甲斐上代国政関係者一覧 2
甲斐上代国政関係者一覧 2
◇大井
巨摩都ノ郷名ナリ。山梨郡ニモ大井窪ト云処アリ。
大井郷ハ後ニ大井ノ圧トモ云。
宇治袷遺物語
甲斐国の相撲大井光遠はひざふとにいかめしく力つよく足はやくみめことからよりはいみじかりし相撲なり。それが妹に年廿六七ばかりなる女のみめことからけはひもよくすがたもほそやかなるありけりそれはのさたが家にすみけるにそれが門に人におはれたる男の刀をぬきてはしり入てこの女をしちにとりて脇に刀をさしあてゝ居ぬ人はしり行てせうとの光遠に姫君は質にとられ行ぬとつげられは光遠がいふやうそのおもては薩摩の氏長ばかりにこそはしちにとらめといひてなにとなくてゐたれはつけつるをのとあやしと流もひてたちかへりて物よりのぞけは九月はかりの事なれば薄色の衣重に紅葉の袴をきて口おほひしてゐたり男は大なるおのこのおそろしけなる大の刀をさかてにとりて腹にさしあてゝあしをもてうしろよりいたきてゐたりこの姫君左の手してはかほをふたぎてなく右の手しては前に矢のゝあとつくりたるが二三十ばかりあるをとりて手すさみに節のもとを指にて板敷にをしアてゝにじれば朽木のやはらかなるをおしくだくやうにくたくるをこのぬす人目をつけて見るにあさましくなりぬいみしからんせうとのぬしかな槌をもちて打くたくともかくはあらしゆゝしかりけるちからかなこのやうにてはたゞいまのまにわれはとりくだかれぬべしむやくなりにげなんと思て人めをはかりてとびいてゝにげはしる時にすゑに人ともはしりあひてとらへ行しばりて光遠かもとへぐして行ぬ云々
日蓮年譜ニ弘安五年(1282)九月九日
大士大井ノ荘司ニ投宿スト見エタリ。諸書ニ荘司ハ日蓮ノ弟子日興ノ父トス。
日輿ハ六老僧ノ一員ニテ富士派ノ所祖ナリ
(信州ニ大井圧二所アリ東鑑ニ載セタル大井兵三次郎実治、大井紀石衛門実平等ハ紀姓也。
又小笠原次郎長清ノ七男大井太郎朝光ト云者佐久郡大井ヲ食テ岩村田ニ居ス。
子孫繁シ皆本州ノ大井姓ト異ナリ(武田陸奥守信武ノ次男信明大井弾正少弼ト号ス)
廃祀ヲ輿スナリ。是ヨリ本姓源ヲ称シテ大井ハ氏族ノ如クナレリ。西郡士庶部ニ詳ナル故ニ此ニ略ス。
◇吉弥候部 キミコベ
日本逸史弘仁十四年(823)五月戊午甲斐国賊首吉弥候部井出麻呂等大少男女十三人悉配流伊豆国。
『日本逸史』
天長八年(831)
二月戊寅甲斐国浮囚吉弥候部三気麻呂、同姓草手子二烟附實駿河国使無塩也。
(類聚国史ニ吉弥候部ヲ作二吉弥雙部一誤也又使無塩也。作下便無塩也。
天平宝字元年(757)
三月勅故君子部為吉美候部姓氏録ニ吉弥雙部ハ上毛野朝臣同祖也トアリ)
◇壬生直
三代実録元慶六年(880)十一月朔己巳甲斐国巨痲都人左近衛将曹従六位上壬生直益成男三人女四人山城国愛宕郡ヲ實隷ストアリ。
逸見筋小尾ニ丹生ト云地名アリ。壬生ノ忠岑本州ノ役ニ補セラル事アリ。『三代実録』
◇清原真人
三代実録元慶八年(882)十二月五日壬戌甲斐国言嘉未禾管山梨郡石禾郷正六位清原真人当仁宅一其一十三茎五十穂、其一十二茎三十六穂当仁是従四位下豊前王之子也(石氷当作石禾)其子孫ノ事ハ大石和筋ニアリ。『三代実録』
◇小野
姓氏録ニ小野朝臣大春日朝臣同祖、彦姥津命五世孫米餅搗大使主命之後也。大徳小野臣妹子家于近江国滋賀郡小野村因以為氏、又小野臣天足彦国押入命七世孫人花命之後也、『姓氏録』
本朝世紀天慶四年(941)十一月二日戊午甲斐国真衣野柏前御馬十五匹到来云云。
其解文左馬少允小野国輿持参トアリ。都留郡ニ小野村アリ。又穂坂ノ小野ハ歌ニモ詠メリ。
国輿ハ本州ニ在リシ牧監ノ類ナルヘシ。
同紀左馬権少届秦忠見御馬便彼国大目伴並高左馬少允源致等見ユ皆牧馬ノ吏ナリ 『本朝世紀』
◇榎下・宮道・麻生
東鑑ニ建久五年(1194)八月廿日戊申遠江守ノ(安田義定ナリ)伴類五人名越辺被刎首所語前滝口榎下重兼、前石馬允、宮道遠式、麻生平大胤国、柴藤々三武藤五郎等也トアリ。榎下ノ事ハ大石和筋ニ記ス。姓氏録ニ榎本連ハ大伴運同相也、麻生ハ逸見筋ニ地名ニアリ今浅尾村ト云、宮道柴藤ハ所伝詳ナラス其頃官名ヲ帯ビタル人ハ皆在庁ノ国土ト見エタリ。称スル所モ姓ニシテ氏族ニ非サル人多力ルヘシ。『東鑑』
◇ 榛原公
姓氏緑ニ息長真人同祖 誉田天皇ノ皇子大山守ノ命ノ後也トアリ。榛原ハ泰原(ハリバラ)ニ同シ。遠州泰原郡(倭名抄訓波伊波良)貝原ガ大和本草ニ榛ノ葉榿木(ハンノキ・ハリノキ)似タリ。故ニ榛原ヲ「ハリハラ」ト訓スル由見エタリ。 『姓氏緑』
武州ノ榛谷(ハンガヤ)榛沢ト云地名ノ如シ。本州ニ榛原氏アリ又埴原ト書ケルハ信州埴科(ハンシナ)郡ノ地名ナリ「ハニ」ト訓スヘシ。相混セシト見エタリ。
◇余戸
和名抄所載ノ郷名也。他州ニモ同名多シ其義延喜式等ニ見ユ「アマリ」ト副スベシ。後甘利ニ作ル武田ノ親族ナリ 『和名抄』
◇真衣
(真衣野・真木野トモアリ)共ニ武河筋ニ在ル郷名ナリ。氏族ノコト未考。
◇高村ノ宿禰
姓氏録ニ出目魯恭王之後 青州刺史列宗王也。今作高室地名在巨摩西郡小笠原氏ヨリ紹ク所也。 『姓氏録』
◇錦織村主
同書ニ出目韓国人波努志也。地名同郡奈胡圧ニ在リ。錦織判官代ト云者太平記ニ見エタリ。
奈胡五味等モ此庄ニ出ツ。
◇加賛美部(又鏡ニ作ル〉
姓氏録各務(カガム)ハ未者ノ内ニアリ。武田親族加賀美氏ノ拠ル所ナリ。小笠原モ此西ニ在リ。『姓氏録』
◇川合
姓氏緑ニ上毛野同氏多寄波世君之後ナリ。川合ハ郷名ニ在リ。後ニ河内ト云。武田親族ヨリ紹ク南部、下山岩間、下部等此郷ノ庄名ナリ。『姓氏緑』
◇神服部
逸見郷ニ神取村アリ。或加鳥ニ作ル。日本紀神護景雲三年(769)奉神服部天下諸社トアリ。是其遺名ナルヘシト云。
◇青沼
北山筋ノ郷名ナリ後ノ青沼氏ハ将帥部ニアリ。又穂坂圧モ此筋ニ在リ。
◇鹿角(カツヌ) 又加澤野ニ作ル
ヌノ仮名ハ通用ナリ。将帥部ニ出ス。亦勝沼氏之ニ同シカルヘシ都留郡ニ葛野村アリ。
◇波加利
都留郡ノ荘ノ名ナリ。初雁氏。初鹿野氏ニ之ニ同ジカラント云ヘリ。将帥部ニ出ツ。
◇古郡
古都ハ同郡ノ郷名ナリ東鑑ニ古郡左衛門尉保志ノ事アリ。旧キ国人ナルヘシ。後ノ古郡氏ハ蓋シ此ニ出ツ。将帥部ニ委シ。
◇謂波多八代宿禰
林戸郷謂波多八代宿禰の胤林臣受レ封ノ處盖し是か。三枝系図による林部之介守の党の事は人物部に出つ。
◇矢作部宅雄
軍団跡 貞観14年( 872 )甲斐国都留郡大領外正六位上 甲斐国都留郡少領
◇三枝守国
軍団跡 承和中(834~847)仁明帝、本州野呂に左遷する。(三枝系図)
◇平将門
上岩崎村 天慶中(938~947)平将門下総国猿島郡岩井郷に據りて謀反し、自号平親王誅に伏して後残党諸州に沈落して止まり居る處を自ら岩井郷と称せり。
◇古郷左衛門
坂東山 建保5年(1217)五月四日、古郷左衛門兄弟於甲斐国坂東山波加利之東競石郷二木自殺矣(東艦)みさかかた山つるばんとう(曽我物語)鎌倉へ出仕の道すじを云う趣なり。或いは篠山即ち坂東山なりと云々
◇波多八代宿禰
八代郷 景行天皇25年(95)秋七月、遺武内宿禰令察二北陸及び東方諸国之地形且百姓之消息也。
『日本記』27年(97)春二月、武内宿禰自東国還之云々
『日本記』建内宿禰の子有波多八代宿禰波多臣、林臣、波美臣、長谷部の君等祖。
『古事記』又許勢小柄の宿禰あり許勢臣、雀臣、等之祖。(以上の姓氏皆本州に據りて出しと見ゆ。各其條に詳にす.
◇波多(秦)
秦氏所貢絹綿軟於肌膚故訓秦字謂之波陀と見えて機織の事に通す。本郡に又蠶絲に名あり。『古語拾遺』
◇伴直眞貞
八代郷 貞観 七年(865)八代郡擬大領 富士浅間神霊の事を載せる。
◇伴 秋吉
郡人 『残簡風土記』