2014-01-01から1年間の記事一覧

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白州町 水辺

白州町 神秘な森

甲斐駒ケ岳 田植え前

藪の湯みはらしのご案内

米倉政継

Ø 米倉政継 政継は、以来五〇年間精勤して延宝二年(一六七四)二月致任した時、四〇〇石加増されて六〇〇石、能吏と讃えられた。宝永四年(一七〇七)八月、九十四歳で没した。

米倉清継

Ø 米倉清継 清継は父とともに慶長五年(一六〇〇)関ケ原役に功を立て、天正十八年(一五九〇)に大久保長安の疑獄が起こると、佐渡金山に出張して検察した。元和元年(一六一五)大坂の残党が相州に潜入したのを捕えて賞された。 清継は寛永元年(一六二四…

米倉六郎右衛門尉種継

米倉六郎右衛門尉種継 丹後守重継の三男、『寛政重修諸家譜』には信継とあるが、後裔の武州金沢藩主米倉丹後守昌由が幕府に提出した譜には種継とある。 また種継は、高野山引導院に先生武田歴代諸公の立牌をしているが、 いずれも施主米倉六郎右衛門尉種継と…

米倉主計助忠継

米倉主計助忠継 重継の嫡男忠継は、父亡き後、主計助として甘利家に仕え、武川衆の領袖を兼ね勤めた。 天正十年(一五八二)三月、武川衆は勝頼より特殊の任務を与えられ、その指揮に従ったが、中途で計画が変わったため、活動の棟会を得なかった。 Ø 『甲斐…

 長男米倉彦次都晴継と甘利左衛門の情愛について(『甲陽軍艦』)

Ø 長男米倉彦次都晴継と甘利左衛門の情愛について(『甲陽軍艦』) 甘利左衛門尉、同心頭米倉丹後守の惣領子彦次郎鉄砲にて腹をうしろへうち抜かれ、胴の中へ血入りて腹はつしてすでに死するに、芦毛馬の糞水にたて て飲み候へば血を下すと申して与へ候所に…

『甲陽軍艦』米倉丹後守重継の武略

Ø 『甲陽軍艦』米倉丹後守重継の武略 永禄五年(一六五三)戊の二月二十八日に、信玄公甲府を御立あり、三月北条氏康子息氏政、武田信玄公子息太郎義信公、両家合せて四万六千余にて松山の城を攻め給うに、武田勢の先衆甘利左衛門尉、より口から城ちかく取よ…

武川衆 米倉丹後守重継  戦陣における銃弾の防具、竹束の創意

米倉丹後守重継 (資料『武川村誌』 第6節 武川衆 諸家列伝一部加筆) 米倉左大夫の兄、丹後守重継は名将であった。 Ø 『寛政重修諸家譜』 『寛政重修諸家譜』の重継の譜によれば、 「代々武田家に仕え、甲斐国武川に任す。天文二十一年八月、信濃国苅屋原城…

武川衆 米倉氏の発祥

一、米倉氏の発祥 (資料『武川村誌』 第6節 武川衆 諸家列伝一部加筆) 米倉氏は、甲斐源氏逸見冠者清光の九男 奈胡十郎義行の孫、弥太郎信継が八代郡米倉村に封を受け、米倉弥太郎と名のったのに起因する。 信継の後裔に至り、巨摩郡甘利庄の領主甘利氏に…

大町桂月の和歌 駒ヶ岳

大町桂月の和歌 駒ヶ岳 明治から大正時代にかけて高名の国文学者大町桂月は、晩年二回駒ヶ岳に登った。その折の即興の歌は町内各処に数多く所蔵されている。 大町桂月の和歌 大正十二年夏駒ヶ岳にて 夜もすがら高根のうへに焚火して 寝ながらに見る十五夜の…

白州町 桜井義令の和歌

白州町 桜井義令の和歌 明治中期横手出身の桜井義令は、国学及び和歌に造詣深く多くの墨跡を残した。 桜井義令 解かれ行く文字は読むとも皇国の 直なる道を踏まんとそ思ふ 辞世の歌 桜井義令 なきがらと世をば終るか言の葉を いくよろづたびくりかへしつつ

横手十勝 北巨摩郡誌より転載

横手十勝 北巨摩郡誌より転載 駒岳白雲 下野国 遠藤足穂 白砂の雲とみ雪を朝にけに かへてはせおふ駒ヶ岳かも 仙水染藍 陸奥国 大道村繁禎 山姫は山あいの色を御手洗の 水にたたへて何をそむらん 千淵躍魚 美濃国 古川久明 久方の空飛ぶ鳥にならひてや 魚も…

白州町に関わる和歌 『白州町誌』

白州町に関わる和歌 『白州町誌』 白州町は山紫水明の景勝地の故か、古来多く歌に詠まれている。以下昔の和歌を尋ねながら現在の作者の歌を記述する。 白須松林址には、御歌所寄人 大江正臣書の豪壮な歌碑が建てられている。 季花集所載 征東将軍宗艮親王 甲…

白州町域内の俳人 山田玉斉

白州町域内の俳人 山田玉斉 玉斉の句碑が国道二十号線沿いの旧前沢公民館前に建てられている。玉斉はいまの山田家五代前(昭和六〇年頃)の人で俳諧にすぐれ、書は行草に通じ地域に俳風を弘めた。子息の玉簾もまた父の道を継いでこの道に専念した。 槍持のお…

白州町域内の俳人 河西素柳

白州町域内の俳人 河西素柳 下教来石出身で、嵐外の酒落を慕い各地の文士と交遊したが、嘉永二年三十四歳で早世した。 曙の動き初めや梅の花 素柳

白州の俳人 塚原幾秋

白州の俳人 塚原幾秋 文化年間以降、下教来石の甫秋、幾秋、雲鳳、四秋の父子四代によって、この地方の俳諧の道が高揚された。幾秋は文化二年(一八〇五)下教来石一五四番戸に生れた。幾秋の父は通称彦平といい、号を甫秋と称した。幼少のころから風雅の道…

山口素堂 白州町誌

山口素堂 参考資料 『白州町誌』一部加筆 編集 白州ふるさと文庫 山口素堂資料室 序にかえて この資料の中で「濁川改悛工事」や江戸俳壇における素堂の位置を誤って記載している箇所も見えるが、別記としてここでは触れないことにする。 山口素堂 寛永十九年…

柳沢吉保の信仰(「武川村誌」一部加筆)

柳沢吉保の信仰(「武川村誌」一部加筆) 延宝五年、嫡母青木氏を喪った吉保は、人生、生死ということを深刻に考えるに至った。そこで、江戸小日向の臨済宗妙心寺派竜興寺の住持、竺道祖梵に参禅したのである。竺道は、妙心寺二百三十七世の名僧で、竜興寺は…

柳沢美濃守吉保 生まれる(「武川村誌」一部加筆)

柳沢美濃守吉保(「武川村誌」一部加筆) 出生 柳沢家は、信俊以来、徳川家の信任を受け、信俊の次男安忠が父信俊に劣らない才能をもって徳川綱吉に重用され、家運の端緒を開いた。しかし当時の俸禄は、采地一六〇石、廩米三七〇俵で、決して高禄ではない。 …

柳沢刑部左衛門尉安忠(「武川村誌」一部加筆)柳沢吉保の父

柳沢刑部左衛門尉安忠(「武川村誌」一部加筆) 安忠は兵部丞信俊の次男で、慶長七年、父の采地武蔵国鉢彩領今市村で生まれた。初名を長蔵といい、元服して十右衛門尉信時、さらに刑部左衛門尉安吉と改めた。刑部の名は祖先新羅三郎義光の官刑部丞にゆかりが…

柳沢兵部丞信俊(「武川村誌」一部加筆)柳沢吉保のお祖父さん

柳沢兵部丞信俊(「武川村誌」一部加筆) 信俊は、武川衆の中での実力老青木尾張守信立(信親とも)の三男であるが、実兄で武川衆横手家を継いだ監物信国が、元亀元年正月駿河国花沢の城攻めに討死したため、名門横手家の絶えることを惜しんだ武田信玄の命によ…

柳沢氏の発祥(山梨県北杜市武川町柳沢)

柳沢氏の発祥 柳沢氏は、鎌倉末期の甲斐守護一条時信の六男、青木十郎時光を祖とする家で、『寛政重修諾家譜』所収青木家譜に、時光の六世尾張守安遠の次男弥十郎信興が柳沢村に封を受け、ここに柳沢氏を称したのが起こりとされている。 同じ家譜に、信輿の…

武川衆、米倉嘉左衛門順林(宮脇村)『甲斐国志』

武川衆、米倉嘉左衛門順林(宮脇村)『甲斐国志』 城番ノ記ニ百三捨石ノ高ナリ、長郷村帳ニハ弐百弐拾九石八斗七升下円井村ノ内トアリ、宮脇ノ普光寺ニ牌子ヲ置ク、垣照院随翁常観居士 寛文二(一六六二)寅年九月廿七日歿ス、蓋シ左太夫ノ男子力於定年九十…

武川衆、米倉佐太夫誠俊(宮脇村)『甲斐国志』

武川衆、米倉佐太夫誠俊(宮脇村)『甲斐国志』 慶長城番ノ列弐百拾四石ノ高ナリ同郷村帳二弐百拾三石弐斗宮脇村ノ内トアリ。「編年集成」ニ、忠長卿へ附属又米倉丹後重綱ノ弟ト云、按ニ米倉氏ハ八代都小石和筋ニ出ツ、人物部ニ詳ナリ、丹後守重継ハ甘利氏ノ…

武川衆、宮脇氏『甲斐国志』

武川衆、宮脇氏『甲斐国志』 宮脇清三種友 下ノ郷起請文ニ六河衆トアリ、恵林寺永禄六年(一五六三)寺領育表紙帳ニ工藤源左衛門ノ同心宮脇藤三郎ト云う者見エタリ、宮脇村百姓ノ蔵書三通由緒送書トアル旧記ニ米倉太郎兼信ヨリ(系図作信継)十一代米倉左太夫…

武川衆、山寺氏(『甲斐国志』)

Ø 武川衆、山寺氏(『甲斐国志』) 山寺源三昌吉 下ノ郷起請文ノ六河衆ニアリ。山寺ハ上条南割村ノ地名ナリ一蓮寺ノ過去帳ニ永亨五年(一四三三)四月廿九日合戦討死ノ内立阿(柳沢)受阿(山寺)トアリ以下往々山寺トハ見エクレトモ其名仝カラサレハ今挙ケ…