きたこまぐん すたまちょう・北巨摩郡須玉町(現北杜市)《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

きたこまぐん すたまちょう・北巨摩郡須玉町(現北杜市)《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

《現況》

〔成立〕昭和30年(1955)3月31日,若神子(わかみこ)村・穂足村・多麻村・津金村の4か村が合併して成立・

〔面積〕174.18km

〔世帯〕2,368

〔人□〕7,993人

〔地形図〕金峰山・御岳昇仙峡・八ケ岳・韮崎

〔町の花〕サツキ

〔町の木〕シラカバ

〔町役場・現北杜市須玉支所〕〒408-01山梨県北巨摩郡須玉町若神子2155番地

〔町名の由来〕町の中央を流れる須玉川にちなむ。

 

《立地》《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

須玉川流域の純農村地帯県の北西部,北巨摩郡

北東部に位置する。八ケ岳および茅ケ岳のすそ野に抱かれ、釜無川水系に属する須玉川などが南流する。北部と東部は山地でそれぞれ長野県南佐久郡南牧村・川上村および甲府市に接し,南は明野村・申巨摩郡敷島町韮崎市,西は武川葛か村・長坂町・高根町に接する。純農村地帯で,米作を中心に高原野菜・果樹の栽培,畜産業などが盛ん。町域南端を国鉄中央本線がよこぎる。

 古来甲信を結ぶ交通の要地であり,江戸期には佐久往還が,最近では中央自動車道が通り,須玉インターチェンジも完成した。

 

《沿革》〔原始・古代〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

縄文時代の集落縄文時代の遺跡は28か所知られ,前.中.後.晩期にわたっている。その1つである下津金の御所前遺跡は縄文中期に栄えた集落址で,昭和56年に実施された発掘調査では14軒ほどの住居趾が発見されている。また上津金の原之前遺跡からも中期の遺物が報告されており,この地域に豊かな文化が展開したことを裏づけている。その他,後・晩期の遺跡として桑原遺跡が調査され,敷;百住届圭止が2軒出土した。

豊富な縄文時代の遺跡に比べ,弥生時代以後は少ない。

弥生時代の遺跡では大豆生田(まみょうだ)遺跡,

古墳時代では若神子の湯沢古墳と馬具・直刀が出土したと伝えられる聖人塚古墳が知られているにすぎない。

平安期の遺跡では大小久保遺跡から土師器を生産した窯趾群や瓦の出土を伴った工房批が発掘されている。

供給地域など詳細はまだ不明だが,9世紀後半ごろの土器などの生産技術や生産体制を探るうえで重要な遺跡である。

なお律令制下,町域は巨麻郡速見郷に属したとする見方が有カである。

 

《沿革》〔中世〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

甲斐源氏〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

甲斐源氏の根拠地治承4年(1180)8月、平家打倒の兵を挙げた武田信義らの甲斐源氏は,信濃国へ入り,平家方の伊奈郡大田切郷の城に菅冠者を襲って自殺させた後,帰国して逸見山に宿営した。源頼朝から派遣された北条時政をそこに迎え,やがて彼らは時政とともに同地を去って,石和御厨に集結した(吾妻鏡)。

この逸見山は当時この地方を領していたと思われる逸見氏の若神子の居館を指すと推定されている。

若神子は甲斐源氏の拠点の1つであったのであろう。しかし,逸見氏の没落とともにその役割は薄れ,武田氏の嫡流となった石和信光の本拠石和へと中心は移っていった。

当町東向の信光寺は承久3年(1221)信光の開基というが,信光と当地域の関係は明らかではない。

鎌倉期の建長5年(1253)の「近衛家領目録」に逸見荘が見え,当町南部は同荘の域内であったらしい。また,当町北部の比志が山小笠原荘内であったと記す史料があり、明野村辺りに中心のあった山小笠原荘が当町域まで深く入り込んでいた可能性がある。

 

海岸寺〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

なお上津金の海岸寺は,南北朝期の高僧石室善玖が開山したという古刹である。石室は元に渡って臨済禅を修め,帰国後は京都の万寿寺天竜寺や鎌倉の建長寺などに住んだが、元中年間(1384~92)の初め頃,当時逸見地方を領していた豪族逸見氏の要請により,海岸寺を開いたといわれる(甲斐国社記・寺記)。

 

〔津金衆〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

戦国期の武田氏家臣団の中には,衆あるいは党とよばれる辺境武士団があったが,当地域内には津金衆と小尾党(衆)があった。「国志」によると津金氏は常陸国(茨城県)の佐竹氏の出身で,武田信昌のとき薩摩守胤義とその子美濃守胤秀が甲斐にきて仕え,津金郷と信州佐久郡の一部と上野国の一部を領して,津金氏と名乗った。その子孫からは小尾・比志・小池・箕輪・海ノロ(うんのくち)・村山・八巻・清水・井出・鷹(高)見沢・河上の諸氏が分出し,この武士集団は津金衆とよばれた(国志)。

津金郷は須玉川東岸に沿う山地で,信州佐久郡の平沢へ抜ける通路があった。

現在下津金に古宮城(古官屋敷)跡,上津金に源太城跡が残っていて,それぞれ津金氏の居館,要害城所在地とみられている。

塩川の上流で,穂坂路から信州佐久郡河上へ抜ける国境に住んだのが小尾党で,津金衆の一派であった。津金衆・小尾党は諏訪口の武川衆同様国境警備の任にあたっていた。

 

〔津金衆・徳川・小田原北条氏侵入〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

小田原北条氏の侵入天文9年(1540)春,武田信虎は,信濃佐久郡を攻略し,海ノロ(長野県南佐久郡)に伝馬制を実施したが,このとき津金氏は,信虎から伝馬免許の印判状を与えられている(信州津金文書)。津金衆が甲信を結ぶ陸上交通の面で活躍したさまがうかがわれる。

天正10年(1582)武田氏滅亡後の徳川・北条両氏による甲斐国争奪戦では,北条氏直の大軍が侵入した巨摩郡北部が主戦場であった。氏直は若神子に本陣を置き,在地の武田遺臣に臣従を要求したが,津金修理亮胤久・小尾監物祐光・跡部又十郎久次・小尾彦玉郎正秀・小池筑前守信胤ら津金衆はこれを拒否し,逆に徳川家康に従って,江草城に籠っていた北条軍を撃破した。江草城は一名獅子呼し城といい、武田信満の三男江草兵庫助信康が応永年問(1394~1428)の頃築いたものと伝え、大豆生田の砦は,北条氏侵入のとき築かれたものであり、この砦に拠った藤巻(御岳衆か)は北条方に属したという(国志)。

なお「甲陽軍鑑」によると、天文5年(1536)武田信虎の信州海ノロ城攻略のとき,16歳の長男晴信(信玄)が初陣でこれに加わり,信虎の撤退にはしんがりをつとめたが,急に引き返して城を攻め,ついに陥落させたという。この戦いの史実については疑間があるが,若神子の路傍には敵将平賀源心と伝える墓があり,正覚寺にその牌子も残っている。

 

《沿革》〔近世〕江戸期の村々と支配の変遷《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

慶長6年(1601)に須玉川西岸,

慶長7年に東岸の検地が実施されたが,当地域には武田氏遺臣が旧領を安堵された知行地が多く,

藤田・大豆生田両村は屋代越中守,

東向・穴平両村は三枝土佐守,

大蔵・小倉両村は真田隠岐守,

小尾村と上津金村の一部は小尾彦左衛門、

下津金村の一部は跡部勘五郎の所領であって,

蔵入地は若神子・江草・比志の3か村と上・下津金の各一部にすぎなかった。

境之沢は江戸期以前から村をなしていたが,行政上の便宜から若神子のうちとされ,慶長11年には若神子新町が分離独立したので,江戸期における村数は実質14か村であり,いずれも巨摩郡逸見筋に属した。

 

〔津金衆と武川十二騎〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

・慶長12年から武川・逸見両筋の在地武士12人が,2人ずつ10日交代で甲府城を警固することになった。いわゆる武川十二騎で,この中には津金衆の跡部十郎左衛門胤信と小尾彦左衛門重正がいた。

・元和2年(1616)徳川忠長が甲府城主になると甲斐国に知行地をもつものはすべて忠長の家臣とされた。

寛永9年(!632)忠長が改易されるとともに家臣も追放され,甲斐と無縁の旗本が多く知行するようになるが,津金衆のほとんどは旧領への複帰を許された。

・慶安4年(1651)甲斐国笛吹川以西の大部分は徳川綱重が拝領し,

・綱重が甲府城主になってからは寛文6年(1666)と貞享2年(1685)に当地域を検地し,各村とも石高を増した。

・その後宝永元年(1704)12月から約20年間は甲府藩領(柳沢氏)となり,

享保9年(1724)以降幕府領として甲府代官所の支配に服した。

・やがて三卿領が設定されると,一橋家・清水家の所領となった村もあるが,「1日高1日領」では全村幕府領として見える。

 

〔佐久往還〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

甲府から当地域を通って信州佐久郡に至るいわゆる平沢口には,津金の山地を経る道筋と若神子を通過する平坦な道筋とがあったが、江戸期になると軍用を主とした前者は廃れ、後者は佐久往還または佐久甲州街道とよばれて繁栄した。富士川水運によってもたらされた信州あての物資は,鰍沢河岸で陸揚げして馬背または小舟で韮崎へ送り,ここから佐久方面向けのものはすべて佐久往還を通り輸送された。

要衝の若神子には宿駅が置かれ,上りは中条宿(韮崎市),」下りは黒沢宿(高根町)との間の人馬継立を担当した。当地域は甲斐国で最大の米産地であり,主穀生産のほかには養蚕が営まれたが,東部の山問では薪炭生産などの山稼ぎが多かった。また,14か村の1村あたり平均持馬数は53疋と高率であり(国志),農耕以外に佐久往還の駄賃稼ぎなどにも使用されていた。

 

須玉町の近現代〕行政区画の変遷《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

当町域の江戸期の村々は,

明治元年甲府県,甲斐府,

明治年甲府県の管轄を経て同4年山梨県下となる。

明治7年には新沢村(若神子新町・境之沢の2か村)・穂足村(大蔵・藤田・大豆生田の3か村)・津金村(上津金・下津金の2か村)が、

明治8年には増富村(比志・小尾の2か村)・豊田村(穴平・小倉の2か村)・若神子村(若神子・新沢の2か村)が成立し,

明治11年村々は北巨摩郡に所属した。

明治22年市制町村制施行により若神子村(若神子村と豊田村穴平)・多麻村(東向村と豊田村小倉)が成立し、穂足村・津金村・江草村・増富村はそれぞれ1村で存続した。

昭和30年若神子村・多麻村・穂足村・津金村が合併して須玉町となり,

昭和31年江草村を,同34年増富村編入し現行の須玉町となる。

 

〔すすむ近代化〕《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

〔道路〕

江戸期以来の佐久往還は,

大正9年県道甲府長野線,

昭和28年には2級国道清水上田線となり、

昭和40年から現在の国道141号の名称となったが,この間改修と舗装が進められた。

昭和51年12月には中央自動車道韮崎~小淵沢間が開通、同時に須玉インターチェンジも完成した。

昭和52年7月には須玉バイパスも完成した。

中央自動車道の開通は、当町と首都圏・中京・京阪神方面を結び,産業の振興に大きな役割を果たすものと期待されている。たお国鉄中央本線が町域の南端をよこぎるが、駅は設けられておらず,当町の交通の中心は鉄道ではなく自動車交通である。

国鉄韮崎駅から山梨交通バスが通っている。

〔教育〕

  • 教育面をみると

大豆生田にある県立須玉商業高校(現北杜市所)は昭和34年に県立峡北高校須玉分校商業科として発足し,同38年7月に独立して現校名となったものである。

昭和30年に1日4か村が合併、さらに翌年に江草村を合併すると中学校の統合問題が起こり,約10年の年月を経たのち、同43年に須玉・津金・江草の各中学校が統合され須玉中学校が誕生した。

〔産業〕

・産業面では、現在も沖積地や河岸段丘上は水稲栽培が中心であるが,生食用のトマト・キュウリ・レタスなどの高原野菜の生産や倭化リンゴ・ソルダムなどの果樹栽培も進められ,また町域総面積の86%を占める山林の資源を生かす道が探られている。シイタケ栽培はその一例である。また,肉牛の飼育なども盛んとなってきた。近年,工場も誘致され,昭和50年には事業所52,従業員7{8人を数えた。

〔増富ラジウム鉱泉

世界一の含有量を誇る増富ラジウム鉱泉は,昭和40年厚生省から国民保養温泉に指定され,付近の東洋一ともいわれる白樺林のつづく瑞牆(みずがき)山・金峰山とともに観光客を集めている。

当町は秩父多摩国立公園の西の玄関口に位置し。道路綱の整備とあいまって、観光面で今後の発展に期待がもたれている。

 

《史跡・文化財文化施設

国天然記念物に根古屋神社の大ケヤキがあり,県天然記念物に遠照寺のアカマツ,比志神社の大スギ,須玉町日影のトチノキ,県文化財に比志神社本殿付棟札がある。

 

須玉町の現行行政地名》《『角川日本地名大辞典』昭和59年刊》

 

〔あなだいら・穴平〕

町の南西部。北西は高根町,東は須玉川を境に小倉に接し、南は若神子に続く。県道箕輸須玉線が地内中央を縦貫する。すべて農業地域。水稲果菜類・果樹の栽培,養蚕などを行う。諏訪神社曹洞宗見明寺・日蓮宗遠照寺がある。遠照寺境内のアカマツは県天然記念物,二日市場の六角石幡は町文化財

 

〔えぐさ・江草〕

町の南西部。斑(まだら)山と茅ケ岳に囲まれた山間の村。中央を塩川が南西流し、南は明野村、北東は比志に接する。塩川に沿って主要地方道韮崎増富線が通る。山地の多い農林業地域。主な産物は水稲果菜類・木材・薪炭など。江草小学校・

岩下小学校・江草郵便局・江草警察官駐在所・唐土神社・神明社・伊勢神明社(2社)・根古屋神社・秋葉神社・十五所神社・津島社・勝手子安神社・臨済宗見性寺・曹洞宗光厳寺がある。根古屋神社の大ケヤキ(国天然記念物)、また獅子吼(ししく)城跡がある。下平遺跡・上ノ原遺跡・押出遺跡など縄文時代の遺物散布地が多い。

 

〔おおくら・大蔵〒〕

町の南西部。西を須

玉川が南流して若神子との境をなし、東は塩川が明野村との境をなす。地内を県道小倉百観音線が縦貫する。すべて農業地域。水稲果菜類・果樹の栽培・養蚕などを行う。穂足小学校のほか社寺には稲荷神社・三島神社臨済宗少林寺がある。塚田遺跡は平安期~中世の遺跡である。

 

〔おび・小尾〕

町の北部。北は信州峠を隔てて長野県川上村,南は比志に接する。中央部西寄りを主要地方道韮崎増富線が縦貫する。塩川流域にわずかに水田が開け,本谷川北岸の東小尾には厚生省指定保養温泉地増富温泉郷がある。東北小学校・増富中学校・町役場増富支所・増富保育園・増富警察官駐在所があり,社寺には塩川神社・西山社・神部神社・若宮八幡神社・東屋神社・丹生沢神社・常磐社・臨済宗正覚寺がある。

和田地区の五輪塔は町文化財。大柴・板屋・上の平・千石・村の内は縄文時代の遺物散布地である。東端の瑞絡山周辺と,塩川から増富に至る本谷川沿いの通仙峡は,それぞれ紅葉の名勝として知られる。また本谷川上流の金山では,例年,奥秩父の父といわれる木暮理太郎をしのんで木暮祭りが行われ,多くの岳人が集う。

 

〔かみつがね・上津金〕

町の西部。北と東は秩父山地の支脈に囲まれ,西は須玉川を隔てて高根町,南は下津金に接する。中央を県道清里須玉線が縦貫する。山間の農業地域。水稲・呆菜類・果樹の栽培,養蚕などを行う。稲荷神社・諏訪神社臨済宗海岸寺がある。海岸寺観音堂は町文化財,また石仏の観音像が多数ある。原之前・西原・相の原各遺跡は縄文時代の遺物散布地。

 

〔こごえ・小倉〕

町の西部。斑山南麓の尾根と須玉川に挟まれた地域。西は須玉川を境に穴平,東は東向に接する。すべて農業地域。水稲・果菜・果樹の栽培などを行う。多麻小学校・須玉中学校,社寺には八幡神社日蓮宗見本寺,また桂精機製作所山梨工場があり三尾根の中ほどに中尾城跡がある。

 

〔さかいのさわ・境之沢〕

町の南西端。韮崎泥流台地上に位置し,南は韮崎市,北から西は若神子新町に接する。すべて農業地域。主な産物は水稲・呆菜類・果樹など。諏訪神社曹洞宗円通院がある。

 

〔しもつがね・下津金〕

町の西部。秩父山地の支脈に抱かれた山懐の村。西は須玉川を隔てて高根町,北は上津金に接する。西部を県道清里須玉線

が通る。すべて農業地域。主な産物は水稲果菜類・果樹など。津金小学校・津金保育園・津金郵便局・熊野神社・天狗社・藤岡神社・諏訪神社1曹洞宗の長泉院・東泉院・養泉院がある。御所前遺跡は縄文時代中期の遺跡。

 

〔とうだ・藤田〕

町の南西部。県道小倉百観音線と塩川に挟まれた地域で、北から西は大嵐、南は大豆生囲,東は明野村に接する。国道141号が南西境をかすめる。国道沿いの商店街と周辺の農業地域とからなる。主な産物は水稲・野菜類など。伊勢神社・刈穂稲荷社・曹洞宗顕光寺・塩川病院・韮崎消防署須玉分暑・母子健康センター・穂足警察官駐在所・山梨中央銀行須玉支店がある。

〔ひがしむき・東向〕

町の南西部。斑山の南麓、東は塩川の断崖を隔てて仁田平に接し,南は明野村,西は小倉に接する。県道増富若神子線が地内

の中央を走る。すべて農業地域。水稲果菜類の栽培,養蚕などを行う。多麻郵便局・多麻保育園・八幡大禅社・曹洞宗信光寺がある。西大久保遺跡は縄文時代の遺物散布地。

 

〔ひし・比志〕

町の中央から東部。秩父山地の横尾山・金峰山・茅ケ岳などに囲まれた山間の村。北は小尾,南東は甲府市に接する。ほとんどが山地で,塩川とその支流沿岸にわずかに水田が開ける。林業と農業の村。北小学校・老人ホーム長寿荘・増富郵便局・塩川ダム現場事務所があり、社寺には比志神社・山神社・天神社・富土浅間神社,曹洞宗の徳泉寺・如意寺がある。比志神社の本殿(付棟札)は県文化財,同神社の大スギと日影のトチノキはともに県天然記念物,比志のエゾエノキは町天然記念物である。縄文時代の遺物散布地馬込・郷蔵地・焼牧・四辻などがある。

 

〔まみょうだ・大豆生田〕

町の南西部。塩川と須玉川に挟まれた地域。地内の南東端で両川が合流する。北は藤田・大蔵,西は須玉川を隔てて若神子,南は須玉川を隔てて韮崎市に接する。中央を中央自動車道と国道!41号が南北に走り,須玉インターチェンジ日本道路公団須玉料金所がある。国道沿いの街村のほかはすべて農業地域。水稲果菜類・果樹などを産する。諏訪神社曹洞宗昌福寺のほか県立須玉商業高校・穂足郵便局があり、縄文・弥生時代、平安期の遺跡大豆生田遺跡と大豆生田砦跡がある。

 

〔わかみこ・若神子〕

町の南西部。東は須玉川が南流し大蔵との境界をなす。北から西は高根町に接する。東部を国道14!号が縦貫し、小尾街道との分岐点をなす。ほぼ中央を東流する鳩川の北を中央自動車道が通る。国道沿いの商店街と周辺の農業地域とからなる。主な産物は水稲・繭・果菜類・果樹など。町役場・須玉町農協・須玉郵便局・申央公民館・若神子警察官派出所・韮崎信用組合須玉支店・協和工機工場・若神子小学校・若神子保育園,神社には三輪神社・諏訪神社・東屋神社・鉾立神社があり,寺院には

浄土宗誓福寺・時宗長泉寺・臨済宗東漸寺・曹洞宗正覚寺日蓮宗妙円寺がある。正覚寺源義光・義清父子の位牌を祀る。長泉寺の板碑,三輸神社の石幅はともに町文化財。地内東漸寺橋付近の小高い城山と呼ばれる丘に、旧塁址3か所のほか湯沢古墳・大小久保遺跡があり,上宿に平賀玄心の首塚がある。

 

〔わかみこしんまち・若神子新町〕

町の南西部。韮崎泥流台地上に位置し,東は境之沢,北から西は若神子,南は韮崎市に接する。地内の中央を南北に幹線道が通り,国鉄中央本線と交差する。すべて農業地域。主な産物は水稲・繭・呆菜類・果樹など。神明社・浄土宗正行寺がある。地内には中神遺跡・玄関遺跡・肥道遺跡など縄文時代の遺物散布地が多い。

 

 

須玉町(すだまちょう)『山梨百科事典』山梨日日新聞社

 

山梨県北巨摩郡の町名。人口9373(1970年10月1日)、面積174平方㌔㍍。役揚所在地は若神子で、標高535㍍

【概況】

郡の東北部に位置し、八ケ岳、茅ケ岳のすそ野に抱擁され・北部・東部は山岳重畳で信州南佐久と甲府市、南は韮崎市明野村に、西は清流須玉川に沿って高根町・長坂町に接している。町の中央を南北に貫く国道141号線・県道7路線、町道141路線。米・麦・養蚕を主としているが、1965(昭和40)年ころから、生食用トマト、キュウリ、レタス、肉用牛飼育など盛ん。

秩父多摩国立公園の主峰金峰山・瑞牆(みずがき〕山を中心としての増富ラジウム温泉は1965(昭和4)年8月、厚生省から国

民保養温泉の指定を受け、付近の数多い景勝地と合わせて、訪れる観光客は多い。瑞牆山は、韓国の金剛山に似かよう奇岩が連鎖し絶景。木賊峠・金山平、富士見平はキャンプ・ハイキングに・通仙峡の渓谷、奇岩は関東の耶馬渓ともいわれる。アユ、ヤマメ、イワナ釣りとともに、ハイカーは年々増加。

7月30日のおほうとう祭りは有名。武田信玄が逸見を通過する際、武士たちに力をつけさせるため新鮮なアズキ、小麦に、砂糖の代わりにカボチャを入れた「あずきぼうとう」を食わせた古事からきている。

【沿革】

須玉川、塩川の流域にあって山林は深く、地味の肥えた耕地が発達し気候もよく、恵まれた環境にあるので往古は甲斐源氏の一族逸見氏が根拠を定め、多麻庄の中心地として繁栄したようだ。武田信玄の時代にしばしば当地に宿陣を構え、また北条氏直がここに本陣を敷いて徳川家康と対戦したこともある。

1955(昭和30)年3月31日、須玉川が貫流する若神子、穂足・多麻・津金の4村が台併、須玉町となった。

1956年9月30日、塩川沿いの江草村、

1959(昭和34)年4月1日、増富村編入合併された。

<学校>

須玉商業高等、増富中、須玉中、若神子小、須玉北小、須玉東北小、穂足小、多麻小、津金小・江草小・岩下小・

<観光地>

金峰山瑞牆山木賊峠・金山平・富士見平・通仙峡、増富国民保養温泉祭り・御柱祭(若神子の諏訪神社・5月5日)おほうとう祭り(若神子の三輪神社・7月30日)〉

<指定又化財>

比志の比志神社木殿付棟札1(県)・江草の根古屋神社大ケヤキ(国)・比志の比志神社大スギ(県〕>町木シラカバ

<町花>サツキ〉

<出身有名人>川手甫雄(元代議士)、篠原治郎(元束京地裁判事)

<町歌>

・須玉音頭

馬頭浅草 観音まつり 須玉じまんの御柱 しし城阯の古跡を忍び 主と手をとりマダラ山 シャンシャンガシャンと打ち 須玉音頭でひとおどりひとおどり。<矢崎誠>