山梨県の古跡

富士山焼の事<「翁草」所収>

富士山焼の事<「翁草」所収> 宝永四年十一月二十日頃より、江府中天気曇り、塞氣甚敷、朦朧たるに、 同二十三日午の刻時分、いづくともく震動し、雷鳴頻にて、西より南へ墨を塗りたる如き黒雲たなびき、雲間より夕陽移りて、物すさまじき気色なるが、程な…

甲斐善光寺〔隆盛時期の善光寺〕〔善光寺住持の動向〕

〔隆盛時期の善光寺〕 当時寺内には浄智、空海、信蓮の三尊の外に、御彿供所、弘法堂、薬師堂、外に化用院があつた。僧として、大蔵、浄蓮、當照、良生、堂明、玄春、蓮生、順能、随行、蓮教、光運、常圓、了故、正圓、感榮の十五ケ寺院があり、灯篭彿の別当…

甲斐善光寺〔本所の回向院で、本尊の開帳と灯篭佛の結線〕

〔本所の回向院で、本尊の開帳と灯篭佛の結線〕 享保七年(一七二二)覚誉上人の時代に於いて、七月二日より九月朔日まで六十日間、本所の回向院で、本尊の開帳と灯篭佛の結線を行った。その時の記録には驚く勿れ、慶長金一千両、諸費用が金三百両を要したが…

甲斐善光寺 〔信玄法要 柳沢吉保〕

〔信玄法要 柳沢吉保〕 その後宝永二酉年(一七〇五)四月十日から十二日まで二夜三日佛式を行い、機山公の百三十三年忌を施行した。これは柳澤甲斐守吉保が在封中であるが、吉保は当国とは関係も深く、武田家再興等についても、非常に尽力をされ、武田家の…

甲斐善光寺 八の宮良純親王・甲府宰相綱重

〔八の宮良純親王・甲府宰相綱重〕 八の宮良純親王が富国に遵居せられ、天目山から湯村に遷られたが、あの地は西北風が烈しいので宮様が風を厭はせられ、城北積翠寺村の興因寺内に仮屋を建てゝ御遷し申したが、これは平岡が谷村の城主秋元越中守泰朝の命を受…

甲斐善光寺本尊 豊臣秀吉の霊夢によって、京都の方廣寺に遷座

〔豊臣秀吉の霊夢によって、此地から京都の方廣寺に遷座〕 機山公によりて信州善光寺の本佛は当善光寺に移されたが、慶長二丁酉年(一五九七)、豊臣秀吉の霊夢によって、此地から京都の方廣寺に遷座することになった。秀吉は夙に大佛造成の所願があった。金…

甲斐善光寺 阿弥陀如来他千塚村光増寺と北宮地村大彿堂から移したものである

明治三十九年(一九〇六)九月六日付を以て、国宝に指定された、阿禰陀如来及び両脇侍像三躯二組は、千塚村の光増寺と北宮地村の大彿堂から移したものである。

甲斐善光寺と浅野弾正少弼長政

〔浅野弾正少弼長政〕 そのあとの当国主に封ぜられたのは浅野弾正少弼長政である、長政は文禄二甲午年(一五九四)正月より慶長五庚子年(一六〇〇)まで国内に居り甲府城を築いた人で、常に如来を尊信し、此寺の興隆に努められた。その事業の著るしいのは、…

甲斐善光寺と加藤遠江守光泰

〔加藤遠江守光泰〕 天正十九年(一五九一)四月より豊臣秀頼に代って封を本国に受け、二十四萬石を受領した加藤遠江守光泰も、如来の尊崇も厚い人であった。主命蒙ってて甲府城を築いたが、まだ成らない中、朝鮮軍に従い、文禄二癸巳年(一五九四)八月二十…

甲斐善光寺と徳川家康

〔徳川家康〕 その後天正十王午年(一五八二)八月、徳川家康入国の際、前者の例により二十五貰文を同寺に寄進された。 その朱印状は 甲斐国善光寺領松本内十二貫文、穴山内七貰五百文、国衙内五百文等事 右寺領不可有相違之條如件 天正十一年四月十九日名乗…

甲斐善光寺 〔織田信長・大泉坊・小山田信茂〕

〔織田信長・大泉坊・小山田信茂〕 其後天正十壬午年(一五八二)三月、織田信長が当国に襲来し、其の先手は長子の信忠であったが、信忠が安土に帰陣したあと、信長は国内諸所を巡見した。これより先織田に内通して勝頼を新府から欺き出し、武田家をあの結果…

甲斐善光寺 御堂建立

〔御堂建立〕 永緑元年(一五五八)二月十六日巳の刻如来を板垣の仮屋に移し、同年の十月二日から御堂建立に取かった。山本勘介が普請奉行として萬事を指図し、次いでで跡部大炒助が作事奉行として工事を進め、永禄七年(一五六四)七月十六日上棟式を拳げた…

甲斐善光寺と武田信玄

〔武田信玄〕 寺記によれば、天文二十年(一五五一)の春、武田機山公が信濃の村上義清と争った時、火を敵陣に放った処が恰も風が烈しかったので、其余炎が図らずも善光寺に飛火したため、寺中の僧坊は一宇も残らず忽ち灰燼に膵した、急火の事故、諸彿尊像を…

江戸の作左衛門と甲斐国善光寺本尊

江戸の作左衛門 甲斐国善光寺本尊〕 江戸の番町に紅葉の番所といって、此所に高三千石を儲する本田作左衛門といふ旗本があった、此の家に三尊像の尊像が伝わり、裏書に此の尊像は「甲斐国善光寺の本尊」であると書いてあった。此家の組先の作左衛門が、或る…

甲斐善光寺の今昔 『甲州叢話』その一 村松蘆洲氏著 昭和十一年

甲斐善光寺の今昔 『甲州叢話』 村松蘆洲氏著 昭和十一年 (一部加筆) 甲府駅から東上の電車に投じて、次の酒折駅に到る間、北の方を望めば、欝蒼たる板垣山の麓に、蘶然として半空にそびゆる大伽藍が見えるのが甲斐の善光寺である。全国中京都・奈良に於け…

山梨県の馬に関する参考資料 柳田國男氏著より引用

山梨県の馬に関する参考資料 柳田國男氏著より引用 1、祭ノ慎…甲州にては東山梨郡松里村大字松里上井尻組の諏訪明神は例祭旧暦の七月なり。七月一日の日より始めて此の日まで氏子の物忌最も厳重なり。其の間は声高、普請及び縄目を結ぶことを戒め、又祭の日…

武河御牧に関する『甲斐叢記』の見解

武河御牧に関する『甲斐叢記』の見解 武河御牧(山梨郡萬力筋)又竹川とも作けり。 東鑑に建久五年(1194)三月十三日甲斐国武河御牧駒八疋参着被經御覧可被進京都云々 牧平にて漆川赤芝川合流し竹川と名すくは乃はち西保川なり。 東鑑に武河と書たる故…

甲斐 牧庄 (『牧丘町誌』)

牧庄 (『牧丘町誌』) 大化の改新のとき土地制度を攻め、班田制をおこなった。土地を公平に分配し、平等に義務を負担させたのであるが、時代とともに隠田(かくしだ)の取り締まり、戸籍の讃査、土地の班給、田租の徴収など事務が煩雑となり、それに人口の…

御牧関連資料 古代と中世 律令制時代(『牧丘町誌』)

御牧関連資料 (『牧丘町誌』) 古代と中世 律令制時代 一部加筆 律令制国家の下にあって、政庁を国衙といった。甲斐国の国衙の位置については諸説があって議論されてきた。平安 期の貴重な文献である『和名類衆抄』に「府ハ八代郡ニアリ」とあるが地名、遺…

残したい土蔵建築 甲斐市

美しい蔵 甲斐市

武川町実相寺の神代さくらと境内 古図

昭和40年 八ヶ岳と八ヶ岳高原

昭和40年 甲府市

昭和40年 山梨県昇仙峡 甲府市の史跡

昭和40年 甲州ぶどう

昭和40年 観光ぶどう ぶどう酒

昭和40年 山梨県の特産物 桃ところ柿

昭和40年 中央線 塩山 笹子 スイッチバック

昭和40年 中央線 甲州街道