甲斐の行基伝説 甲斐 縄文時代最大級の天神堂遺跡

甲斐の行基伝説

 

(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 一方、湖水の水をとりのぞいたのは、僧の行基であるという伝説もある。元正天皇の養老年間(七一七~二四)に行基甲斐国に遊行したとき、南山を切りひらいて水を富士川に流したので、国びとがその徳を感謝し、禹王の徳になぞらえて禹の瀬と命名したという。しかしこれらは、人のあらわれない地質時代甲府盆地湖水説を、歴史時代のできごとととりちがえた伝説というべきであろう。

 

甲斐 縄文時代最大級の天神堂遺跡

 

(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 氷河期と問氷期の交代がくりかえされて人類が出現し、活動をはじめたのは、洪積世のことである。この期間の動植物の存在が、山梨県下でもつぎつぎに確認されてきている。白根山や赤石山系には、氷河の侵蝕で形成されたカール(圏谷)地彩がみられ、桂川富士川水系等の河谷や甲府盆地周縁地域には、ひろく洪積層の堆積がみられる。山梨市八幡南からは、全国各地で発見されている洪積世後期の象類であるイソド系ナウマン象の歯や骨片が、洪積層のなかから発見されている。

 洪積世人類については、昭和六年(一九三一)に兵庫県明石で腰骨の化石が発見され、その後、愛知県牛川、静岡県三ケ日・浜北などでも化石人骨が発見されている。まだ土器は製作せず、打製石器を使用するだけの旧石器文化は、先土器文化または前縄文文化と名づけられている。まだ明確にされていないが、この時代の末期につくられた尖頭石器や細石器は、縄文早期の石器と製作手法が似ているといわれている。昭和二四年群馬県岩宿の関東ローム層から打製石器が発見されてから、日本の先土器遺跡の存在もやや明らかになり、全国各地で調査研究がすすめられてきた。

山梨県内でも、昭和二八年に東八代郡米倉山(中道町)で礫核器、剥片石器、石刃など先土器時代の遺物が発見されて、県下各地で発掘調査がはじめられた。四一年に大月市宮谷の桂川中位段丘から宮谷石器とよばれる細石器、荒割り敲打石器が確認された。四三年には豊當村浅利から石刃などが発掘され、つづいて甲府盆地底部の上石田町からも石刃が発掘され、山梨県の先土器遺跡がつぎつぎと紹介されている。

 翌四四年に富士川流域の富沢町万沢小学校校庭で、二一〇〇平方メートルの地域にわたり上下二層から石器が発掘された天神堂遺跡は、本格的な先土器時代の遺跡といわれ、三〇〇におよぶ遺物の数や規模などから、全国的にみても最大級に近いものといわれる。斧形石器、縦長剥片、石核、石刃、ナイフ形石器など各種石器が出土し、黒耀石も多い。

 黒耀石は県下各地で発掘されているが、山梨県ではその産地が見あたらず、長野県の和田峠に産出されるところから、すでに先土器時代に交換経済が発達していたことが推測される。その他、大月市の袴着遺跡や中道町下向山遺跡などが先土器遺跡として有名である。