武川衆 米倉丹後守重継  戦陣における銃弾の防具、竹束の創意

米倉丹後守重継
(資料『武川村誌』 第6節 武川衆 諸家列伝一部加筆)
 
 米倉左大夫の兄、丹後守重継は名将であった。
 
寛政重修諸家譜』の重継の譜によれば、
「代々武田家に仕え、甲斐国武川に任す。天文二十一年八月、信濃国苅屋原城攻めのとき、はじめて竹束を作り、これを攻め、遂に其の城を乗っ取る。のち甘利某が陣代となり、しばしば戦功あり。天正三年(一五七五)五月二十一日長篠の役に戦死す。法名空心。山梨郡小屋敷村恵林寺に葬る。妻は牧野原氏の女。」と見えている。
 
Ø  戦陣における銃弾の防具、竹束の創意
丹後守重継の特筆すべき事績は、戦陣における銃弾の防具、竹束の創意である。竹束とは、竹を束ねて楯とし、銃弾を防ぐもので、軽くて堅牢で、当時の銃丸の威力に十分に堪えたので、たちまち全国に普及したのである。
『大言海』は竹束の解説を次のように記す。「竹束、竹を束ねたるを楯とするもの。銃丸を防ぐに用いる。天文の頃、甲斐の武田氏の士、米倉丹後守の創意という。」と。
また『姓氏家系大辞典』米倉氏の項
に、「天文二十一年(一五五二)信玄、信州小笠原氏の老臣会田弥助を苅屋原城に攻めし際、米倉丹後守重継、はじめて竹束を製し、鉄抱を防ぐ。これ日本竹束の起原なりという。」とある。
 『寛政重修諸家譜』によれば、米倉家の記載を丹後守重継から始めているので、これにより重継の子女関係系図を整理してみよう。
 
  重継 (丹後守)  -晴継 (彦次郎、駿河薩埵山にて討死)
-忠継 (主計助)-種継-
-種継 (丹後守、忠継の嗣となる)
-豊継 (左大夫)
-利継 (彦大夫)
-女子
-満継(加左衛門尉)
 米倉丹後守重継と、その長男彦次郎晴継にまつわる逸話が、『甲陽軍鑑』に見える。まず父重継の武略をたたえ長文のものである。