富士山焼の事<「翁草」所収>

富士山焼の事<「翁草」所収>
 
宝永四年十一月二十日頃より、江府中天気曇り、塞氣甚敷、朦朧たるに、
同二十三日午の刻時分、いづくともく震動し、雷鳴頻にて、西より南へ墨を塗りたる如き黒雲たなびき、雲間より夕陽移りて、物すさまじき気色なるが、程なく黒雲一面になり夜の如く、昼八つ時より鼠色なる灰を降らす。江府の諸人魂を消て惑ふところに、老人の申けるは、此の三十八九年以前、斯様の事あり、是は定て信州浅間の焼ける灰ならんと云、仍て諸人少しく心を直しけるに、段々晩景に至り、夜に入に随て、やゝ強く降しきり、後には黒き大夕立の如く降り来て、終夜震動して、戸障子も抔(など)繭益く峰㌻,.り後に値黒き大汐立の如く降來て、絡夜震働し、戸障子杯(など)も響き裂け、恐しさ譬(たと)へん方なし、総て昼八つ頃より、空くらき事夜の如し。物の相色も見えねば、悉く家に燈をとぼし、往来も絶えて、適々通行の人は、此の砂に触れて目くるめき、怪我などもせしも有とかや、諾人何所以を不知、是なん世の滅るにやと、女童な泣きさけぶところに、翌日富士山焼候よし注進有てこそ、さてはその砂を吹き出して、如此ならんと始めて人心地付けたりける。
砂降る事凡七八寸、所に寄り一尺余も積りしとぞ。事終わりて砂を掃除すると雖も、板屋などは、七八年過ぎ候までも、風立つ折には、砂を屋根より吹き落とし、難儀いたしける由。また翌月より春にいたり、感冒咳嗽一般にはやり、家々一人洩らさず是に悩まさる、その節の狂歌
是やこの行も帰るも風ひきてしるもしらぬも大方は咳
 
前代未聞の事なり、右の事富士郡より注進の趣
 
昨二十日昼八ツ時より、今二十三日迄の間、地震間もなく、三十度程揺り、民家夥敷(おびただししく)鳴り出て、さて二十三日昼四つ時より富士山夥敷鳴り出て、富士郡一面に響き渡り、男女絶入者多候へども、死人は無御座候。然るところに山上より煙夥敷巻き出し、山大地とも鳴り渡り、富士郡中一面に煙渦巻き候故、いか様の訳とも不相知、人々十万を失罷在候、昼の内は煙計相見え候ところ、一遍の火炎に相成候、其以後いか様に成り候哉。不奉存、先右焼出候節、不取敢為御注進罷越候故、委細の儀は、跡より追々可申候由。
 
右注進の後、やや火気熾(さかん)に成り、土砂石礫を吹き飛ばし、近国二十四里四方へ砂石を降せ申し候。伊豆相模駿河を所によりて、二丈余も降り積もり、堂社や民家も埋もれ、勿論田畑荒夥敷、日を経て稍(ようや)く焼け鎮ぬ。その土砂を吹き出せし所、穴の口に大なる山を生ず、世俗呼びて、宝永山と号す。本海道の方より眺めれば、右の流れ半腹にかの塊り山出来て瘤の如し。さばかり三国無双の名山に、此時少き瑾の出来しこそ恨みなれ。
 
伊勢物語に、富士の山の形は、しほじりのやうになん有けると云、此しほじりと云ふ事、諸論有りてさだかなる事を不知、多くは古注に随ひて、壷塩といふ物の尻、山の形に似たる故、臨尻と云ふ、此論もしかと落着せざるなり、亦一論に塩じりとは近江園三上山を云ふ、此の三上山の形、不二と同じ塗方なればなり、是を塩じりと云ふは、此山に月の上る事下によつて潮の指引を知る故に、潮知と名づくと云カ、綾拾遺集浄助法親王の御歌に
  雲晴るゝ不三上の山の秋風にさし波遠く出る月影
とあれば潮知の説も據歟。