なまよみの甲斐の夜明け

山あいの国 山梨県

 

(『郷土史事典』 風土と歴史と人 山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 山梨県は、背の甲斐一国をそのまま境域としてなりたっていて、甲斐の国名が峡に由来しているように、どちらをむいても山また山である。北部から東部へかけては関東山地で、金峰山国師岳・甲武信番・雲取山などは、いずれも二〇〇〇メートルをこえており、八ケ岳から南へつらなる赤石山脈(南アルプス)には、駒ケ岳・仙丈ケ岳.北岳(白根山)・間ノ岳農鳥岳など三〇〇〇メートル級の峻険がひしめいている。また南側は、富士山をはさんで丹沢山地天守山地がふさいでいるので、さながら天然の国境をめぐらしたかの観がある。

 全体に起伏が複雑な地形から、気候は地域差が大きいが一般に内陸性である。甲府盆地の夏はとくに暑く、ほとんど連日三〇度をこえる半面、山地の冬には積雪期間が三カ月以上のところもある。雨量は比較的少ないが、局地的豪雨や台風におそわれると、たちまち洪水の難にあうことがめずらし<ない。

 県土の総面積四四六三平方キ日余のうち、ほぼ中央を商北に走る大菩薩連嶺と御坂山地が、大きく地域を東西に分断していて、古来東を郡内とよび、西を国中とよんでいる。国中には肥沃な甲府盆地が中心にあり、北東からの笛吹川と北西からの釜無川が、市川大門付近で合流して富士川になっており、笛吹川以東は東郡(ひがしごおり)、釜無川中流の石岸は西郡、両者の中間地帯は中郡(なかごうり)、富士川両岸は河内と慣称されている。国申には「和名抄」所載の山梨.八代.巨摩の三郡があり、米麦生産のほかに蚕糸業が発達したが、現在は甲府・韮崎・山梨・塩山の四市と、六郡中三十三町十二村があって、全国有数の大果樹地帯を形成している。

 郡内の大部分は、相模川上流の桂川水系の地で、古くは都留一郡だったが、明治の三新法で南北二郡に分れ、戦後は大月.都留・富士吉田の三市が誕生した。平地がとぼしく地味もやせているため、近世以来農業よりも機織など余業への依存度が大きく、江戸市場を中心とする関東地方との結びつきがつよかった。この傾向は基本的には現在も変らないし、風習や方言は国中よりも関東に近い。

 

「武田節」のふる里

 

(『郷土史事典』 風土と歴史と人 山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 甲州の古い民謡で全国的に有名なものはほとんどないが、昭和22年につくられた新民謡「武田節」なら、日本中の誰もが知っている。戦国時代に中部地方の大半を領国におさめ、西上作戦にうって出た武田信玄は、何といっても山梨県人の誇りであり、勇壮なメロディーをもつこの歌には、愛郷の念がみちあふれている。

 江戸後期の農学者佐藤信淵は「農政本論」のなかで、治水事業をはじめ信玄のすぐれた民政を指摘しているが、当時の甲州民の信玄讃仰も、戦略ではなく民政の面においてであった。ながらく天領下におかれた甲州では、人数も少なく任期もみじかい代官所役人になじみがうすく、対立がおこるような場合にしのんだのが、信玄公の古いよき時代だった。農民にとって都合のよい大小切租法・甲州枡・甲州金の三法を、信玄の遺徳とする伝承もここから生れた。しかし、三法が許されたのは国中の三郡だけだったし、郡内の人びとは国中を指して甲州とよび、武田氏の候統とは異る世界を自認していた、郡内の独自性は、偉令制の崩壌に乗じて小山困氏が侵入して以来、国中の甲斐源氏に対抗する政権を築いたところからおこり、信玄の盛時にもその相対的独立を承認せざるを得なかった。したがってそこに三法の伝承が生れる余地は、はじめから存在しなかったのである。

 県都甲府は、武田氏の信虎・信玄・勝頼三代の城下町だったのにはじまる。武田黄の滅亡後、今の甲府駅前に甲府城ができ、城南を中心に新しい城下町が建設されるにあたっては、旧城下町から移転した人びとが草分けとなった。そのなかには武田御家人の子孫で商人にあった者が多く、町年寄や長人には主にこれらの人が任命された。

 

そとからみた県民性

 

(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 きびしい甲斐の風土と歴史環境が、どのような人柄をはぐくんできたかについて、大正初年に刊行された「東山梨郡誌」は、当時の評論家山路愛山の観察を、つぎのように紹介している。

 国民(県民)の性格は一言にしていえば、人生の修羅場なる意義を極めて露骨に体得したるものなり。彼等の租先は痩せ地に育ちたるが故に、生存競争の原理を極めて痛切に感ぜざる能はざりき。彼等は人生を詩歌の如く眺めること能はず。彼等にありては、人情も詩歌も夢幻も、要するに薄き蜘蛛の巣の如きのみ。

 彼等は人生をまだ戦場なりと自覚す。故に奮闘す。(略)往々にして極端なる自已中心主義なり。去れど彼等はこれと共に堅忍不抜なり。直情径行なり。其向ふ所に突進して後を顧みざるなり。故に彼等は財界の雄者として成功す。彼等の理想は勝利なり。他人を圧倒することなり。人生の思想を露骨に語りて、何の掩(おお)ふ所なきなり。

半世紀以上前の評であるが、はたして現在はどうであろうか。謙虚に省察の資としたい一文である。

 

なまよみの甲斐の夜明け 甲府盆地の湖水伝説

 

(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 甲斐国の中心甲府盆地は、太古に大湖水であったという。甲斐の人びとは、湖水の周辺の山腹や丘陵に住んでいて、湖水の水を払い、そのあとを田や畑にしたいと願っていた。そこで人びとは神の助けをかりて、下流の大岩を切りひらいて干拓をなしとげ、現在の甲府盆地が出現したという内容の伝説が、いくつか生み出された。

 これらの伝説は、甲斐国をゆたかな実りのある国にしようとするあこがれと、開発に苦心を重ねた祖先への感謝の気持が生んだものであろう。

 「甲斐国社記寺記」によると、蹴裂明神という神があらわれ、湖水の水の出口をふさいでいた大岩をやぶって富士川へ落したため、分皿地にはじめて人が住めるようになったという。中道町下向山では、この神を向山土本昆古王と名づけ、佐久神社に祀っている。また、石和町河内にも同名の神杜があり、社伝によると、昔甲斐国は海国と称し、一面湖水であったころ、根裂の神は磐裂の神とはかって岩石を蹴裂き、水路を通してから、湖水はしだいに漏洩して浅いものは丘となり、深いものは沼となり、あるいは田畝とたって民人繁殖し、一国?の地となったという。後人はこの二神の徳に感銘して、古く中国の萬王の功にくらべて、かの岩肩を蹴裂きたまえるところを萬の瀬と唱え、人口に伝わり今なお存する処なり、といっている。

 

甲府 穴切神社(資料『郷土史事典』山梨県 手塚寿男氏著 1978)

 

 穴切神杜(甲府市)の社伝には、和銅年問(七〇八~一五)に、時の国司が盆地一帯を占める湖水を千拓しようと、朝廷に奏聞のうえ、大已貴命を勧請し、祈願をこめて千掘に着手した。鰍沢口を切りひらいて富士川に水を落したので広大な田畑が千拓され、甲斐国がみごとな土地をもつ国となった。この神に感謝し、神々を祀り、甲斐国の鎮護の神として崇拝し、穴切神杜と称したとある。「甲斐国志」にも、穴切神杜の三神を祀る由来について、大已貴命と素義鳴尊と少彦名命の三神によって、鰍沢下流の大岩礁を切りひらいて滞水を排出し、干掘をなしとげたので、この神々を祀ってあると記されている。