って,江草城に籠っていた北条軍を撃破した。江草城は一名獅子呼し城といい、武田信満の三男江草兵庫助信康が応永年問(1394~1428)の頃築いたものと伝え、大豆生田の砦は,北条氏侵入のとき築かれたものであり、この砦に拠った藤巻(御岳衆か)は北条方に属したという(国志)。

なお「甲陽軍鑑」によると、天文5年(1536)武田信虎の信州海ノロ城攻略のとき,16歳の長男晴信(信玄)が初陣でこれに加わり,信虎の撤退にはしんがりをつとめたが,急に引き返して城を攻め,ついに陥落させたという。この戦いの史実については疑間があるが,若神子の路傍には敵将平賀源心と伝える墓があり,正覚寺にその牌子も残っている。

 

《沿革》〔近世〕江戸期の村々と支配の変遷《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

慶長6年(1601)に須玉川西岸,

慶長7年に東岸の検地が実施されたが,当地域には武田氏遺臣が旧領を安堵された知行地が多く,

藤田・大豆生田両村は屋代越中守,

東向・穴平両村は三枝土佐守,

大蔵・小倉両村は真田隠岐守,

小尾村と上津金村の一部は小尾彦左衛門、

下津金村の一部は跡部勘五郎の所領であって,

蔵入地は若神子・江草・比志の3か村と上・下津金の各一部にすぎなかった。

境之沢は江戸期以前から村をなしていたが,行政上の便宜から若神子のうちとされ,慶長11年には若神子新町が分離独立したので,江戸期における村数は実質14か村であり,いずれも巨摩郡逸見筋に属した。

 

〔津金衆と武川十二騎〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

・慶長12年から武川・逸見両筋の在地武士12人が,2人ずつ10日交代で甲府城を警固することになった。いわゆる武川十二騎で,この中には津金衆の跡部十郎左衛門胤信と小尾彦左衛門重正がいた。

・元和2年(1616)徳川忠長が甲府城主になると甲斐国に知行地をもつものはすべて忠長の家臣とされた。

寛永9年(!632)忠長が改易されるとともに家臣も追放され,甲斐と無縁の旗本が多く知行するようになるが,津金衆のほとんどは旧領への複帰を許された。

・慶安4年(1651)甲斐国笛吹川以西の大部分は徳川綱重が拝領し,

・綱重が甲府城主になってからは寛文6年(1666)と貞享2年(1685)に当地域を検地し,各村とも石高を増した。

・その後宝永元年(1704)12月から約20年間は甲府藩領(柳沢氏)となり,

享保9年(1724)以降幕府領として甲府代官所の支配に服した。

・やがて三卿領が設定されると,一橋家・清水家の所領となった村もあるが,「1日高1日領」では全村幕府領として見える。

 

〔佐久往還〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

甲府から当地域を通って信州佐久郡に至るいわゆる平沢口には,津金の山地を経る道筋と若神子を通過する平坦な道筋とがあったが、江戸期になると軍用を主とした前者は廃れ、後者は佐久往還または佐久甲州街道とよばれて繁栄した。富士川水運によってもたらされた信州あての物資は,鰍沢河岸で陸揚げして馬背または小舟で韮崎へ送り,ここから佐久方面向けのものはすべて佐久往還を通り輸送された。

要衝の若神子には宿駅が置かれ,上りは中条宿(韮崎市),」下りは黒沢宿(高根町)との間の人馬継立を担当した。当地域は甲斐国で最大の米産地であり,主穀生産のほかには養蚕が営まれたが,東部の山問では薪炭生産などの山稼ぎが多かった。また,14か村の1村あたり平均持馬数は53疋と高率であり(国志),農耕以外に佐久往還の駄賃稼ぎなどにも使用されていた。

 

須玉町の近現代〕行政区画の変遷《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

当町域の江戸期の村々は,

明治元年甲府県,甲斐府,

明治年甲府県の管轄を経て同4年山梨県下となる。

明治7年には新沢村(若神子新町・境之沢の2か村)・穂足村(大蔵・藤田・大豆生田の3か村)・津金村(上津金・下津金の2か村)が、

明治8年には増富村(比志・小尾の2か村)・豊田村(穴平・小倉の2か村)・若神子村(若神子・新沢の2か村)が成立し,

明治11年村々は北巨摩郡に所属した。

明治22年市制町村制施行により若神子村(若神子村と豊田村穴平)・多麻村(東向村と豊田村小倉)が成立し、穂足村・津金村・江草村・増富村はそれぞれ1村で存続した。

昭和30年若神子村・多麻村・穂足村・津金村が合併して須玉町となり,

昭和31年江草村を,同34年増富村編入し現行の須玉町となる。

 

〔すすむ近代化〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

〔道路〕

江戸期以来の佐久往還は,

大正9年県道甲府長野線,

昭和28年には2級国道清水上田線となり、

昭和40年から現在の国道141号の名称となったが,この間改修と舗装が進められた。

昭和51年12月には中央自動車道韮崎~小淵沢間が開通、同時に須玉インターチェンジも完成した。

昭和52年7月には須玉バイパスも完成した。

中央自動車道の開通は、当町と首都圏・中京・京阪神方面を結び,産業の振興に大きな役割を果たすものと期待されている。たお国鉄中央本線が町域の南端をよこぎるが、駅は設けられておらず,当町の交通の中心は鉄道ではなく自動車交通である。

国鉄韮崎駅から山梨交通バスが通っている。

〔教育〕

  • 教育面をみると

大豆生田にある県立須玉商業高校(現北杜市所)は昭和34年に県立峡北高校須玉分校商業科として発足し,同38年7月に独立して現校名となったものである。

昭和30年に1日4か村が合併、さらに翌年に江草村を合併すると中学校の統合問題が起こり,約10年の年月を経たのち、同43年に須玉・津金・江草の各中学校が統合され須玉中学校が誕生した。

〔産業〕

・産業面では、現在も沖積地や河岸段丘上は水稲栽培が中心であるが,生食用のトマト・キュウリ・レタスなどの高原野菜の生産や倭化リンゴ・ソルダムなどの果樹栽培も進められ,また町域総面積の86%を占める山林の資源を生かす道が探られている。シイタケ栽培はその一例である。また,肉牛の飼育なども盛んとなってきた。近年,工場も誘致され,昭和50年には事業所52,従業員7{8人を数えた。

〔増富ラジウム鉱泉

世界一の含有量を誇る増富ラジウム鉱泉は,昭和40年厚生省から国民保養温泉に指定され,付近の東洋一ともいわれる白樺林のつづく瑞牆(みずがき)山・金峰山とともに観光客を集めている。

当町は秩父多摩国立公園の西の玄関口に位置し。道路綱の整備とあいまって、観光面で今後の発展に期待がもたれている。

 

《史跡・文化財文化施設

国天然記念物に根古屋神社の大ケヤキがあり,県天然記念物に遠照寺のアカマツ,比志神社の大スギ,須玉町日影のトチノキ,県文化財に比志神社本殿付棟札がある。

 

須玉町の現行行政地名》《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

〔あなだいら・穴平〕

町の南西部。北西は高根町,東は須玉川を境に小倉に接し、南は若神子に続く。県道箕輸須玉線が地内中央を縦貫する。すべて農業地域。水稲果菜類・果樹の栽培,養蚕などを行う。諏訪神社曹洞宗見明寺・日蓮宗遠照寺がある。遠照寺境内のアカマツは県天然記念物,二日市場の六角石幡は町文化財

 

〔えぐさ・江草〕

町の南西部。斑(まだら)山と茅ケ岳に囲まれた山間の村。中央を塩川が南西流し、南は明野村、北東は比志に接する。塩川に沿って主要地方道韮崎増富線が通る。山地の多い農林業地域。主な産物は水稲果菜類・木材・薪炭など。江草小学校・

岩下小学校・江草郵便局・江草警察官駐在所・唐土神社・神明社・伊勢神明社(2社)・根古屋神社・秋葉神社・十五所神社・津島社・勝手子安神社・臨済宗見性寺・曹洞宗光厳寺がある。根古屋神社の大ケヤキ(国天然記念物)、また獅子吼(ししく)城跡がある。下平遺跡・上ノ原遺跡・押出遺跡など縄文時代の遺物散布地が多い。

 

〔おおくら・大蔵〒〕

町の南西部。西を須

玉川が南流して若神子との境をなし、東は塩川が明野村との境をなす。地内を県道小倉百観音線が縦貫する。すべて農業地域。水稲果菜類・果樹の栽培・養蚕などを行う。穂足小学校のほか社寺には稲荷神社・三島神社臨済宗少林寺がある。塚田遺跡は平安期~中世の遺跡である。

 

〔おび・小尾〕

町の北部。北は信州峠を隔てて長野県川上村,南は比志に接する。中央部西寄りを主要地方道韮崎増富線が縦貫する。塩川流域にわずかに水田が開け,本谷川北岸の東小尾には厚生省指定保養温泉地増富温泉郷がある。東北小学校・増富中学校・町役場増富支所・増富保育園・増富警察官駐在所があり,社寺には塩川神社・西山社・神部神社・若宮八幡神社・東屋神社・丹生沢神社・常磐社・臨済宗正覚寺がある。

和田地区の五輪塔は町文化財。大柴・板屋・上の平・千石・村の内は縄文時代の遺物散布地である。東端の瑞絡山周辺と,塩川から増富に至る本谷川沿いの通仙峡は,それぞれ紅葉の名勝として知られる。また本谷川上流の金山では,例年,奥秩父の父といわれる木暮理太郎をしのんで木暮祭りが行われ,多くの岳人が集う。

 

〔かみつがね・上津金〕

町の西部。北と東は秩父山地の支脈に囲まれ,西は須玉川を隔てて高根町,南は下津金に接する。中央を県道清里須玉線が縦貫する。山間の農業地域。水稲・呆菜類・果樹の栽培,養蚕などを行う。稲荷神社・諏訪神社臨済宗海岸寺がある。海岸寺観音堂は町文化財,また石仏の観音像が多数ある。原之前・西原・相の原各遺跡は縄文時代の遺物散布地。

 

〔こごえ・小倉〕

町の西部。斑山南麓の尾根と須玉川に挟まれた地域。西は須玉川を境に穴平,東は東向に接する。すべて農業地域。水稲・果菜・果樹の栽培などを行う。多麻小学校・須玉中学校,社寺には八幡神社日蓮宗見本寺,また桂精機製作所山梨工場があり三尾根の中ほどに中尾城跡がある。

 

〔さかいのさわ・境之沢〕

町の南西端。韮崎泥流台地上に位置し,南は韮崎市,北から西は若神子新町に接する。すべて農業地域。主な産物は水稲・呆菜類・果樹など。諏訪神社曹洞宗円通院がある。

 

〔しもつがね・下津金〕

町の西部。秩父山地の支脈に抱かれた山懐の村。西は須玉川を隔てて高根町,北は上津金に接する。西部を県道清里須玉線

が通る。すべて農業地域。主な産物は水稲果菜類・果樹など。津金小学校・津金保育園・津金郵便局・熊野神社・天狗社・藤岡神社・諏訪神社1曹洞宗の長泉院・東泉院・養泉院がある。御所前遺跡は縄文時代中期の遺跡。

 

〔とうだ・藤田〕

町の南西部。県道小倉百観音線と塩川に挟まれた地域で、北から西は大嵐、南は大豆生囲,東は明野村に接する。国道141号が南西境をかすめる。国道沿いの商店街と周辺の農業地域とからなる。主な産物は水稲・野菜類など。伊勢神社・刈穂稲荷社・曹洞宗顕光寺・塩川病院・韮崎消防署須玉分暑・母子健康センター・穂足警察官駐在所・山梨中央銀行須玉支店がある。

〔ひがしむき・東向〕

町の南西部。斑山の南麓、東は塩川の断崖を隔てて仁田平に接し,南は明野村,西は小倉に接する。県道増富若神子線が地内

の中央を走る。すべて農業地域。水稲果菜類の栽培,養蚕などを行う。多麻郵便局・多麻保育園・八幡大禅社・曹洞宗信光寺がある。西大久保遺跡は縄文時代の遺物散布地。

 

〔ひし・比志〕

町の中央から東部。秩父山地の横尾山・金峰山・茅ケ岳などに囲まれた山間の村。北は小尾,南東は甲府市に接する。ほとんどが山地で,塩川とその支流沿岸にわずかに水田が開ける。林業と農業の村。北小学校・老人ホーム長寿荘・増富郵便局・塩川ダム現場事務所があり、社寺には比志神社・山神社・天神社・富土浅間神社,曹洞宗の徳泉寺・如意寺がある。比志神社の本殿(付棟札)は県文化財,同神社の大スギと日影のトチノキはともに県天然記念物,比志のエゾエノキは町天然記念物である。縄文時代の遺物散布地馬込・郷蔵地・焼牧・四辻などがある。

 

〔まみょうだ・大豆生田〕

町の南西部。塩川と須玉川に挟まれた地域。地内の南東端で両川が合流する。北は藤田・大蔵,西は須玉川を隔てて若神子,南は須玉川を隔てて韮崎市に接する。中央を中央自動車道と国道!41号が南北に走り,須玉インターチェンジ日本道路公団須玉料金所がある。国道沿いの街村のほかはすべて農業地域。水稲果菜類・果樹などを産する。諏訪神社曹洞宗昌福寺のほか県立須玉商業高校・穂足郵便局があり、縄文・弥生時代、平安期の遺跡大豆生田遺跡と大豆生田砦跡がある。

 

〔わかみこ・若神子〕

町の南西部。東は須玉川が南流し大蔵との境界をなす。北から西は高根町に接する。東部を国道14!号が縦貫し、小尾街道との分岐点をなす。ほぼ中央を東流する鳩川の北を中央自動車道が通る。国道沿いの商店街と周辺の農業地域とからなる。主な産物は水稲・繭・果菜類・果樹など。町役場・須玉町農協・須玉郵便局・申央公民館・若神子警察官派出所・韮崎信用組合須玉支店・協和工機工場・若神子小学校・若神子保育園,神社には三輪神社・諏訪神社・東屋神社・鉾立神社があり,寺院には

浄土宗誓福寺・時宗長泉寺・臨済宗東漸寺・曹洞宗正覚寺日蓮宗妙円寺がある。正覚寺源義光・義清父子の位牌を祀る。長泉寺の板碑,三輸神社の石幅はともに町文化財。地内東漸寺橋付近の小高い城山と呼ばれる丘に、旧塁址3か所のほか湯沢古墳・大小久保遺跡があり,上宿に平賀玄心の首塚がある。

 

〔わかみこしんまち・若神子新町〕

町の南西部。韮崎泥流台地上に位置し,東は境之沢,北から西は若神子,南は韮崎市に接する。地内の中央を南北に幹線道が通り,国鉄中央本線と交差する。すべて農業地域。主な産物は水稲・繭・呆菜類・果樹など。神明社・浄土宗正行寺がある。地内には中神遺跡・玄関遺跡・肥道遺跡など縄文時代の遺物散布地が多い。

 

 

須玉町(すだまちょう)『山梨百科事典』山梨日日新聞社

 

山梨県北巨摩郡の町名。人口9373(1970年10月1日)、面積174平方㌔㍍。役揚所在地は若神子で、標高535㍍

【概況】

郡の東北部に位置し、八ケ岳、茅ケ岳のすそ野に抱擁され・北部・東部は山岳重畳で信州南佐久と甲府市、南は韮崎市明野村に、西は清流須玉川に沿って高根町・長坂町に接している。町の中央を南北に貫く国道141号線・県道7路線、町道141路線。米・麦・養蚕を主としているが、1965(昭和40)年ころから、生食用トマト、キュウリ、レタス、肉用牛飼育など盛ん。

秩父多摩国立公園の主峰金峰山・瑞牆(みずがき〕山を中心としての増富ラジウム温泉は1965(昭和4)年8月、厚生省から国

民保養温泉の指定を受け、付近の数多い景勝地と合わせて、訪れる観光客は多い。瑞牆山は、韓国の金剛山に似かよう奇岩が連鎖し絶景。木賊峠・金山平、富士見平はキャンプ・ハイキングに・通仙峡の渓谷、奇岩は関東の耶馬渓ともいわれる。アユ、ヤマメ、イワナ釣りとともに、ハイカーは年々増加。

7月30日のおほうとう祭りは有名。武田信玄が逸見を通過する際、武士たちに力をつけさせるため新鮮なアズキ、小麦に、砂糖の代わりにカボチャを入れた「あずきぼうとう」を食わせた古事からきている。

【沿革】

須玉川、塩川の流域にあって山林は深く、地味の肥えた耕地が発達し気候もよく、恵まれた環境にあるので往古は甲斐源氏の一族逸見氏が根拠を定め、多麻庄の中心地として繁栄したようだ。武田信玄の時代にしばしば当地に宿陣を構え、また北条氏直がここに本陣を敷いて徳川家康と対戦したこともある。

1955(昭和30)年3月31日、須玉川が貫流する若神子、穂足・多麻・津金の4村が台併、須玉町となった。

1956年9月30日、塩川沿いの江草村、

1959(昭和34)年4月1日、増富村編入合併された。

<学校>

須玉商業高等、増富中、須玉中、若神子小、須玉北小、須玉東北小、穂足小、多麻小、津金小・江草小・岩下小・

<観光地>

金峰山瑞牆山木賊峠・金山平・富士見平・通仙峡、増富国民保養温泉祭り・御柱祭(若神子の諏訪神社・5月5日)おほうとう祭り(若神子の三輪神社・7月30日)〉

<指定又化財>

比志の比志神社木殿付棟札1(県)・江草の根古屋神社大ケヤキ(国)・比志の比志神社大スギ(県〕>町木シラカバ

<町花>サツキ〉

<出身有名人>川手甫雄(元代議士)、篠原治郎(元束京地裁判事)

<町歌>

・須玉音頭

馬頭浅草 観音まつり 須玉じまんの御柱 しし城阯の古跡を忍び 主と手をとりマダラ山 シャンシャンガシャンと打ち 須玉音頭でひとおどりひとおどり。<矢崎誠>

 

白須(「角川日本姓氏大辞典19山梨県」)

白須(「角川日本姓氏大辞典19山梨県」)

白須しらす白洲・白数とも書く。

巨摩郡郡白須之郷(北杜市白州町)発祥の族は清和源氏義光流武田氏族という.『武田系図』に「甲斐守信長―信綱―時信-貞信(白須次郎)」とみえる。

太平記』によれば観応3年(1352)3月足利尊氏が武蔵府中で新田義貞と戦ったときに、武田信武以下甲斐の諸将が信武に従って尊氏方として参陣したが、そのうちの一人に白洲上野守がみえる。『一蓮寺過去帳』に白洲蔵人がみえ、長禄元年(1457)12月武田一門と跡部氏が戦った小河原合戦で討死したとある。

甲斐国志』には、岩殿の円通寺(大月市)棟札に白洲信重、巨摩郡宮原村(甲府市)の鎌田八幡宮の天文五年(1532)の棟札に柁那中島(河東中島、昭和町)の住人白須神左衛門の名がみえる。

また、天正3年の長篠の戦では、武田信豊の配下に白須又市がおり、子供の平次は武田信勝の小姓であった。

平次は『甲斐国志』所収の『武家盛衰記』によれば、武田氏滅亡後徳川家康の小姓として仕えたが、ほかの小姓衆と口論して家康のもとを離れて稲葉道通に仕えた。白須又兵衛となのり、のち豊後臼杵(うすき)藩稲葉家の家臣として続いた。

 『寛政譜系譜』には幕臣として白須十兵衛道政を祖とする、ニ家があり、白須貞信の後喬という。道政系は1050石取りの旗本であった。天正起請文には廿人衆のうちに白須伝兵衛がみえる。また、甲斐にはもう一つ別系の白須氏がある。「下吉田村落史」所収の、「白須家系図」によれば清和源氏満仲流を称し、武田信玄重臣馬場信房の子政信が都留郡下吉田村(富士吉田市)の新屋敷に居住して白須平太郎となのり大正一七年に死去、子には政豊(小太郎)・政春(小治郎)がおり、母は小林和泉守の娘であった。政春の子弥左衛門は下吉田村の名主を勤め、弟の白須小兵衛の子は渡辺家の祖となった。

『峡中家歴鑑』に載る南都留郡瑞穂村吉田(冨士合田市)の白須孝一家の先祖は白須刑部少輔政義であるが、遠祖については、多田満仲五代の子孫という兵庫頭仲政が馬場を称し、孫の中宮少左衛門尉兼綱が白須郷に来住したのがはじめで、政義はその孫で白須に在住した馬場信房の次男で、分家しで、瑞穂村吉田に移り白須をなのったといい、武田晴信・勝頼に仕えたのち、徳川氏に従い小田原合戦で戦死したと伝える。県内、160戸、富十吉田市に多い.【割菱・丸に違い鷹の羽・亀甲の内輪遠い】

 

因みに云う、ある説にその頃武川に白須某という者有り、身貧にして刀も今は売り代かへ常に府に出で、此処彼処に寄食せり。ある時、その方の人々三四人、自須氏を誘い京師(京都)に遊ぶ。相人あり、白須氏を視て驚きて云う、足下登く本国に帰るべし。三十日を過ぎ必ず大きな幸いあらんと。近頃斯如し富責の相を視ず。若し違うことあらば、僕又人を相せすと人々敢て信ぜず。笑いて止みぬ。既にして国に帰る程なく江戸より召す人ありて使い来りて催しければ人々旅装を繕い江戸へ赴かしめき今年を歴ればその事慥(たしか)ならんとなん。

甲斐の行基伝説 甲斐 縄文時代最大級の天神堂遺跡

甲斐の行基伝説

 

(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 一方、湖水の水をとりのぞいたのは、僧の行基であるという伝説もある。元正天皇の養老年間(七一七~二四)に行基甲斐国に遊行したとき、南山を切りひらいて水を富士川に流したので、国びとがその徳を感謝し、禹王の徳になぞらえて禹の瀬と命名したという。しかしこれらは、人のあらわれない地質時代甲府盆地湖水説を、歴史時代のできごとととりちがえた伝説というべきであろう。

 

甲斐 縄文時代最大級の天神堂遺跡

 

(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 氷河期と問氷期の交代がくりかえされて人類が出現し、活動をはじめたのは、洪積世のことである。この期間の動植物の存在が、山梨県下でもつぎつぎに確認されてきている。白根山や赤石山系には、氷河の侵蝕で形成されたカール(圏谷)地彩がみられ、桂川富士川水系等の河谷や甲府盆地周縁地域には、ひろく洪積層の堆積がみられる。山梨市八幡南からは、全国各地で発見されている洪積世後期の象類であるイソド系ナウマン象の歯や骨片が、洪積層のなかから発見されている。

 洪積世人類については、昭和六年(一九三一)に兵庫県明石で腰骨の化石が発見され、その後、愛知県牛川、静岡県三ケ日・浜北などでも化石人骨が発見されている。まだ土器は製作せず、打製石器を使用するだけの旧石器文化は、先土器文化または前縄文文化と名づけられている。まだ明確にされていないが、この時代の末期につくられた尖頭石器や細石器は、縄文早期の石器と製作手法が似ているといわれている。昭和二四年群馬県岩宿の関東ローム層から打製石器が発見されてから、日本の先土器遺跡の存在もやや明らかになり、全国各地で調査研究がすすめられてきた。

山梨県内でも、昭和二八年に東八代郡米倉山(中道町)で礫核器、剥片石器、石刃など先土器時代の遺物が発見されて、県下各地で発掘調査がはじめられた。四一年に大月市宮谷の桂川中位段丘から宮谷石器とよばれる細石器、荒割り敲打石器が確認された。四三年には豊當村浅利から石刃などが発掘され、つづいて甲府盆地底部の上石田町からも石刃が発掘され、山梨県の先土器遺跡がつぎつぎと紹介されている。

 翌四四年に富士川流域の富沢町万沢小学校校庭で、二一〇〇平方メートルの地域にわたり上下二層から石器が発掘された天神堂遺跡は、本格的な先土器時代の遺跡といわれ、三〇〇におよぶ遺物の数や規模などから、全国的にみても最大級に近いものといわれる。斧形石器、縦長剥片、石核、石刃、ナイフ形石器など各種石器が出土し、黒耀石も多い。

 黒耀石は県下各地で発掘されているが、山梨県ではその産地が見あたらず、長野県の和田峠に産出されるところから、すでに先土器時代に交換経済が発達していたことが推測される。その他、大月市の袴着遺跡や中道町下向山遺跡などが先土器遺跡として有名である。

 

なまよみの甲斐の夜明け

山あいの国 山梨県

 

(『郷土史事典』 風土と歴史と人 山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 山梨県は、背の甲斐一国をそのまま境域としてなりたっていて、甲斐の国名が峡に由来しているように、どちらをむいても山また山である。北部から東部へかけては関東山地で、金峰山国師岳・甲武信番・雲取山などは、いずれも二〇〇〇メートルをこえており、八ケ岳から南へつらなる赤石山脈(南アルプス)には、駒ケ岳・仙丈ケ岳.北岳(白根山)・間ノ岳農鳥岳など三〇〇〇メートル級の峻険がひしめいている。また南側は、富士山をはさんで丹沢山地天守山地がふさいでいるので、さながら天然の国境をめぐらしたかの観がある。

 全体に起伏が複雑な地形から、気候は地域差が大きいが一般に内陸性である。甲府盆地の夏はとくに暑く、ほとんど連日三〇度をこえる半面、山地の冬には積雪期間が三カ月以上のところもある。雨量は比較的少ないが、局地的豪雨や台風におそわれると、たちまち洪水の難にあうことがめずらし<ない。

 県土の総面積四四六三平方キ日余のうち、ほぼ中央を商北に走る大菩薩連嶺と御坂山地が、大きく地域を東西に分断していて、古来東を郡内とよび、西を国中とよんでいる。国中には肥沃な甲府盆地が中心にあり、北東からの笛吹川と北西からの釜無川が、市川大門付近で合流して富士川になっており、笛吹川以東は東郡(ひがしごおり)、釜無川中流の石岸は西郡、両者の中間地帯は中郡(なかごうり)、富士川両岸は河内と慣称されている。国申には「和名抄」所載の山梨.八代.巨摩の三郡があり、米麦生産のほかに蚕糸業が発達したが、現在は甲府・韮崎・山梨・塩山の四市と、六郡中三十三町十二村があって、全国有数の大果樹地帯を形成している。

 郡内の大部分は、相模川上流の桂川水系の地で、古くは都留一郡だったが、明治の三新法で南北二郡に分れ、戦後は大月.都留・富士吉田の三市が誕生した。平地がとぼしく地味もやせているため、近世以来農業よりも機織など余業への依存度が大きく、江戸市場を中心とする関東地方との結びつきがつよかった。この傾向は基本的には現在も変らないし、風習や方言は国中よりも関東に近い。

 

「武田節」のふる里

 

(『郷土史事典』 風土と歴史と人 山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 甲州の古い民謡で全国的に有名なものはほとんどないが、昭和22年につくられた新民謡「武田節」なら、日本中の誰もが知っている。戦国時代に中部地方の大半を領国におさめ、西上作戦にうって出た武田信玄は、何といっても山梨県人の誇りであり、勇壮なメロディーをもつこの歌には、愛郷の念がみちあふれている。

 江戸後期の農学者佐藤信淵は「農政本論」のなかで、治水事業をはじめ信玄のすぐれた民政を指摘しているが、当時の甲州民の信玄讃仰も、戦略ではなく民政の面においてであった。ながらく天領下におかれた甲州では、人数も少なく任期もみじかい代官所役人になじみがうすく、対立がおこるような場合にしのんだのが、信玄公の古いよき時代だった。農民にとって都合のよい大小切租法・甲州枡・甲州金の三法を、信玄の遺徳とする伝承もここから生れた。しかし、三法が許されたのは国中の三郡だけだったし、郡内の人びとは国中を指して甲州とよび、武田氏の候統とは異る世界を自認していた、郡内の独自性は、偉令制の崩壌に乗じて小山困氏が侵入して以来、国中の甲斐源氏に対抗する政権を築いたところからおこり、信玄の盛時にもその相対的独立を承認せざるを得なかった。したがってそこに三法の伝承が生れる余地は、はじめから存在しなかったのである。

 県都甲府は、武田氏の信虎・信玄・勝頼三代の城下町だったのにはじまる。武田黄の滅亡後、今の甲府駅前に甲府城ができ、城南を中心に新しい城下町が建設されるにあたっては、旧城下町から移転した人びとが草分けとなった。そのなかには武田御家人の子孫で商人にあった者が多く、町年寄や長人には主にこれらの人が任命された。

 

そとからみた県民性

 

(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 きびしい甲斐の風土と歴史環境が、どのような人柄をはぐくんできたかについて、大正初年に刊行された「東山梨郡誌」は、当時の評論家山路愛山の観察を、つぎのように紹介している。

 国民(県民)の性格は一言にしていえば、人生の修羅場なる意義を極めて露骨に体得したるものなり。彼等の租先は痩せ地に育ちたるが故に、生存競争の原理を極めて痛切に感ぜざる能はざりき。彼等は人生を詩歌の如く眺めること能はず。彼等にありては、人情も詩歌も夢幻も、要するに薄き蜘蛛の巣の如きのみ。

 彼等は人生をまだ戦場なりと自覚す。故に奮闘す。(略)往々にして極端なる自已中心主義なり。去れど彼等はこれと共に堅忍不抜なり。直情径行なり。其向ふ所に突進して後を顧みざるなり。故に彼等は財界の雄者として成功す。彼等の理想は勝利なり。他人を圧倒することなり。人生の思想を露骨に語りて、何の掩(おお)ふ所なきなり。

半世紀以上前の評であるが、はたして現在はどうであろうか。謙虚に省察の資としたい一文である。

 

なまよみの甲斐の夜明け 甲府盆地の湖水伝説

 

(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 甲斐国の中心甲府盆地は、太古に大湖水であったという。甲斐の人びとは、湖水の周辺の山腹や丘陵に住んでいて、湖水の水を払い、そのあとを田や畑にしたいと願っていた。そこで人びとは神の助けをかりて、下流の大岩を切りひらいて干拓をなしとげ、現在の甲府盆地が出現したという内容の伝説が、いくつか生み出された。

 これらの伝説は、甲斐国をゆたかな実りのある国にしようとするあこがれと、開発に苦心を重ねた祖先への感謝の気持が生んだものであろう。

 「甲斐国社記寺記」によると、蹴裂明神という神があらわれ、湖水の水の出口をふさいでいた大岩をやぶって富士川へ落したため、分皿地にはじめて人が住めるようになったという。中道町下向山では、この神を向山土本昆古王と名づけ、佐久神社に祀っている。また、石和町河内にも同名の神杜があり、社伝によると、昔甲斐国は海国と称し、一面湖水であったころ、根裂の神は磐裂の神とはかって岩石を蹴裂き、水路を通してから、湖水はしだいに漏洩して浅いものは丘となり、深いものは沼となり、あるいは田畝とたって民人繁殖し、一国?の地となったという。後人はこの二神の徳に感銘して、古く中国の萬王の功にくらべて、かの岩肩を蹴裂きたまえるところを萬の瀬と唱え、人口に伝わり今なお存する処なり、といっている。

 

甲府 穴切神社(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 穴切神杜(甲府市)の社伝には、和銅年問(七〇八~一五)に、時の国司が盆地一帯を占める湖水を千拓しようと、朝廷に奏聞のうえ、大已貴命を勧請し、祈願をこめて千掘に着手した。鰍沢口を切りひらいて富士川に水を落したので広大な田畑が千拓され、甲斐国がみごとな土地をもつ国となった。この神に感謝し、神々を祀り、甲斐国の鎮護の神として崇拝し、穴切神杜と称したとある。「甲斐国志」にも、穴切神杜の三神を祀る由来について、大已貴命と素義鳴尊と少彦名命の三神によって、鰍沢下流の大岩礁を切りひらいて滞水を排出し、干掘をなしとげたので、この神々を祀ってあると記されている。

 

山梨歴史講座 国司等に発せられた令

山梨歴史講座 国司等に発せられた令

詔(みことのり)にみる国司の仕事

  詔(みことのり)・他(『続日本紀』)宇治谷孟氏-現代語訳

 

  1、文武天皇

 

文武天皇 二年( 698)三月  十日 《郡司の選考》

   諸国の国司は、郡司の選考に偏頗があってはいけない。郡司もその職にあるときは、

   必ず法の定め従え。これより以後のことは違背してはならぬ。

   

文武天皇 二年( 698)七月  七日  《奴婢の逃亡》

   官有や私有の奴婢で、民間に逃げかくれたりする者があるのを、届け出ない者があ

   るので、ここに初めて笞(ち・ムチ)の法を定め、奴婢の逃亡中の仕事を弁償させ

   た。その事柄は別式にある。また博奕や賭け事をして、遊び暮らしている者を取り

   締まった。また祖の場所を提供した者も同罪とした。

 

文武天皇 三年( 699)二月二十二日

   天皇難波宮から藤原宮に還られた。

 

文武天皇 三年( 699)五月二十四日

   役の行者小角を伊豆嶋に配流した。

 

文武天皇 三年( 699)十月二十七日

   巡察使を諸国に派遣して、秘法がないか検察させた。

 

文武天皇 四年( 700)十月二十七日 《牛馬を放牧》

   諸国に命じて牧場の地を定め、牛馬を放牧させた。

 

大宝 元年( 701)六月      八日  《官庁の諸務》

   すべての官庁の諸務は、専ら新令(大宝令)に準拠して行なうようにせよ。また国

   司や郡司が大税(田祖)を貯えておくことについては、必ず法規のとおりにせよ。

   若し過失や怠慢があれば、事情に従って処罰せよ。

   この日使者を七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道)に派遣して、

   今後、新令に基づいて政治を行なうことと、また大租が給付される状況を説明し、

   合わせて新しい国印の見本を頒布した。

 

大宝 二年( 702)二月      一日

   初めて大宝律を天下に頒布した。

 

大宝 二年( 702)二月     十九日

   諸国の大租・駅起稲・義倉と兵器の数量を記入した文書を、初めて弁官に送らせた。

 

大宝 二年( 702)二月二十一日

   甲斐国が梓弓を五百張献上したので、それを太宰府の用に充てた。

 

大宝 二年( 702)二月二十八日

   諸国の国司らが初めて正倉の鎰(かぎ)を授けられて任地に戻った。

  

大宝 二年( 702)四月     十三日

   諸国の国造にとめる氏族を指定した。その氏族の名前は『国造記』に詳しく載せて

   ある。

 

大宝 三年( 703)正月      二日  《国司不正の監視》

   諸国の巡視を命じる。東海道は藤原朝臣房前を派遣し、国司の治績を巡視して、冤

   罪を申告させ、不正を正させた。

 

大宝 三年( 703)七月     十三日

   四大寺に金光明経を読誦させた。

 

慶雲 元年( 704)四月      九日  《諸国の国印》

   鍛冶司に命じて諸国の国印を鋳造させた。

 

慶雲 三年( 706)二月二十六日

   甲斐・信濃越中・但馬・土佐などの国の十九神社をはじめて祈年祭に弊帛(みてぐら)を捧げる枠に入れた。

 

慶雲 三年( 706)三月     十四日  《土地利用の適正化》

   高位高官の者たちは、自ら耕作しないかわりに、然るべき棒禄を受けており、棒禄

   のある人々は、人民の農事を妨げることがあってはならぬ。それ故、昔、召伯は農

   民の訴えを聞くのに、その仕事の妨げになってはいけないと、甘棠(かんとう・ア

   マナシ)の木の下に憩い、公休は同じ理由で、自分の園の野菜を抜き捨てて、民の

   野菜を買い求めるようにした。

   この頃、王や公卿・臣下たちが、多く山林を占有して、自分は農耕や播種すること

   なく、きそって貪ることを考え、徒らに土地利用の便宜を妨げている。もし農民で、

   それらの地の柴や草をとる者があると、その道具をとり上げて大いに苦しめている。

   それだけでなく、土地を与えられた土地はわずか一、二畝であるのに、これをより

   どころに峰を越え谷をまたいで、みだりに境界を拡げている。今後このようなこと

   があってはならぬ。ただそれぞれの氏の先祖の墓と、人民の家の周囲に樹木を植え

   て林にした場合、周囲が合わせて二、三十歩ほどであらならば禁止の範囲外とする。

 

慶雲 三年( 706)三月二十六日     《焼印》

   鉄の印(焼印)を摂津・伊勢など二十三カ国に与え、官営の牧場の駒と牛に押印さ

   せた。

 

  2、元明天皇

 

和銅 二年( 709)三月      五日  《蝦夷

   陸奥・越後二国の蝦夷は、野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に害を加える。

   そこで使者を遣わして、遠江駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの国から

   兵士を徴発し、(略)

 

和銅 二年( 709)五月     二十日  《稲、不作》

   河内・摂津・山背・伊豆・甲斐の五国が、降り続く長雨で稲が損なわれた。

 

和銅 二年( 709)六月     二十日

   諸国に命じて駅起稲帳を提出させた。

 

和銅 二年( 709)九月二十六日      《征夷の役》

   遠江駿河・甲斐・常陸信濃・上野・陸奥・越前・越中・越後の諸国の兵士、征

   夷の役に五十日以上服した者には、租税負担を一年間免除した。

 

和銅 四年( 711)三月      十日  《遷都》

   初めて平城京(ならのみやこ)に遷都した。

 

和銅 四年( 711)七月      一日  《勤務成績の評定等級》

   律令を整え設けてから年月がすでに久しい。しかし僅かに全体の一・二が行なわれ

   るのみで、全部を施行することができない。これは諸司が怠慢で、職務に忠実でな

   いからである。単に名前を官職の員数に充てはめるだけで、空しく政務をすたれさ

   せてる。もし律令に違反して孝第(勤務成績の評定等級)を正しく扱わない者があ

   ったら、相当する罪のうち重い方を適用し、許すことがあってはならぬ。

 

和銅 五年( 712)正月     十六日  《諸国の役民、帰路で死》

   諸国の役民が郷里に還る日に、食糧が欠乏し、多く帰路で飢えて、溝や谷に転落し、

   埋もれ死んでいるといったことが少なくない。国司らはよく気をつけて慈しみ養い、

   程度に応じて物を恵み与えるように。もし死に至る者があれば、とりあえず埋葬し、

   その姓名を記録して、本人の戸籍のある国に報告せよ。

 

和銅 五年( 712)五月     十六日

   初めて国司が国内順行や交代の時に、食糧・馬・脚夫を給わる法を定めた。

 

和銅 五年( 712)十月二十九日     《諸国労役の人夫食糧の欠乏》

   諸国の労役の人夫と運脚(調・庸の物を運ぶ)が、郷里へ帰る日、食糧が欠乏して

   調達することが難しい。そこで郡稲から稲を支出して便利な所に用意しておき、役

   夫が到着したら、自由に買えるようにせよ。また旅行する人は、必ず銭を持って費

   用とし、重い所持品のため苦労することのないように、そして銭を使用することの、

   便利なことを知らせよ。 

 

和銅 六年( 713)三月     十九日   《物税運輸する人民の苦しみ》

   (略)諸国の地は、河や山によって遠く隔てられ、物税を運輸する人民は、永い行

   役に苦しんでいる。食糧は充分に整えようとすれば、貢納の数量が欠けることになり、

   重い荷を減らそうとすると、道中での飢えが少くないことを恐れる。そこで各自一

   袋の銭を持ち、道中で炉のある場所で、食事をする時の用に充てれば、労役の費(

   ついえ)をを省き、往き来の便が増すだろう。国司や郡司たる者は、富豪の者から

   募って米を路傍に用意し、その売買を行なわせよ。そして一年間の百斛(ひゃっこく)以上の米を売った者は、その名前を奉上させよ。(略) 

 

和銅 六年( 713)四月     十七日  《諸寺の田記》

   諸寺の田記に誤りがあるので、あらためて規定を改正し、一通は所司に保管し一通

   は諸国の国衙に頒ち置くことにした。 

 

和銅 六年( 713)五月      二日  《郡・郷の名称》

   畿内と七道諸国の郡・郷の名称は、好い字をえらんでつけよ。郡内に産出する金・

   銅・彩色・植物・鳥獣・魚・虫などのものは詳しくその種類を記し、土地が肥えて

   いるか、山・川・原野の名称のいわれ、また古老が伝承している旧聞や、異った事

   柄は、史籍に記録して報告せよ。 

 

和銅 六年( 713)七月      七日    

   美濃・信濃の境界、吉蘇路(木曾路)が開通。

 

和銅 七年( 714)四月二十六日      《職務怠慢》

   諸国の租稲を納める倉の大小や、内に積み貯えた数量は、帳簿に照合すれば食い違

   いはない。そのために国司が交代する日には、帳簿によって引き継ぎし、それ以上

   に調べ直すことをしない。しかし実際は欠け少なくなっていることが多く、徒らに

   形だけの帳簿をつくり、はじめから実数は無い有様である。これはまことに国郡司

   らが、現物にあたって調べていないことによっておこったことである。今後諸国に

   倉を造るときは、およそ三等の規格を設け、大には四千斛・中には三千斛・小には

   二千斛収納するようにせよ。こうして一定量を定めた後は、帳簿に偽りがないよう

   にせよ。

 

霊亀 元年( 715)五月      一日  《課役忌避など》

   天下の人民の多くは、その本籍地をはなれ他郷に流浪して、課役をたくみに忌避し

   ている。そのように流浪して逗流が三カ月以上になる者は、土断(現地で戸籍に登

   録)し、調・庸を輸納させることは、その国の法にしたがせよ。また人民をいつく

   しみ導き、農耕や養蚕を勧め働かせ、養い育てる心を持ち、飢えや寒さから救うの

   は、まことに国司・郡司の善政である。一方自分は公職にありながら、心は私服を

   肥やすことを思い、農業を妨げ利を奪い、万民をみしばむようなことがあるならば、

   実に国家の大きな害虫のようなものである。    

   そこで国司・郡司で、人民の生業を督励し、人々の資産を豊かに足りるようにした

   者を上等とし、督励を加えるけれども、衣食が足るに至らない者を中等とし、田畑

   が荒廃し、人民が飢え凍えて、死亡するに至る者を下等とせよ。そして十人以上も

   死亡するようであれば、その国郡司は解任せよ。また四民(士・農・工・商)には

   それぞれ生業がある。いまその人々が職を失って流散するのは、これまた国郡司の

   教え導くのに、適当な方法をとらないかで甚だ不当である。

   このような者があったら必ず厳重に処罰して見せしめとせよ。これからは巡察使を、

   派遣し、天下を手分けして廻らせ、人民の生活ぶりを観察させる。あつい仁徳の政

   治を行なうように勤め、詩経のことばにある周行の実現を庶(こいねが)うようにせよ。

   婚儀は諸国の人民が、国を越えて往来する際の過所(通行証明)に、その国の国印

   を使用せよ。

 

   3、聖武天皇

 

天平 十五年( 743)正月 十三日

   金光明最勝王経を読誦させるために、多くの僧を金光明寺(大和の国分寺。後の東

   大寺)に招いた。

   (略)仏弟子の朕は宿縁によって、天命をうつぎ皇位についている。そこで仏法を

   この世にのべ広め、もろもろの民を導き治めたいと願っている。云々

 

天平十九年       ( 747)十一月

   朕は去る天平十三年(741)二月十四日に、真心から発願して、国家の基礎を永

   く固め、聖なる仏の教えを常に修めさせようと思い、広く天下の諸国に詔して、国

   毎に金光明寺金光明四天王護国之寺の略)と法華寺(法華滅罪之寺の略)を造立

   させようとした。

   その金光明寺にはそれぞれ七重の塔一基を造立し、あわせて金字の金光明経一部を

   写して、塔の中に安置させることにした。

   ところが諸国の国司は怠りなまけてそのことを行なわず、或いは場所が便利でなか

   ったり、或いは未だに基礎も置いていない。

   思うに、天地の災異が一、二あらわれているのは、このためかと思う。(略)

   そこで従四位下の石川朝臣年足・従五位下の阿倍朝臣小嶋・布施朝臣宅主らを各道

   に分けて派遣し、寺地の適否を検べて定め、あわせて造作の状況を視察させよう。

   国司は使いおよび国師(その国内の、寺院、僧尼を監督する僧官)と共に、勝れた

   土地をえらび定め、努力して造営と修繕を加えよ。

   また郡司のなかで活発に諸事をなしとげることの出来る者を撰んで、専ら造寺のこ

   とを担当させよ。

   これから三年を限度として、塔・金堂・僧坊を全て造り終わらせよ。

   もしよく勅を守ることができ、その通り修造することができたら、その子孫は絶え

   ることなく郡領の官職に任じよう。その僧寺・尼寺の水田は、以前に施入された数

   を除いて、さらに田地を加え、僧寺には九十町、尼寺には四十町、所司に命じて開

   墾させ施入するであろう。広くこれを国・郡に告げて朕の意を知らしめよ。

 

山梨歴史講座 国司等に発せられた令 孝謙天皇

詔(みことのり)にみる国司の仕事

  詔(みことのり)・他(『続日本紀』)宇治谷孟氏-現代語訳

 

4、 孝謙天皇

 

天平勝宝 六年( 754)     九月 十五日 《出挙稲の利潤》

   諸国の国司らは、田租や出挙稲の利潤を貪り求めるので、租の輸納は正しく行なわ

   れず、出挙した利稲の取り立てに偽りが多い。

   このため人民はだんだん苦しみが増し、正倉は大変空しくなっていると聞く。

   そこで京および諸国の田租を、得不を論ぜず(不三得七の法にかかわらず)すべて

   正倉に輸納させることとし、正税出挙の利稲は、十の中三を取ることを許す。

   ただし田の作物が熟さず、調・庸を免除する限度になった場合は(欠損八分以上の

   場合)令に准拠して処分せよ。

   また去る天平八年の格(きゃく)を見ると、国司が国内において交易し、無制限に物を運ぶことは既に禁止されている。

   ところがなお敢えてこの格に従わず、利を貪って心をけがすことが珍しくなくなっ

   ている。

   朕の手足となるべき者が、どうしてこのようであってよかろうか。今後、更に違反

   する者があれば、法に従って処罰し、哀れみをかけて許してはならない。

   

賭博行為の禁止 

天平勝宝 六年( 754)     十月 十四日 《双六の禁止》

   この頃、官人や人民が憲法(国法)を恐れず、ひそかに仲間を集め、意のままに双

   六(すごろく)を行ない、悪の道に迷い込み、子は父に従わなくなっている。これで

はついに家業を失い、また孝道に欠けるであろう。このため広く京および畿内と七道の諸国に命じて、固く双六を禁断せよ。云々

 

天平勝宝 六年( 754)     十月 十八日 《射芸教習》

   畿内と七道諸国に命令して射田(射芸教習のための用地)を設けさせた。

 

天平勝宝 八年( 756)     六月    十日 《国分寺

   この頃、技術者を各地に遣わして、諸国の国分寺の造仏を促し調べさせた。来年の

   聖武帝の一周忌には、必ず仕上げるようにせよ。その仏殿も一緒に造り上げるよう

   にせよ。もし仏像および仏殿を、既に造り終えたならば、また塔を造り忌日に間に

   合わせよ。

   仏法は慈しみを第一とする。このために人民を苦しめてはならぬ。国志や派遣の技

   術者が、もし朕の意にかなうよう、よく仕上げた者があれば、特に褒賞を与える。

 

天平勝宝 八年( 756)     六月二十二日 《国忌の斎会》

   明年の国忌のご斎会は、正に東大寺で行なうことになる。その大仏殿の歩廓は六道

   諸国に命じ造営させ、必ず忌日に間に合わせよ。怠りゆるがせにすることがあった

   はならぬ。

 

天平勝宝 八年( 756)十一月       七日 《官物の搾取》

   聞くところによると、この頃、を出納する諸司の官人たちは、官物が納入される時、

   上前をはねようと、巧みに留めおいて、十日経ってもあえて官物を収納しようとし

   ないという。このために運送の人夫たちは、その足止めに苦しみ、競って逃げ帰る

   と聞く。

   これはただ政治を損なうだけでなく、実に人民の教化を妨げるものである。正に弾

   正台に命じて巡検させねばならぬ。今後、二度とこのようなことがあってはならな

   い。

 

天平宝字 元年( 757)     正月    五日 《郡領 軍毅》

   この頃、郡領(郡の大領・少領)・軍毅(軍団の大毅・少毅)に、無位の庶民を採

   用している。このため、人民は家に居ながら、官職につくことを当然とし、君に仕

   え働いて俸禄を得ることを知らない。これでは親に孝をつくすのと同じように、君

   主に忠を尽くすという気持ちは次第に衰え、人を教え導くことがむづかしい。今後、

   所司はよろしく有位の人以外は郡領。軍毅の選考の候補に入れてはならぬ。

   その軍毅には兵部省六衛府に仕える者の中から、わきまえが勝れ人柄大きく、勇

   ましく健全な者を選んで候補として任用し、その他の者にみだりに任用を求めさせ

   てはならぬ。それ以外の諸事については、格や令の規定によれ。

 

天平宝字 元年( 757)     五月    八日 《駅舎の利用制限》

   この頃、駅路を上り下りする諸使にすべて駅舎を利用させているのは、理にかなっ

   てはいない。これでは駅の人夫に苦労をかけることになる。今後は令の規定に

   従うようにせよ。

 

 

天平宝字 元年( 757)     六月    九日 《反仲麻呂派の不穏な動きへの牽制》   天皇は次のように五条を制定し申しわたした。

   その一 諸氏族の氏の上らは、公用をすておいて勝手に自分の氏族の人たちを集め

           ている。今後、このようなことがあってはならない。

 

   その二 王族や臣下の所有する馬の数は、格により制限がある。この制限以上に馬

           を飼ってはならない。

 

   その三 令の定めによれば、所持する武器については限度のきまりがある。この規

           定以上に武器を蓄えてはならぬ。

 

   その四 武官を除いては、宮中で武器を持ってはならない。

 

   その五 宮中を二十騎以上の集団で行動してはならない。

 

天平宝字 元年( 757)     十月    六日 《諸国人夫の悲惨な状況》

   聞くところによると、諸国からの調・庸を運ぶ人夫は、仕事を終わって帰郷する際、

   遠路のために食料が絶えてしまう、と。また旅先で病気になった人には、親しく世

   話をしてくれる人がいないので、餓死を免れるために物乞いをしてやっと命をつな

   いでいる、と。

   どちらの場合も旅の道中に苦しみ、ついに横死してしまう、と。朕はこのことを思

   いやって、哀れみに心を禁じえない。

   そこで、京都と諸国の官司に命じて、食料と医薬を量り与え、よく調べて無事に郷

   里に着けるようにせよ。もし官人が怠けて、この命令を実行しない者があったら、

   違約の罪を科することにする。

 

天平宝字 二年( 758)     十月二十五日 《国司の任期の短縮》

   (略)国司の任期を四年から六年にする。三年を経過する毎に巡察使を派遣し、治

   績を調査し、人民の苦しみを慰問させよ。二回の巡察の結果を見て、実情に随って

   官位の昇降をきめよ。願わくば国司の貪欲な気風を一掃して、ことごとく清新な気   風に改め、人民の負担を緩和し、しかも倉庫は充満している状態を希望する。

 

天平宝字 三年( 759)     五月 十七日    《人夫の救済》

   (略)この頃、冬の季節になると、市のあたりに餓えている者が多いと聞く。その

   わけを問い質すと、皆諸国から調を運んできた人夫で、郷里に還ることができなく

   て、ある者は病のために悩み苦しみ、ある者は食糧がなくて飢えと寒さに苦しんで

   いるという。

   朕はひそかに彼らのことを思い、深く心に哀れんでいる。そこで国の大小によって、

   公廨稲から一定量を採り出して、常平倉を設け、米の時価の高低によって、売り買

   いを行ない利益を収め、還ろうとする人夫の飢えと苦しみをあまねく救うようにせ

   よ。(略)

 

天平宝字 三年( 759)十一月       九日 《国分寺国分尼寺の図面》

   (略)国分寺国分尼寺の図面を天下の諸国に頒(わか)ち下した。

 

天平宝字 五年( 761)     六月    七日 《国分尼寺

   光明皇太后の一周忌の斎家を阿弥陀浄土院で設けた。その院は法華寺の西南隅にあ

   り、皇太后の一周忌の斎家を行なうために造営したものである。

   一方天下の諸国に命じて、それぞれの国分尼寺で、阿弥陀仏の丈六の像一體、脇侍

   の菩薩像二體を造らせた。