2015-04-01から1ヶ月間の記事一覧
龍華山草創之事 『兜嵓雑記』「とんがざっき」 柳沢吉保を豊臣秀吉に例える 吉保の事 抑此龍華山と申寺は、故美濃守吉保殿御願として、山梨郡岩窪村(現甲府市)に一字を御建立有り、則寺号龍華山永慶寺と號す、山城国字治の里黄檗山萬福寺之千住悦峯禅師を…
❖ 柳沢父子 『甲州風土記』掲載記事 上野晴朗氏著 昭和42年刊 NHK甲府放送局 一部加筆 宝永元年(一七〇四)甲府宰相網豊は、五代将軍綱吉の嗣子となって幕府にはいった。 その後に甲斐を受封したのが柳沢吉保である。特筆すべきことは、それまで御料所…
甲陽柳秘録(柳沢吉保公資料)一部加筆 一 柳澤氏は甲州武門之連名にして甲斐漁氏之庶流也、其始め新羅三郎義光甲斐守に任せしより以来、子孫甲斐国に多し、義光之二男刑部三郎(武田冠者甲斐守)其の子黒源太清光甲斐守、其の子武田太郎信義甲斐守、武田五…
柳沢備後守信尹(父ハ孫之丞、信尹は初め八郎左衛門と云う。 御目付を勤め九百石 「補任」に曰く 宝永七閏八月十一日、任豊後守 宝永八年四月十二日之を改める、 【参考資料】柳沢 信尹(やなぎさわ のぶただ) Wikipedia 一部加筆 養子 旗本山高信吉(武川…
柳澤氏郡山城請け取り 『ふるさと大和郡山歴史辞典』一部加筆 享保九年(一七二四)三月十一日、甲府城主柳澤吉里は、「禁裡守護」(京都皇居)を兼ねる大任の地であるとして、郡山城へ国替の命をうけた。さきの郡山城主本多氏に後嗣が無いので本多家は断絶…
『柳沢吉保公一代記』(仮称) 文昭公記 宝永六年六月三日、甲府の城主松平美濃守吉保隠居す、子吉里継ぐ(十五万千二百八十八石、二男経隆、三男時睦に、各一万石の地を分つ)。 柳沢吉保は、甲斐の武田の支流にて、柳沢兵部丞信俊が孫なり。信俊が二男を、…
朝穂堰(明野村誌 抜粋) 県下三大堰といわれる徳島・楯無・朝穂堰がみなこの地方を流れ、同時にその着工が、徳島(寛文五年 一六六五)楯無(寛文六年 一六六六)浅尾(寛永九年(一六三二)穂坂(寛文九年 一六六九)であり、また本村に重要な部面を占める…
誤伝されたる柳澤甲斐守 昭和十一年発行 市川大門町(今三郷町)村松志孝氏著(東京中央放送局より放送)一部加筆 注記 吉保は出羽守、美濃守で、甲斐守は名乗っていない。 村松志孝氏著・編集(抜粋)山梨縣志編纂會「人物資料」・山梨県志編纂會「孝女伝」…
龍華山永慶寺『甲斐国志』巻の四十五 古跡部第八 山梨郡北山筋 一部加筆 一 廃龍華山永慶寺(岩窪村)村ノ東、信玄火葬場ノ間ナリ、今尽ク陸田トナル、宝永中松平美濃守吉保創立シテ濤蔵ノ所トナス。山城国宇治黄蘗山万福寺ニ準擬シ、七堂迦藍荘厳美麗ナリ(…
富士山焼の事<「翁草」所収> 宝永四年十一月二十日頃より、江府中天気曇り、塞氣甚敷、朦朧たるに、 同二十三日午の刻時分、いづくともく震動し、雷鳴頻にて、西より南へ墨を塗りたる如き黒雲たなびき、雲間より夕陽移りて、物すさまじき気色なるが、程な…