山梨歴史講座 国司等に発せられた令

山梨歴史講座 国司等に発せられた令

詔(みことのり)にみる国司の仕事

  詔(みことのり)・他(『続日本紀』)宇治谷孟氏-現代語訳

 

  1、文武天皇

 

文武天皇 二年( 698)三月  十日 《郡司の選考》

   諸国の国司は、郡司の選考に偏頗があってはいけない。郡司もその職にあるときは、

   必ず法の定め従え。これより以後のことは違背してはならぬ。

   

文武天皇 二年( 698)七月  七日  《奴婢の逃亡》

   官有や私有の奴婢で、民間に逃げかくれたりする者があるのを、届け出ない者があ

   るので、ここに初めて笞(ち・ムチ)の法を定め、奴婢の逃亡中の仕事を弁償させ

   た。その事柄は別式にある。また博奕や賭け事をして、遊び暮らしている者を取り

   締まった。また祖の場所を提供した者も同罪とした。

 

文武天皇 三年( 699)二月二十二日

   天皇難波宮から藤原宮に還られた。

 

文武天皇 三年( 699)五月二十四日

   役の行者小角を伊豆嶋に配流した。

 

文武天皇 三年( 699)十月二十七日

   巡察使を諸国に派遣して、秘法がないか検察させた。

 

文武天皇 四年( 700)十月二十七日 《牛馬を放牧》

   諸国に命じて牧場の地を定め、牛馬を放牧させた。

 

大宝 元年( 701)六月      八日  《官庁の諸務》

   すべての官庁の諸務は、専ら新令(大宝令)に準拠して行なうようにせよ。また国

   司や郡司が大税(田祖)を貯えておくことについては、必ず法規のとおりにせよ。

   若し過失や怠慢があれば、事情に従って処罰せよ。

   この日使者を七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道)に派遣して、

   今後、新令に基づいて政治を行なうことと、また大租が給付される状況を説明し、

   合わせて新しい国印の見本を頒布した。

 

大宝 二年( 702)二月      一日

   初めて大宝律を天下に頒布した。

 

大宝 二年( 702)二月     十九日

   諸国の大租・駅起稲・義倉と兵器の数量を記入した文書を、初めて弁官に送らせた。

 

大宝 二年( 702)二月二十一日

   甲斐国が梓弓を五百張献上したので、それを太宰府の用に充てた。

 

大宝 二年( 702)二月二十八日

   諸国の国司らが初めて正倉の鎰(かぎ)を授けられて任地に戻った。

  

大宝 二年( 702)四月     十三日

   諸国の国造にとめる氏族を指定した。その氏族の名前は『国造記』に詳しく載せて

   ある。

 

大宝 三年( 703)正月      二日  《国司不正の監視》

   諸国の巡視を命じる。東海道は藤原朝臣房前を派遣し、国司の治績を巡視して、冤

   罪を申告させ、不正を正させた。

 

大宝 三年( 703)七月     十三日

   四大寺に金光明経を読誦させた。

 

慶雲 元年( 704)四月      九日  《諸国の国印》

   鍛冶司に命じて諸国の国印を鋳造させた。

 

慶雲 三年( 706)二月二十六日

   甲斐・信濃越中・但馬・土佐などの国の十九神社をはじめて祈年祭に弊帛(みてぐら)を捧げる枠に入れた。

 

慶雲 三年( 706)三月     十四日  《土地利用の適正化》

   高位高官の者たちは、自ら耕作しないかわりに、然るべき棒禄を受けており、棒禄

   のある人々は、人民の農事を妨げることがあってはならぬ。それ故、昔、召伯は農

   民の訴えを聞くのに、その仕事の妨げになってはいけないと、甘棠(かんとう・ア

   マナシ)の木の下に憩い、公休は同じ理由で、自分の園の野菜を抜き捨てて、民の

   野菜を買い求めるようにした。

   この頃、王や公卿・臣下たちが、多く山林を占有して、自分は農耕や播種すること

   なく、きそって貪ることを考え、徒らに土地利用の便宜を妨げている。もし農民で、

   それらの地の柴や草をとる者があると、その道具をとり上げて大いに苦しめている。

   それだけでなく、土地を与えられた土地はわずか一、二畝であるのに、これをより

   どころに峰を越え谷をまたいで、みだりに境界を拡げている。今後このようなこと

   があってはならぬ。ただそれぞれの氏の先祖の墓と、人民の家の周囲に樹木を植え

   て林にした場合、周囲が合わせて二、三十歩ほどであらならば禁止の範囲外とする。

 

慶雲 三年( 706)三月二十六日     《焼印》

   鉄の印(焼印)を摂津・伊勢など二十三カ国に与え、官営の牧場の駒と牛に押印さ

   せた。

 

  2、元明天皇

 

和銅 二年( 709)三月      五日  《蝦夷

   陸奥・越後二国の蝦夷は、野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に害を加える。

   そこで使者を遣わして、遠江駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの国から

   兵士を徴発し、(略)

 

和銅 二年( 709)五月     二十日  《稲、不作》

   河内・摂津・山背・伊豆・甲斐の五国が、降り続く長雨で稲が損なわれた。

 

和銅 二年( 709)六月     二十日

   諸国に命じて駅起稲帳を提出させた。

 

和銅 二年( 709)九月二十六日      《征夷の役》

   遠江駿河・甲斐・常陸信濃・上野・陸奥・越前・越中・越後の諸国の兵士、征

   夷の役に五十日以上服した者には、租税負担を一年間免除した。

 

和銅 四年( 711)三月      十日  《遷都》

   初めて平城京(ならのみやこ)に遷都した。

 

和銅 四年( 711)七月      一日  《勤務成績の評定等級》

   律令を整え設けてから年月がすでに久しい。しかし僅かに全体の一・二が行なわれ

   るのみで、全部を施行することができない。これは諸司が怠慢で、職務に忠実でな

   いからである。単に名前を官職の員数に充てはめるだけで、空しく政務をすたれさ

   せてる。もし律令に違反して孝第(勤務成績の評定等級)を正しく扱わない者があ

   ったら、相当する罪のうち重い方を適用し、許すことがあってはならぬ。

 

和銅 五年( 712)正月     十六日  《諸国の役民、帰路で死》

   諸国の役民が郷里に還る日に、食糧が欠乏し、多く帰路で飢えて、溝や谷に転落し、

   埋もれ死んでいるといったことが少なくない。国司らはよく気をつけて慈しみ養い、

   程度に応じて物を恵み与えるように。もし死に至る者があれば、とりあえず埋葬し、

   その姓名を記録して、本人の戸籍のある国に報告せよ。

 

和銅 五年( 712)五月     十六日

   初めて国司が国内順行や交代の時に、食糧・馬・脚夫を給わる法を定めた。

 

和銅 五年( 712)十月二十九日     《諸国労役の人夫食糧の欠乏》

   諸国の労役の人夫と運脚(調・庸の物を運ぶ)が、郷里へ帰る日、食糧が欠乏して

   調達することが難しい。そこで郡稲から稲を支出して便利な所に用意しておき、役

   夫が到着したら、自由に買えるようにせよ。また旅行する人は、必ず銭を持って費

   用とし、重い所持品のため苦労することのないように、そして銭を使用することの、

   便利なことを知らせよ。 

 

和銅 六年( 713)三月     十九日   《物税運輸する人民の苦しみ》

   (略)諸国の地は、河や山によって遠く隔てられ、物税を運輸する人民は、永い行

   役に苦しんでいる。食糧は充分に整えようとすれば、貢納の数量が欠けることになり、

   重い荷を減らそうとすると、道中での飢えが少くないことを恐れる。そこで各自一

   袋の銭を持ち、道中で炉のある場所で、食事をする時の用に充てれば、労役の費(

   ついえ)をを省き、往き来の便が増すだろう。国司や郡司たる者は、富豪の者から

   募って米を路傍に用意し、その売買を行なわせよ。そして一年間の百斛(ひゃっこく)以上の米を売った者は、その名前を奉上させよ。(略) 

 

和銅 六年( 713)四月     十七日  《諸寺の田記》

   諸寺の田記に誤りがあるので、あらためて規定を改正し、一通は所司に保管し一通

   は諸国の国衙に頒ち置くことにした。 

 

和銅 六年( 713)五月      二日  《郡・郷の名称》

   畿内と七道諸国の郡・郷の名称は、好い字をえらんでつけよ。郡内に産出する金・

   銅・彩色・植物・鳥獣・魚・虫などのものは詳しくその種類を記し、土地が肥えて

   いるか、山・川・原野の名称のいわれ、また古老が伝承している旧聞や、異った事

   柄は、史籍に記録して報告せよ。 

 

和銅 六年( 713)七月      七日    

   美濃・信濃の境界、吉蘇路(木曾路)が開通。

 

和銅 七年( 714)四月二十六日      《職務怠慢》

   諸国の租稲を納める倉の大小や、内に積み貯えた数量は、帳簿に照合すれば食い違

   いはない。そのために国司が交代する日には、帳簿によって引き継ぎし、それ以上

   に調べ直すことをしない。しかし実際は欠け少なくなっていることが多く、徒らに

   形だけの帳簿をつくり、はじめから実数は無い有様である。これはまことに国郡司

   らが、現物にあたって調べていないことによっておこったことである。今後諸国に

   倉を造るときは、およそ三等の規格を設け、大には四千斛・中には三千斛・小には

   二千斛収納するようにせよ。こうして一定量を定めた後は、帳簿に偽りがないよう

   にせよ。

 

霊亀 元年( 715)五月      一日  《課役忌避など》

   天下の人民の多くは、その本籍地をはなれ他郷に流浪して、課役をたくみに忌避し

   ている。そのように流浪して逗流が三カ月以上になる者は、土断(現地で戸籍に登

   録)し、調・庸を輸納させることは、その国の法にしたがせよ。また人民をいつく

   しみ導き、農耕や養蚕を勧め働かせ、養い育てる心を持ち、飢えや寒さから救うの

   は、まことに国司・郡司の善政である。一方自分は公職にありながら、心は私服を

   肥やすことを思い、農業を妨げ利を奪い、万民をみしばむようなことがあるならば、

   実に国家の大きな害虫のようなものである。    

   そこで国司・郡司で、人民の生業を督励し、人々の資産を豊かに足りるようにした

   者を上等とし、督励を加えるけれども、衣食が足るに至らない者を中等とし、田畑

   が荒廃し、人民が飢え凍えて、死亡するに至る者を下等とせよ。そして十人以上も

   死亡するようであれば、その国郡司は解任せよ。また四民(士・農・工・商)には

   それぞれ生業がある。いまその人々が職を失って流散するのは、これまた国郡司の

   教え導くのに、適当な方法をとらないかで甚だ不当である。

   このような者があったら必ず厳重に処罰して見せしめとせよ。これからは巡察使を、

   派遣し、天下を手分けして廻らせ、人民の生活ぶりを観察させる。あつい仁徳の政

   治を行なうように勤め、詩経のことばにある周行の実現を庶(こいねが)うようにせよ。

   婚儀は諸国の人民が、国を越えて往来する際の過所(通行証明)に、その国の国印

   を使用せよ。

 

   3、聖武天皇

 

天平 十五年( 743)正月 十三日

   金光明最勝王経を読誦させるために、多くの僧を金光明寺(大和の国分寺。後の東

   大寺)に招いた。

   (略)仏弟子の朕は宿縁によって、天命をうつぎ皇位についている。そこで仏法を

   この世にのべ広め、もろもろの民を導き治めたいと願っている。云々

 

天平十九年       ( 747)十一月

   朕は去る天平十三年(741)二月十四日に、真心から発願して、国家の基礎を永

   く固め、聖なる仏の教えを常に修めさせようと思い、広く天下の諸国に詔して、国

   毎に金光明寺金光明四天王護国之寺の略)と法華寺(法華滅罪之寺の略)を造立

   させようとした。

   その金光明寺にはそれぞれ七重の塔一基を造立し、あわせて金字の金光明経一部を

   写して、塔の中に安置させることにした。

   ところが諸国の国司は怠りなまけてそのことを行なわず、或いは場所が便利でなか

   ったり、或いは未だに基礎も置いていない。

   思うに、天地の災異が一、二あらわれているのは、このためかと思う。(略)

   そこで従四位下の石川朝臣年足・従五位下の阿倍朝臣小嶋・布施朝臣宅主らを各道

   に分けて派遣し、寺地の適否を検べて定め、あわせて造作の状況を視察させよう。

   国司は使いおよび国師(その国内の、寺院、僧尼を監督する僧官)と共に、勝れた

   土地をえらび定め、努力して造営と修繕を加えよ。

   また郡司のなかで活発に諸事をなしとげることの出来る者を撰んで、専ら造寺のこ

   とを担当させよ。

   これから三年を限度として、塔・金堂・僧坊を全て造り終わらせよ。

   もしよく勅を守ることができ、その通り修造することができたら、その子孫は絶え

   ることなく郡領の官職に任じよう。その僧寺・尼寺の水田は、以前に施入された数

   を除いて、さらに田地を加え、僧寺には九十町、尼寺には四十町、所司に命じて開

   墾させ施入するであろう。広くこれを国・郡に告げて朕の意を知らしめよ。

 

山梨歴史講座 国司等に発せられた令 孝謙天皇

詔(みことのり)にみる国司の仕事

  詔(みことのり)・他(『続日本紀』)宇治谷孟氏-現代語訳

 

4、 孝謙天皇

 

天平勝宝 六年( 754)     九月 十五日 《出挙稲の利潤》

   諸国の国司らは、田租や出挙稲の利潤を貪り求めるので、租の輸納は正しく行なわ

   れず、出挙した利稲の取り立てに偽りが多い。

   このため人民はだんだん苦しみが増し、正倉は大変空しくなっていると聞く。

   そこで京および諸国の田租を、得不を論ぜず(不三得七の法にかかわらず)すべて

   正倉に輸納させることとし、正税出挙の利稲は、十の中三を取ることを許す。

   ただし田の作物が熟さず、調・庸を免除する限度になった場合は(欠損八分以上の

   場合)令に准拠して処分せよ。

   また去る天平八年の格(きゃく)を見ると、国司が国内において交易し、無制限に物を運ぶことは既に禁止されている。

   ところがなお敢えてこの格に従わず、利を貪って心をけがすことが珍しくなくなっ

   ている。

   朕の手足となるべき者が、どうしてこのようであってよかろうか。今後、更に違反

   する者があれば、法に従って処罰し、哀れみをかけて許してはならない。

   

賭博行為の禁止 

天平勝宝 六年( 754)     十月 十四日 《双六の禁止》

   この頃、官人や人民が憲法(国法)を恐れず、ひそかに仲間を集め、意のままに双

   六(すごろく)を行ない、悪の道に迷い込み、子は父に従わなくなっている。これで

はついに家業を失い、また孝道に欠けるであろう。このため広く京および畿内と七道の諸国に命じて、固く双六を禁断せよ。云々

 

天平勝宝 六年( 754)     十月 十八日 《射芸教習》

   畿内と七道諸国に命令して射田(射芸教習のための用地)を設けさせた。

 

天平勝宝 八年( 756)     六月    十日 《国分寺

   この頃、技術者を各地に遣わして、諸国の国分寺の造仏を促し調べさせた。来年の

   聖武帝の一周忌には、必ず仕上げるようにせよ。その仏殿も一緒に造り上げるよう

   にせよ。もし仏像および仏殿を、既に造り終えたならば、また塔を造り忌日に間に

   合わせよ。

   仏法は慈しみを第一とする。このために人民を苦しめてはならぬ。国志や派遣の技

   術者が、もし朕の意にかなうよう、よく仕上げた者があれば、特に褒賞を与える。

 

天平勝宝 八年( 756)     六月二十二日 《国忌の斎会》

   明年の国忌のご斎会は、正に東大寺で行なうことになる。その大仏殿の歩廓は六道

   諸国に命じ造営させ、必ず忌日に間に合わせよ。怠りゆるがせにすることがあった

   はならぬ。

 

天平勝宝 八年( 756)十一月       七日 《官物の搾取》

   聞くところによると、この頃、を出納する諸司の官人たちは、官物が納入される時、

   上前をはねようと、巧みに留めおいて、十日経ってもあえて官物を収納しようとし

   ないという。このために運送の人夫たちは、その足止めに苦しみ、競って逃げ帰る

   と聞く。

   これはただ政治を損なうだけでなく、実に人民の教化を妨げるものである。正に弾

   正台に命じて巡検させねばならぬ。今後、二度とこのようなことがあってはならな

   い。

 

天平宝字 元年( 757)     正月    五日 《郡領 軍毅》

   この頃、郡領(郡の大領・少領)・軍毅(軍団の大毅・少毅)に、無位の庶民を採

   用している。このため、人民は家に居ながら、官職につくことを当然とし、君に仕

   え働いて俸禄を得ることを知らない。これでは親に孝をつくすのと同じように、君

   主に忠を尽くすという気持ちは次第に衰え、人を教え導くことがむづかしい。今後、

   所司はよろしく有位の人以外は郡領。軍毅の選考の候補に入れてはならぬ。

   その軍毅には兵部省六衛府に仕える者の中から、わきまえが勝れ人柄大きく、勇

   ましく健全な者を選んで候補として任用し、その他の者にみだりに任用を求めさせ

   てはならぬ。それ以外の諸事については、格や令の規定によれ。

 

天平宝字 元年( 757)     五月    八日 《駅舎の利用制限》

   この頃、駅路を上り下りする諸使にすべて駅舎を利用させているのは、理にかなっ

   てはいない。これでは駅の人夫に苦労をかけることになる。今後は令の規定に

   従うようにせよ。

 

 

天平宝字 元年( 757)     六月    九日 《反仲麻呂派の不穏な動きへの牽制》   天皇は次のように五条を制定し申しわたした。

   その一 諸氏族の氏の上らは、公用をすておいて勝手に自分の氏族の人たちを集め

           ている。今後、このようなことがあってはならない。

 

   その二 王族や臣下の所有する馬の数は、格により制限がある。この制限以上に馬

           を飼ってはならない。

 

   その三 令の定めによれば、所持する武器については限度のきまりがある。この規

           定以上に武器を蓄えてはならぬ。

 

   その四 武官を除いては、宮中で武器を持ってはならない。

 

   その五 宮中を二十騎以上の集団で行動してはならない。

 

天平宝字 元年( 757)     十月    六日 《諸国人夫の悲惨な状況》

   聞くところによると、諸国からの調・庸を運ぶ人夫は、仕事を終わって帰郷する際、

   遠路のために食料が絶えてしまう、と。また旅先で病気になった人には、親しく世

   話をしてくれる人がいないので、餓死を免れるために物乞いをしてやっと命をつな

   いでいる、と。

   どちらの場合も旅の道中に苦しみ、ついに横死してしまう、と。朕はこのことを思

   いやって、哀れみに心を禁じえない。

   そこで、京都と諸国の官司に命じて、食料と医薬を量り与え、よく調べて無事に郷

   里に着けるようにせよ。もし官人が怠けて、この命令を実行しない者があったら、

   違約の罪を科することにする。

 

天平宝字 二年( 758)     十月二十五日 《国司の任期の短縮》

   (略)国司の任期を四年から六年にする。三年を経過する毎に巡察使を派遣し、治

   績を調査し、人民の苦しみを慰問させよ。二回の巡察の結果を見て、実情に随って

   官位の昇降をきめよ。願わくば国司の貪欲な気風を一掃して、ことごとく清新な気   風に改め、人民の負担を緩和し、しかも倉庫は充満している状態を希望する。

 

天平宝字 三年( 759)     五月 十七日    《人夫の救済》

   (略)この頃、冬の季節になると、市のあたりに餓えている者が多いと聞く。その

   わけを問い質すと、皆諸国から調を運んできた人夫で、郷里に還ることができなく

   て、ある者は病のために悩み苦しみ、ある者は食糧がなくて飢えと寒さに苦しんで

   いるという。

   朕はひそかに彼らのことを思い、深く心に哀れんでいる。そこで国の大小によって、

   公廨稲から一定量を採り出して、常平倉を設け、米の時価の高低によって、売り買

   いを行ない利益を収め、還ろうとする人夫の飢えと苦しみをあまねく救うようにせ

   よ。(略)

 

天平宝字 三年( 759)十一月       九日 《国分寺国分尼寺の図面》

   (略)国分寺国分尼寺の図面を天下の諸国に頒(わか)ち下した。

 

天平宝字 五年( 761)     六月    七日 《国分尼寺

   光明皇太后の一周忌の斎家を阿弥陀浄土院で設けた。その院は法華寺の西南隅にあ

   り、皇太后の一周忌の斎家を行なうために造営したものである。

   一方天下の諸国に命じて、それぞれの国分尼寺で、阿弥陀仏の丈六の像一體、脇侍

   の菩薩像二體を造らせた。