2015-04-21から1日間の記事一覧

柳澤氏 郡山城請け取り

柳澤氏郡山城請け取り 『ふるさと大和郡山歴史辞典』一部加筆 享保九年(一七二四)三月十一日、甲府城主柳澤吉里は、「禁裡守護」(京都皇居)を兼ねる大任の地であるとして、郡山城へ国替の命をうけた。さきの郡山城主本多氏に後嗣が無いので本多家は断絶…

『柳沢吉保公一代記』(仮称) 文昭公記

『柳沢吉保公一代記』(仮称) 文昭公記 宝永六年六月三日、甲府の城主松平美濃守吉保隠居す、子吉里継ぐ(十五万千二百八十八石、二男経隆、三男時睦に、各一万石の地を分つ)。 柳沢吉保は、甲斐の武田の支流にて、柳沢兵部丞信俊が孫なり。信俊が二男を、…

柳沢吉里の事績 朝穂堰(明野村誌 抜粋)

朝穂堰(明野村誌 抜粋) 県下三大堰といわれる徳島・楯無・朝穂堰がみなこの地方を流れ、同時にその着工が、徳島(寛文五年 一六六五)楯無(寛文六年 一六六六)浅尾(寛永九年(一六三二)穂坂(寛文九年 一六六九)であり、また本村に重要な部面を占める…

誤伝されたる柳澤甲斐守 村松志孝氏著

誤伝されたる柳澤甲斐守 昭和十一年発行 市川大門町(今三郷町)村松志孝氏著(東京中央放送局より放送)一部加筆 注記 吉保は出羽守、美濃守で、甲斐守は名乗っていない。 村松志孝氏著・編集(抜粋)山梨縣志編纂會「人物資料」・山梨県志編纂會「孝女伝」…

柳沢吉保建立 甲斐龍華山永慶寺『甲斐国志』

龍華山永慶寺『甲斐国志』巻の四十五 古跡部第八 山梨郡北山筋 一部加筆 一 廃龍華山永慶寺(岩窪村)村ノ東、信玄火葬場ノ間ナリ、今尽ク陸田トナル、宝永中松平美濃守吉保創立シテ濤蔵ノ所トナス。山城国宇治黄蘗山万福寺ニ準擬シ、七堂迦藍荘厳美麗ナリ(…

富士山焼の事<「翁草」所収>

富士山焼の事<「翁草」所収> 宝永四年十一月二十日頃より、江府中天気曇り、塞氣甚敷、朦朧たるに、 同二十三日午の刻時分、いづくともく震動し、雷鳴頻にて、西より南へ墨を塗りたる如き黒雲たなびき、雲間より夕陽移りて、物すさまじき気色なるが、程な…

柳沢吉保異聞 翁草 元宝荘子

柳沢吉保伝 翁草 巻之七十七 柳沢吉保伝 翁草(おきなぐさ) 巻之七十七(『日本随筆大系』第三期 第十二巻)左は原本 加筆 生類御憐并五士一僧之事 将軍始の程は、尚も御慎みの兆遣らせ給い、営中へは召るゝ女中もなく、唯保明亭の御遊のみ成しが、日を迫ひ…

松平甲斐守吉里 吉保ノ男、幼名、網干代又は柳沢兵衛安暉と云う。

松平甲斐守吉里 吉保ノ男、幼名、網干代又は柳沢兵衛安暉と云う。 元禄 年 任越前守 元禄十四年 賜御氏諱改、松平伊勢守吉里 宝永六年丑六月廿八日 家督改甲斐守四品侍従に至る(按に宝永三年の八月、望まれて古府八幡宮奉納百首和歌の尾に記して曰く、従四…

柳沢吉保 『甲斐国志』

松平美濃守吉保『甲斐国志』一部加筆 『武家補任』云う 柳沢刑部左衛門安忠の二男始め柳沢弥太郎保明 神田御屋形ノ小姓也 柳沢氏ハ本州武河衆の一員なり 御本丸ニ被為入節為に御小納戸(延宝九年の『武鑑』に見える) 貞亨二年丑十二年廿八日、任官出羽守従…

甲斐善光寺〔隆盛時期の善光寺〕〔善光寺住持の動向〕

〔隆盛時期の善光寺〕 当時寺内には浄智、空海、信蓮の三尊の外に、御彿供所、弘法堂、薬師堂、外に化用院があつた。僧として、大蔵、浄蓮、當照、良生、堂明、玄春、蓮生、順能、随行、蓮教、光運、常圓、了故、正圓、感榮の十五ケ寺院があり、灯篭彿の別当…

甲斐善光寺〔本所の回向院で、本尊の開帳と灯篭佛の結線〕

〔本所の回向院で、本尊の開帳と灯篭佛の結線〕 享保七年(一七二二)覚誉上人の時代に於いて、七月二日より九月朔日まで六十日間、本所の回向院で、本尊の開帳と灯篭佛の結線を行った。その時の記録には驚く勿れ、慶長金一千両、諸費用が金三百両を要したが…

甲斐善光寺 〔信玄法要 柳沢吉保〕

〔信玄法要 柳沢吉保〕 その後宝永二酉年(一七〇五)四月十日から十二日まで二夜三日佛式を行い、機山公の百三十三年忌を施行した。これは柳澤甲斐守吉保が在封中であるが、吉保は当国とは関係も深く、武田家再興等についても、非常に尽力をされ、武田家の…

甲斐善光寺 八の宮良純親王・甲府宰相綱重

〔八の宮良純親王・甲府宰相綱重〕 八の宮良純親王が富国に遵居せられ、天目山から湯村に遷られたが、あの地は西北風が烈しいので宮様が風を厭はせられ、城北積翠寺村の興因寺内に仮屋を建てゝ御遷し申したが、これは平岡が谷村の城主秋元越中守泰朝の命を受…

甲斐善光寺本尊 豊臣秀吉の霊夢によって、京都の方廣寺に遷座

〔豊臣秀吉の霊夢によって、此地から京都の方廣寺に遷座〕 機山公によりて信州善光寺の本佛は当善光寺に移されたが、慶長二丁酉年(一五九七)、豊臣秀吉の霊夢によって、此地から京都の方廣寺に遷座することになった。秀吉は夙に大佛造成の所願があった。金…

甲斐善光寺 阿弥陀如来他千塚村光増寺と北宮地村大彿堂から移したものである

明治三十九年(一九〇六)九月六日付を以て、国宝に指定された、阿禰陀如来及び両脇侍像三躯二組は、千塚村の光増寺と北宮地村の大彿堂から移したものである。

甲斐善光寺と浅野弾正少弼長政

〔浅野弾正少弼長政〕 そのあとの当国主に封ぜられたのは浅野弾正少弼長政である、長政は文禄二甲午年(一五九四)正月より慶長五庚子年(一六〇〇)まで国内に居り甲府城を築いた人で、常に如来を尊信し、此寺の興隆に努められた。その事業の著るしいのは、…

甲斐善光寺と加藤遠江守光泰

〔加藤遠江守光泰〕 天正十九年(一五九一)四月より豊臣秀頼に代って封を本国に受け、二十四萬石を受領した加藤遠江守光泰も、如来の尊崇も厚い人であった。主命蒙ってて甲府城を築いたが、まだ成らない中、朝鮮軍に従い、文禄二癸巳年(一五九四)八月二十…

甲斐善光寺と徳川家康

〔徳川家康〕 その後天正十王午年(一五八二)八月、徳川家康入国の際、前者の例により二十五貰文を同寺に寄進された。 その朱印状は 甲斐国善光寺領松本内十二貫文、穴山内七貰五百文、国衙内五百文等事 右寺領不可有相違之條如件 天正十一年四月十九日名乗…

甲斐善光寺 〔織田信長・大泉坊・小山田信茂〕

〔織田信長・大泉坊・小山田信茂〕 其後天正十壬午年(一五八二)三月、織田信長が当国に襲来し、其の先手は長子の信忠であったが、信忠が安土に帰陣したあと、信長は国内諸所を巡見した。これより先織田に内通して勝頼を新府から欺き出し、武田家をあの結果…

甲斐善光寺 御堂建立

〔御堂建立〕 永緑元年(一五五八)二月十六日巳の刻如来を板垣の仮屋に移し、同年の十月二日から御堂建立に取かった。山本勘介が普請奉行として萬事を指図し、次いでで跡部大炒助が作事奉行として工事を進め、永禄七年(一五六四)七月十六日上棟式を拳げた…

甲斐善光寺と武田信玄

〔武田信玄〕 寺記によれば、天文二十年(一五五一)の春、武田機山公が信濃の村上義清と争った時、火を敵陣に放った処が恰も風が烈しかったので、其余炎が図らずも善光寺に飛火したため、寺中の僧坊は一宇も残らず忽ち灰燼に膵した、急火の事故、諸彿尊像を…

江戸の作左衛門と甲斐国善光寺本尊

江戸の作左衛門 甲斐国善光寺本尊〕 江戸の番町に紅葉の番所といって、此所に高三千石を儲する本田作左衛門といふ旗本があった、此の家に三尊像の尊像が伝わり、裏書に此の尊像は「甲斐国善光寺の本尊」であると書いてあった。此家の組先の作左衛門が、或る…

甲斐善光寺 〔牛にひかれて善光寺参り〕

〔牛にひかれて善光寺参り〕 こゝに一つの不思議の話は延賓六年(一六八〇)江戸の芝牛町から一疋の牛が来山された事である。 寺録に、 延室六年(一六八〇)江戸芝牛町より一疋の牛、常山へ参詣の事、一七日 参籠、其行方不知、彼牛の石碑は本堂東の傍にあ…

甲斐善光寺の今昔 『甲州叢話』その一 村松蘆洲氏著 昭和十一年

甲斐善光寺の今昔 『甲州叢話』 村松蘆洲氏著 昭和十一年 (一部加筆) 甲府駅から東上の電車に投じて、次の酒折駅に到る間、北の方を望めば、欝蒼たる板垣山の麓に、蘶然として半空にそびゆる大伽藍が見えるのが甲斐の善光寺である。全国中京都・奈良に於け…