日本の神様 阿弥陀如来 あみだにょらい

  日本の神様 阿弥陀如来 あみだにょらい 阿弥陀様の御本籍は、この土を離れること十万億土の極楽世界と名づけられている。 その極楽の国王がこの阿弥陀さまである。 阿弥陀さま  日本寄留地「本願寺」の御説によると、「極楽世界之教主」という称号があります。この他、この仏様は十二の肩書付きの偉い方で、無量光、無辺党、無碍(むげ)光、無対党、燄(えん)王(おう)光、清浄光、歓喜光、知恵光、不断光、難思(なんし)光、無称光、超日(ちょうじ)月光(げつこう)の十二光がこれです。これらの名は、この仏の光明の徳用から分類したものですが、みな絶対的光明であって、これらを総括して、無量寿という時間的威神力に関する名と、無碍光という空間的威神力に関する名との二尊に縮めて、ふつう「阿弥陀」の称号としています。 このように名につくところの肩書や尊号が多いほど、それだけこの仏は現世の人々から信仰されているのです。  この阿弥陀さまの経歴は「大無量寿経」にくわしく記してあるが、それによれば、なんでも昔、昔、その昔、インドの立派な富国の国王様として生まれた方でした。極楽の国王として今を時めく阿弥陀さまは、昔から国王の系統であった。全く天賦、帝王の資性を備えているのであろう。 ところがこの国王世自在王仏という仏さまの感化教導により、始めて仏道に入り、法蔵(ほうぞう)比丘(びく)という僧侶になられた。五劫(ごこう)の間というから、随分永い年数の間というもの大慈大悲の救世を思い、二百二十億の諸仏刹(ぶっさつ)(寺・仏閣)の中より、粗悪を捨て、善好を選択し、ついに四十八願を建立したのです。 四十八願という、沢山の誓願であり、これがみな救世の願いであるので、誠に有難いわけです。 げにこの仏さまは慈悲博愛の結晶であって、その目的とする所は、一切衆生をして他力的救済の恩恵に浴されるにあった。そこで、自己の成仏も、畢竟(ひっきょう)衆生のためであるという慈詣を宣言しております。  四十八願のことは、「大無量寿経」やこれに関した天親菩薩の「浄土論」などに詳細に記述してあるが、その要旨をいうと、諸仏と違って、いわゆる他力往生の誓願で一度、この仏を称し奉れば、極悪重罪人といえども、余さず、漏さず救うべし。自力精進の苦行余業には及ばずとあります。  さて、この他力にこと寄せて、先般現職農林大臣が、 「わが国の憲法は他国の信義に信頼して、わが国の安全と平和を維持すると決めている。これは親鸞の他力本願だ。右の頬を打たれたら、左の頬を出すというのでは個人はともかく、国家は生きていけない。やはり軍艦や大砲を持って、自分の国は自分で守る自主防衛が大切だ」 とやらかした。もちろん国会では野党の総攻撃をうけ、また東西本願寺をはじめ真宗門徒から大抗議が出され、当の大臣は辞職してしまった。 かく、途方もない所に他力本願を誤解して、しばしばこの仏さまを苦しめては困りものです。南無阿弥陀仏。 さて、阿弥陀さまの御仏祖はというと、ふつう誰でも知っているように、慈悲忍辱の端相であるが、「瑜伽大赦王第二」には、三面六背の身相を記しています。日本出張所総元締「本願寺」所定の相好は、立像で、左右の両手は天地を指し、法身説法の印を結び、光明赫々、紫(し)麿(ま)黄金の膚(はだえ)を持ち、「光明遍照十方世界」と、「念仏衆生摂取不捨」との二方面を表示しています。 また、真言の所説によると、金、胎両部曼荼羅(まんだら)の中において、胎蔵界にあっては中台八葉院の西葉に位し、金剛界にあっては根本成身会中の西方五解説輪に坐す、共に大日如来の西方、成(じょう)菩提門(ぼだいもん)に位し、妙(みょう)観察(かんさつ)智(ち)を体し、寂(じゃく)定相(じょうそう)にして膚(はだえ)は紫磨(しま)金色または赤金色、妙(みょう)観察(かんさつ)智(ち)の定印を結び、丹光の袈裟を着し、宝蓮華上に坐しています。いわゆる妙観察智の阿弥陀はこれです。 もし平等の義からいえば、この仏すなわち大日如来で、ひとり妙観察智の仏体たるのみならず、実に五智円満具足、全智全能の法仏である。なお曼荼羅阿弥陀のほか、九品(きゅうほん)の弥陀、紅頗(こうは)梨(り)の弥陀、山越の弥陀など程々あるけれども、みな、容貌は寂(じゃく)定相(じょうそう)に限られています。 この仏さまは、極楽国の王様だけあってその家来の眷属(けんぞく)も多い。平常は御一人でいるが、ちょっとお出掛けとなると、観世音菩薩に大勢至菩薩という左右大臣が従っています。(観世音が左で大勢至は右であるが、仁和寺の像はその反対に観世音が仏の右で大勢至が左です)これを「阿弥陀三尊」と称えられている。  それから、いよいよ本式になると、二十五菩薩という大顕官が従うのです。 二十五菩薩とは、さきの観世音、大勢至をはじめ、薬上、普賢、法自在、獅子吼(ししく)、荼羅尼、虚空蔵、徳蔵、金光蔵、光明王、山海(さんかい)慧(えい)、華厳王、衆宝王、月光王、日照王、三昧王、定自在王、大自在王、白(びゃく)象(ぞう)王、 大威徳王、無変身の諸菩薩です。かく、お歴々の諧菩薩を、手足のごとくに使う阿弥陀さまは、偉い方といわねばならない。 さて、ここで、阿弥陀さま渡来のことについて述べてみましょう。 仏さまといえば阿弥陀さまのことであると思うくらい、わが国では名高い方で、ことに北国辺りへ行こうものなら、阿弥陀さまの外に仏というものはないと信じています。 阿弥陀さま渡来の歴史、極楽に本籍のある阿弥陀がこの世に出て来たのはいつで、またどこから来たものであろうか、学者の間でも一定していません。ペルシャに起こったゾロアスター教義から分かれたものであるという人もあるが、やはりインドが本家で、インド教から分家したものであるという人もあります。 中国では後漢の来、安息より来た僧「安世高」によって「大無量寿経」を伝えられた事実はあるが、中国における阿弥陀家の地盤を作ってやった功臣は廬山の慧遠法師で、「白蓮社」という組合を組織して、盛んにその信仰を鼓吹したものです。この法師こそ、中国における阿弥陀家の殊勲者です。 さて、わが国へは、六世紀のなかごろ欽明天皇の初代に仏教が伝来し、主として朝廷、貴族社会に広まり、阿弥陀信仰も行なわれていた。奈良、平安時代にかけて仏教が盛んになるに従って、阿弥陀信仰も盛んになったことは当然であります。 平安時代初期に、円仁(最澄の高弟、天台宗山門派の祖=慈覚大師=七九四~八六四)が比叡山にかつぎ上げて、大いに世間に紹介した。その後、中期、日本浄土教の祖といわれる源信天台宗の僧、恵心僧都=九四二~一〇一七)が「往生要集」を著わして浄土教を説いて以来、阿弥陀如来の極楽浄土に往来する思想が深く浸透して、朝廷ならびに貴族社会(藤原氏)では阿弥陀如来堂建築が流行し、極楽浄土のありがたさを現実に表現しようとして、あらゆる工芸美術を応用し、意匠を凝らし、技術の粋を極め、豪華をつくした。 さて、その後、鎌倉時代前期に、法然上人(源空=一一三三~一二一二)が浄土宗を開いて、その棟梁 (本尊と仰ぐやら、ついで弟子の親鸞上人(綽空=一一七三~一二六二)が浄土真宗を唱えて、盛んにこの仏さまの宣伝にこれ努めたので、その名声が富みに広がった。 また、旅行好きの一遍上人(一二三九~八九)は、時宗を開き、勧進帳と「南無阿弥陀仏」と書いた念仏札を持って、「踊り念仏」を行ないながら全国を行脚し、民衆の救済に努めた。 念仏礼を受けた人の数は二五万二千人に達したという。ために道行上人と讃えられ、円照大師とおくり名されました。  もし論功行賞が行なわれるなら、これらの人々が日本における殊勲者として勤二等旭日桐花大綬賞というところであろう。 なおついでながら現存の有名な阿弥陀堂を記してみよう。 平等院鳳凰堂(京都、宇治)が有名で、そのほか、 法界寺阿弥陀堂(京都、伏見)、 三千院本堂(京都、大原)、 白水阿弥陀堂(福島、内郷)、 高蔵寺阿弥陀堂(宮崎、角田)、 富貴寺本堂(大分、豊後高田) など、みな平安時代の建造です。また京都の浄瑠璃寺(九体寺)本堂は、正面が長大で内陣に九体の阿弥陀仏を並べ、九体阿弥陀堂の代表です。