誤伝されたる柳澤甲斐守 村松志孝氏著

誤伝されたる柳澤甲斐守
昭和十一年発行 市川大門町(今三郷町村松志孝氏著(東京中央放送局より放送)一部加筆
  • 注記 吉保は出羽守、美濃守で、甲斐守は名乗っていない。
  • 村松志孝氏著・編集(抜粋)山梨縣志編纂會「人物資料」・山梨県志編纂會「孝女伝」・「峡中家暦鑑上下」
    「小田切海洲先生略傳」(1960年)・「山岸活洲」(1960/)・「甲斐路のあない」(1936)
    ・「蘆洲詩集」(1980年)・「伊藤うた先生とその生涯」(1938年)「勤倹読本」(1910)など多数がある。
     
    古くから人は、棺を蓋うて後、其虞傾が定まるというが、棺を蓋ふて後、数百年を経るも尚お論の定まらない人がある。生前は、左程の人物とは、思はなかった人でも、何かの動機で評判される人もあれば、また後世に伝うるに足る事業を成したものでも、其の死と共に、其の名の亡うるものもある。中には、事実の真相を誤り伝えられて、善人であったものも、悪人の様に云いなされて居るものもある。
    徳川五代将軍綱吉の重臣であった柳澤甲斐守吉保侯の如きは、其の一人であらうと思う。
     徳川三百年間を通じて、此人程大出世をされた人は稀である。僅に五百三十石の小禄から迫って、一代にして、十五万石以上の大名となり、大老職に任じ、天下の政権を左右したものは、恐らく侯の外少なかろうと思う。これが為に、天下羨望の的となり、世間の嫉みを受けたるは、無理ならぬ事である。而も之を誹謗するに、根も莱もない事実を、実際らしく捏造して、悪名を蒙らしめるに至ったのは、誠に気毒千萬である。私は茲に侯に対して世間で誤り伝えられている謬説を正し、事実の真相を述べて、侯の薦めに冤を雪(そそ)ぎたいと思う。
     其の正博によれば、初めの名は、保明、通柄は弥太郎、其父は刑部左衛門安忠といって、武田氏の家臣、甲斐巨摩郡武川衆十二騎の一人、柳沢兵部重信俊の二男である。侯は、五代将軍綱吉公の、恩寵を蒙って、小禄の家から、一代の中に一躍して、十五萬石以上の大名になり、なお累り(しきり)に登用されて遂に大老となり、且つ松平の姓を賜わり其の上に従四位下、左近衛権少将、兼美濃守に任ぜられ、また祖先の地である関係によって、甲斐守に封せられ後、宝永六年職を辞し、髪を剃って保山と号し、正徳四年十一月二日、年五十七歳で世を去られ甲府城北龍華山永慶寺に葬り、後松里村の恵林寺に改葬した。其子の吉里が後を継いで、松平甲斐守と称し、享保九年三月大和国郡山に移封されたが、歴史小説や、芝居、講談等の、「柳澤騒動記」の中に伝えられる侯は、佞奸邪智の大悪人で、己れの妻の美貌を囮(おとり)にし、また多くの美女を、将軍に献じて、その庇蔭によって、百万石の大名になろうとの野心を遂げ様としたと言いなされて居る。なお相当の学者の筆に、成ったもの中にも、それが真(もっとも)らしく書かれてある。
     柳澤家の事は、「柳津家記」に詳しく載せてあったものが、元禄十五年、四月の、火災によって数多くの重宝と共に、焼失した。後、儒臣の荻生徂徠が、監修の命を受けて.一代の事蹟を書き綴ったものを、「楽只堂年録」といい、また実の妻正親町町子の筆になった「松蔭日記」、その他「源公実録」、「保山行実」などというものがあるが、これ等はやゝ真に近いものである。また「兼山麗澤秘録」というものがある。此書は、新井白石の談話を筆記したもので、これなどは、世間の浮説を書き集めたもので、これと同じ株なものに、「日光邯鄲枕」という書を、種本にして作った、「護国女太平記」というものがある。其他、「三王外記」、「文武太平夢説」、「元寶荘子」など沢山あるが、何れも妄誕無稽の俗説を集めたに過ぎぬ。
     松浦静山の、「甲子夜話」という書に、大学頭林述斎の話として、「護国女太平記」の著者の事が書いてある、それによると、赤穂事件の隠密御用で、播州に遣はされた御小人目付が、何か事情があって改易されたので、それが為に上を怨み、時を謗ろうと、捏造したものであると、書いてある事から考えても、其内容は、推して知るべきである。
     五代将軍の在世中は、妄説を唱えるものもなかったが、将軍の薨去後は盛に評判されて、新井白石なども、徂徠とは意見が合わないばかりか、六代将軍の御側用人として、何事に就けても、新将軍の美点を揚げる為に、前将軍を否議したのである。また老中であった間部詮房を推称する結果柳澤を非難したので、その話を書き綴ったのが「兼山麗澤秘策」である。殊に間部は、柳澤とは、犬猿も啻(ただ)ならぬ仲であった。
     爾来、柳澤に関する著書は、種々刊行されたが.明治二十九年中、偉人史話の一巻として、柳澤吉保と題して、出版されたものがあるが、寧ろその著書の意向は、侯を叙するのが目的でなくて、常時の内閣総理大臣伊藤博文公が、全盛時代の事で、勢力を宮中府中に壇にしたといって、これを非難する為に古今同じ様な立場に居た柳沢を引き合いにしたのである。その後、大正年中、林和氏の書いた侯の伝記には、多くの誤りを正してある。
     柳澤の妾飯塚染子が、男児を出産して、その子が生長の後伊勢守安嘩と称して、後将軍の諱の一字を賜って甲斐守吉里と称した。染子の父は飯塚杢太夫といって、上総国の浪人で、染子は初め行儀見習の為に、柳澤家に上ったものであるが、幼少の頃から、文学を好み、長じて詩歌をよくし、文筆蹟も拙なくなかったので、深く侯に愛せられて、途に其枕席に侍る身となったのであるが、世間では、侯を妬む余りに種々の捏造話を伝えて、途に吉里は五代将軍の落胤であるとの説を立てるに至ったのである。吉里が五代将軍の落胤でない事は、曾て重野文学博士が論じた事がある、その説では、吉里は貞享四年九月に生れ、五代将軍が元禄四年三月初めて、柳澤邸に臨まれた時は、五歳になっていた事から考えても、拠り所のない妄節である。また問題の「柳澤騒動」の女主人公として種々評判される柳澤夫人のおさめの方とは、如何なる人かといえば、夫人は名を定子と云い、甲斐武川衆の一人曾雌甚左衛門盛定の女である。盛定は家禄五百五十石を領した身分で、親戚関係から、此良縁が結ばれたものである。「護国女太平記」には、町医者松竝養三の女であるとあり、また「元正間記」には、
    府下王子村の名主の女であるとある。その当時に於いて、最も肝要のその其出身の場所さえも、誤っている様な根拠のないものである。夫人が初めて登城したのは、元線十五年、三月十八で、吉保も共に拝謁して後、老女に伴はれ饗膳に陪食して退出したもので、夫人が登城したのは、前後只一回きりで、再び此事はなかったのである。俗説では、夫人は、屡々登城した様に言って居るがーそれは誤りである。殊に常時、幕府の大奥中奥などの事は、想像以上厳密な法則があったものであるから、俗説に伝わる様な事は、あり得ない事である。
    定子夫人は、婦徳の備わった女性であって、舅に仕えても孝道を怠らず良人に対しても律儀温順の賢夫人で、儒学は儒臣の荻生徂徠に受け、和歌は北村季吟に学び、伝わる様な邪婬の人ではなく、またそれ程の美人ではなかったのである。また五代将軍は、女色を好む婬蕩の人である様に言われて居るが、決して言うが如き程の人ではなく、只世嗣の誕生を望む考から、御祈祷をさせたり、又は生類憐れみの法令を布かれたりいたしたが、その為、幾人もの妾を置いたのである。将軍は、三代家光の第三子で、延賓八年五月に、四代将軍家綱が薨去されたときに、世嗣がなかつたため、弟君である處から、館林から入って、将軍職を継ぎ、延宝八年正月、六十四歳で薨去され三十年の長い間在概された。幼少の頃から学問を好み、諸子百家の書に至るまで読まないものはなく.常に近侍のものをして、書を読ませ、また経義を講ぜしめ、或はまた自ら教授するのを楽しみとされた。常時世を挙げて、学問を伺う事が風を成して、これが為に諸大名は、競って学者を聘して学校を興したので儒学の盛なる事は、前代未聞と称せられる程であった。初め、侯の父安忠は、館林時代の綱吉公に仕へて、小納戸役を勤めたので、侯は父に従って、御近仕に上っ当時から、学問を綱吉公より授けられたので、その弟子であって、延宝八年将軍の職に就くに及んで、上げ用いられるに至ったのである。
     或時、将軍は、学事奨励の目的で、城中に一学校を設けて、天下の秀才を集めて人材養成を使用とした、何事にも因襲の久しき奮例に妨げられて、遂に実行する事は、出来なかったので、やむを得ず、牧野輝貞の邸内に学校を設けて、学事を奨励したのである。こんな事さえも、後には種々の妄説が立てられて.将軍が学事奨励に名をかりて、少年を集めて、男色を擅(ほしいまま)にする薦めの方便であつたなどと誹謗するものもあった。また侯は、将軍を遊蕩に導く斡旋をしたとか、種々の悪口空言われているが拠りどころのない根も菓もない誤りがまた誤りを生じ、且つ芝居や講談で尾鰭をつけて、見せたり聞かせたりしたので、遂に世に大なる過ちを伝えてしまったのである。
    当時柳沢家の家法としては、同藩邸では、本邸は勿給、邸付の長屋でも音曲などは禁物であって、侍女を召抱えるのでも、武芸、柔道、長刀、或は詩歌・文章の才あるものでなければ.採用しなかったのである。将軍が、同邸へ賁臨(ひりん 客を敬い、その来訪)された時でも、その臣下に、経書を講義させるとか、或は武術の仕合をさせるとか、また侍女達は、和歌を詠んで興を添えるという様に、質実謹厳が保たれていたものである。
     また五代将軍の薨去に就いて、説をなすものがあるが、それは、将軍が柳澤の希望に陥って、百万石を賜わる事になったので、これは天下の一大事であると、井伊掃部頭直興が、極密に登城して、御台所の決心を促した所、御台所は、天下の御為となれば、是非もないと、将軍を殺して自刀したというが、その時、井伊在興は.実際は事に與かって居なかったのである。将軍の薨去は、宝永六年正月十日であって、御台所は一ケ月後の二月九日、常時流行の天然痘の為に逝去されたのである事から考えても、将軍を殺して自害したという事などは虚説である。
     侯の在職中、弊政として、非難されて居るのは、将軍が、犬を大切にして、犬公方の名を得られた事である。これは将軍が、僧の隆光が、人の世嗣のいなのは、前世多殺の報であるから、将軍にも世継ぎを得ようと思はれるなら、殺生を禁断なさるように、なお将軍は、戌年の御生れであるから、犬を大切になさらねばならぬと、説いたので、これが為に生類憐みの令を発して殺生を禁断した、その結果、これを取扱う役人共の不理解から、犬の為に、所刑処刑されるものが多く、犬が大切か、人が大切かという様になったが、隆光の進言を信じ過ぎた迷信から起こったものであるが、要するに、これも祖先の
    後を絶たせまいとの思慮から起った事とすれば、余り咎めるべきではない。
     又悪質の貨幣を鋳造した事を非難するものがあるが、元禄年間は後世奢侈の表本である様に言われて居るが、常時、年々災厄は続いて、歳入は不足し、予算は赤字ばかりであったので、侯は曲りなりにも、彌縫(びほう 一時の間に合わせ)してきたが、途に百策は尽きて、貨幣改造のやむなきに至ったのである。金に銀をまぜ、銀に銅や鉛を混ぜて貨幣は悪質になったので、世間の評判はよくなかったのである。これとてもその当事者は、勘定吟味役であった時の大蔵大臣萩原重秀が、主としてやったものであるが、実質上その攻撃の表面には、侯が立たねばならぬ事となったので.政治一切の非難は自分一人で引受けた形である。これは政治家であるから変通自在の策を取った事は、これまたやむを得ぬ事と思う。
     天和年間、武州川越を領した時など、大に民政に力を致し、また甲斐守時代の治績も多いのである。幕府の新政の中にも、専修品の輸入禁止武家法度の発令、孝子節婦の表彰、服忌命の制定など.常時は善政と言われたのである。将軍の近臣として、共に寵遇を蒙ったものが二人あったが、その一人は牧野成貞であって、一人は侯である。成貞は父儀成の後をついで二千石を賜って御侍に出仕した。成貞は常に将軍の寵を受けて、貞享五年将軍が初めてその邸に臨まれてより.元禄五年に至るまで前後三十二回に及んだ、その夫人は絶世の美人であった。と云われた。江戸文学の大家である三田村鳶魚氏が、かって「牧野備後守の献妻」と題してその事実を書いた事があるが、世間では牧野と柳沢とを混同して居る様に思われるのである。
    侯は、年少の頃から彿教を信仰して、山城国字治黄檗山の、高泉禅師や、臨碑宗龍興寺の竺道和尚に得た處も多かった。宝永六年、黄檗山の悦峰禅師の授戒をうけて.〔永慶寺殿保山元養大居士〕の法號を授けられた。五代将軍は平生学問奨
    励された事は前述の通りであるが、徳川家は家康以来代々儒教を尊ばれたが、自ら孔夫子を祭ったのは五代将軍が初めである。上野の忍が岡の聖職を本郷湯島台に移して、大成殿を造営し、儒家の像を狩野益信に画かせ、大成殿の額は、自ら書かれた。此事については平生将軍とは仲の悪かった水戸の光圀卿さえも、一大美拳であると頌讃(しょうさん)したとの事である。勿論将軍の発意であろうが侯の努力の結果と言わねばならぬ。また平生孔子教の主眼とする、忠孝道を尊ぶ精神から皇室に対しても、尊王心が厚かったので、廃れて居った古典を復興し、また大嘗祭や、賀茂の大祭を再興した事などは、有名な事実ある。貞享二年に大嘗祭の費用を、朝廷に献じたのは侯の意見である。この献金のあった為に、二百二十年間中絶していた大嘗祭が、東山天皇の御即位に当たって行われたのである。また元禄五年の京都の大火で、皇居もその災にあった為に、時の所司代、松平信茲に命じて、御造営の計画立て奮にまさる工事を完成したのである。当時皇室式微の為に万般の用度が足りない處から、更に御一万石を献納いたし、なお時々献金されたのである。
     また儒臣の細井廣澤の献言を容れ用いて、荒廃する歴代御山陵の修理を行った。その数は七十八陵の多きに及んだのである。実に歴史上一大事業であって侯の勤皇心の発露いうべきである。
    侯は宝永二年二月十九日、山梨、八代、巨摩の地十五万石の大名に封せられて、甲府を治めた。侯の受封は破格の恩典で、諸藩諸侯と同一待遇であった。侯は祖先の地である事から恐悦の余り、
     
     めぐみある君につかへし甲斐ありて
          雪のふる道今ぞふみゝん
    と詠進した。また信玄公の百三十三回忌に相当したので、恵林寺の公の墓前に、
      百あまり三十三年の夢の山
          かひありてけふとふぞ嬉しき
     
    と詠じた。当国は子孫永領子の地とせんと大いに治民に意を用い、その治績に見る可きものが多かった。中に甲府城の修理、市画の割整頓・信玄公霊屋の建立、其の他政治顧問として荻生徂徠を牌用し、又宇治黄檗山から帰化僧の悦岑禅師を聘して、躑躅ケ崎の南麓に永慶寺を建立して、七堂の外に天皇殿を造られた事など、尊王心の表象というべきである。又甲府の市区劃整後は、山国の都に似合わぬ繁華の町となった。追い追い江戸風が泌みて一般に贅沢になったが、全然面目を一変した。侯の一代を通じて、或は非難すべき点もあるかも知れぬが、数々の美事によって、これを相殺し得ると信ずる。

  • 柳澤家条目二十七筒條 (録五 抜粋)
    一、公儀御法度堅可相守事
    一、忠孝礼儀を専らとし.自身之勤方守真役筋不可疎略事
    一、学問武芸之稽古不可万懈怠事
    一、博奕勝負堅停止之且放埒堵之行跡、異相之風俗、或雑説落書或男女比禮之好色、於有之乏僉議之上可虚】罪科事
    一、音信、贈答、娵舅之儀、可用簡略事
     
    柳澤氏の宅址
     徳川五代将軍綱吉の寵を蒙って、小禄から起こって追い追い立身し、途に十五萬右の大名となり。時の政椎を自由にした柳沢吉保の祖先は、武田の家臣武川衆の一人壱岐守信勝で、次で兵部丞信俊に至る迄世々居住した宅址が北巨摩郡駒城村柳澤に在る。其遺跡は今は水田となって居るが、大正二年柳澤保東恵伯は、探査の結果の結果祖先啓運の地たるを確かめた。
     
    永慶寺の廃址
     宝永中、柳澤甲斐守吉保が、宇治黄檗山の悦峰禅師を迎えて創建した。正徳四年十一月、吉保の遺骸を埋めたが、享保九年、吉里の大和国郡山に移封された時、恵林寺に改葬し、後は荒廃に帰したが、先年其跡に地を掘って田用水に充てている。