白須(「角川日本姓氏大辞典19山梨県」)

白須(「角川日本姓氏大辞典19山梨県」)

白須しらす白洲・白数とも書く。

巨摩郡郡白須之郷(北杜市白州町)発祥の族は清和源氏義光流武田氏族という.『武田系図』に「甲斐守信長―信綱―時信-貞信(白須次郎)」とみえる。

太平記』によれば観応3年(1352)3月足利尊氏が武蔵府中で新田義貞と戦ったときに、武田信武以下甲斐の諸将が信武に従って尊氏方として参陣したが、そのうちの一人に白洲上野守がみえる。『一蓮寺過去帳』に白洲蔵人がみえ、長禄元年(1457)12月武田一門と跡部氏が戦った小河原合戦で討死したとある。

甲斐国志』には、岩殿の円通寺(大月市)棟札に白洲信重、巨摩郡宮原村(甲府市)の鎌田八幡宮の天文五年(1532)の棟札に柁那中島(河東中島、昭和町)の住人白須神左衛門の名がみえる。

また、天正3年の長篠の戦では、武田信豊の配下に白須又市がおり、子供の平次は武田信勝の小姓であった。

平次は『甲斐国志』所収の『武家盛衰記』によれば、武田氏滅亡後徳川家康の小姓として仕えたが、ほかの小姓衆と口論して家康のもとを離れて稲葉道通に仕えた。白須又兵衛となのり、のち豊後臼杵(うすき)藩稲葉家の家臣として続いた。

 『寛政譜系譜』には幕臣として白須十兵衛道政を祖とする、ニ家があり、白須貞信の後喬という。道政系は1050石取りの旗本であった。天正起請文には廿人衆のうちに白須伝兵衛がみえる。また、甲斐にはもう一つ別系の白須氏がある。「下吉田村落史」所収の、「白須家系図」によれば清和源氏満仲流を称し、武田信玄重臣馬場信房の子政信が都留郡下吉田村(富士吉田市)の新屋敷に居住して白須平太郎となのり大正一七年に死去、子には政豊(小太郎)・政春(小治郎)がおり、母は小林和泉守の娘であった。政春の子弥左衛門は下吉田村の名主を勤め、弟の白須小兵衛の子は渡辺家の祖となった。

『峡中家歴鑑』に載る南都留郡瑞穂村吉田(冨士合田市)の白須孝一家の先祖は白須刑部少輔政義であるが、遠祖については、多田満仲五代の子孫という兵庫頭仲政が馬場を称し、孫の中宮少左衛門尉兼綱が白須郷に来住したのがはじめで、政義はその孫で白須に在住した馬場信房の次男で、分家しで、瑞穂村吉田に移り白須をなのったといい、武田晴信・勝頼に仕えたのち、徳川氏に従い小田原合戦で戦死したと伝える。県内、160戸、富十吉田市に多い.【割菱・丸に違い鷹の羽・亀甲の内輪遠い】

 

因みに云う、ある説にその頃武川に白須某という者有り、身貧にして刀も今は売り代かへ常に府に出で、此処彼処に寄食せり。ある時、その方の人々三四人、自須氏を誘い京師(京都)に遊ぶ。相人あり、白須氏を視て驚きて云う、足下登く本国に帰るべし。三十日を過ぎ必ず大きな幸いあらんと。近頃斯如し富責の相を視ず。若し違うことあらば、僕又人を相せすと人々敢て信ぜず。笑いて止みぬ。既にして国に帰る程なく江戸より召す人ありて使い来りて催しければ人々旅装を繕い江戸へ赴かしめき今年を歴ればその事慥(たしか)ならんとなん。