武川町 むかわまち 《「角川丹本地名大辞典」昭和59年刊より》

《「角川丹本地名大辞典」昭和59年刊より》

現況

〔成立〕昭和8年(1933)4月1日,新富村武里村が合併して成立

〔面積〕60.24km筥

〔世帯〕942

〔人口〕3,441人

〔村の花〕キク

〔村の木〕マツ

〔村役場〕山梨県北巨摩郡武川村牧原931番地

〔村名の由来〕

大武川・小武川などの川の流域に開けた村という意によって命名

〔立地〕

富士川水系の小河川県の北西部に位置する。西端は鳳風山を境に中巨摩郡芦安村,南は小武川をもって韮崎市,北東は釜無川をもって長坂町・須玉町、北は中山,大武川,尾白川をもって白州町に接する。

当村域内を富士川水系釜無川,大武川,石空川,黒沢川,小武川の諸河川が流れ、これら河川の形成した河岸段丘や沖積扇状地は,古代から中世初頭にかけては牧地とされ,中世後期から近世以降には開拓が進み,生産や居住の基盤になった。国道に沿う村役場(現北杜市武川町支所)所在地の牧原は,標高497mで、年平均気温12.6℃、年間降雨屋:は896mmである。また、牧原は近世初頭に甲府中山道下諏訪宿を結ぶ目的で開かれた信州往還の宿としてにぎわった。甲府より24km,中央自動車道小淵沢・須玉・韮崎の各インターチェンジからも相当の距離にあって,道路網の整備による,申央自動車道への距離の短縮が望まれている。

○沿革

〔原始〕

 

河岸段丘上の遺跡当村域の考古学的研究成果は、これまでのところ特筆すべきものはない。わずかに柳沢地内字真原の真原遺跡で縄文時代中期の住居趾,宮脇地内字大持原の地下式土壙が注目されるにすぎない。また,大武川,小武川,黒沢川河岸段丘にあたる山高,黒沢,新奥地内には,下原・新奥・上原遺跡などの縄文時代中期を中心とした遺跡が数多く知られている。

 

〔古代〕

 

真衣郷律令制下の当村域は巨麻郡に属し,「和名抄」に見える真衣野郷の地に比定される。大宝令によって郡郷制が敷かれると,釜無川右岸流域,甘利沢左岸流域一帯に50戸を1郷とする真衣郷が置かれたと考えられる。郷名の真衣は牧を意味し、この地域が7世紀以前,すでに牧地であったことを物語っている。当時,甲斐は郡31郷であったが(和名抄),牧地の名をもって,ただちに郷名としたところは当郷以外になく,7~8世紀にかけて甲斐国においての代表的な牧馬地域であったと考えられる。このような産馬の実績が8~9世紀にかけての「三代格」や1O世紀初頭の「延喜式」左馬寮式甲斐御牧の諸規定を生んだと推定される。真衣郷所在の牧馬地が左馬寮により官牧の称を与えられて真衣野御牧となり,八ケ岳山麓を牧地としたと推定される柏前御牧(一説には山梨郡に比定される)と合わせて年々30疋の駒を貢上することが定められた。当村域に牧原の地名があるところから真衣野御牧の牧地の遺称であろうと推定されている。

真衣野御牧の貢馬は,毎年7月,牧監以下が付き添って真衣郷を出発し,25日をかけて近江と山城の境、逢坂関に到着して出迎えを受け,都に入る。真衣野・柏前両御牧の駒は8月7日に献上され,この日,天皇は武徳殿に出て庭前を牧士が牽く駒のうち、最良の馬を選びとり,次々と親王、公卿に分かち、余りを左馬寮に下げ渡した.これがF駒牽の儀」で、平安初期の主要宮廷年巾行事であったが,律令制度の衰退に伴い寛治元年(l087)頃を最後に廃絶された。なお,「吾妻鏡」建久5年(1194)3月13日の条に「甲斐国武河御牧駒八疋」が鎌倉に参着し,源頼朝がこの駒を京都に送ったことが見えている。「国志」は現在の牧丘町に比定しているが,古代の御牧の駒牽の伝統により,武河牧を真衣野御牧の後身と考えて当村域とする説もある(古代官牧制の研究)。

 

〔中世〕

 

武田氏と武川衆平忠常の反乱の追討を命じられた源頼信は乱を平定し,頼信の子頼義,孫義光はともに甲斐守となり,のち義光は常陸介を務めた。義光の子義清は官牧を手中に納め,以後清光,信義,信長,時信と継ぎ,武田一門は栄えていった。時信は多くの子を武川筋の諸村に封じ,山高,白須,牧原,教来石,青木氏らが起こったという(国志)。のち青木氏から折井・柳沢・横手・山寺・入戸野氏らが,また山高氏から溝口氏が分派したと伝えられる。

永享5年(1433)4月,武田信光(信満)の子信長がこれらの武士を主カとする日一揆武士団を率いて、逸見・跡部両氏を主力とする輪宝一揆と戦ったが大敗し,柳沢,牧原、山寺の3将が戦死している(一蓮寺過去帳)。

戦国期、武田信玄の頃には武川衆武士団が,信玄の弟左馬助信繁・信豊父子の寄子となっていて,永禄10年(1567)8月の信州小県郡下之郷武田将±起請文には,武川衆柳沢信勝以下7人の士が連署している(生島足島神社文書).

米倉氏と折井氏の知行天正10年(1582)3月,武田氏が滅亡し,6月本能寺の変後,甲斐国一円は徳川氏の支配下に置かれた。徳川家康は武川筋に板巨蟠距踞した武士団武川衆に対し,統率者である米倉主計助忠継,折井市左衛門次昌を介して掌握しようとした。同年発給の本領安堵状によると,分散知行のうち当村域では

折井次昌は新奥で2貫文,

青木信時は新奥で16貫文,

小沢善大夫は牧原内飯田分4貫文,

米倉信継の宮脇内10貫文,

米倉豊継の宮脇村150貫文、同村小沢分2貴500文

などが充行われている(徳川家康文書の研究上)。

武川衆は同13年小牧・長久手の戦に参陣し,尾張一宮城の守備や信州上田城真田昌幸攻略に戦功があった。同18年正月、小田原北条氏攻略前には武川衆重恩として2,960俵が米倉・折井両氏に与えられているが,そのうち山高郷478俵余,三吹郷224俵余,牧原郷151俵余、宮脇郷84俵余と知行地が分布していた。これら知行地は米倉・折井両氏が各400俵,柳択信俊・山高

信直が各60俵など配分されている。武川衆は徳川氏の甲斐入国とともに武州鉢形領と相州へ移った。その後,村域は羽柴秀勝,加藤光泰,浅野長政・幸長を経て慶長5年(1600)関ケ原の戦後は徳川氏の再領となった。

 

〔近世〕

江戸期の村々慶長6年大久保長安の総検地によって,

牧原村は知見寺越前知行地195石余

柳沢村は馬場民部知行地138石余・蔵入地2石余の計140石余

三吹村は知見寺越前知行地129石余・蔵入地164石余の計293石余

新奥村は青木与兵衛知行地84石余

山高村は山高孫兵衛知行地275石余・蔵入地35石余の計310石余

宮脇村は米倉左大夫知行地213石余・蔵入地124石余の338石余

黒沢村は青木与兵衛知行地88石余

となり,

当村域7か村は知行地1,127石余・蔵入地326石余,計1,453石余となった(慶長古高帳)。

これらにより武川衆は各旧領に復しているが,

慶長8年徳川義直甲斐国に封ぜられると武川衆・津金衆20人が本領を給され,家臣団に編入された。

慶長12年には武川・津金衆は「武川十二騎」と称して城番を命ぜられ、山高親重,柳沢三左衛門,知見寺(蔦木)盛之らが2人宛交代勤番で付属した。

元和2年(1616)徳川忠長が甲斐一円を支配すると,武川衆は大番・書院番らに組み入れられて勤仕した.寛永9年(1632)忠長が改易されると武川衆は一時処士となったが,

寛永19年旗本に復帰が許された。このとき山高信俊は柳沢・宮脇で300石を拝領し,万治2年(1659)塵米200俵が加増され、寛文元年(/661)合計500石で下総・常陸へ知行地替えとなった。このとき武川衆は本貫の地である武州筋の村域周辺の知行地を去った。村の支配は江戸中期には全域甲府藩領となり・後期には幕府領となった。

 

〔村々の生活〕

○山高村は

寛文12年大田甚兵衛検地で高580石・反別58町5反6畝20歩,

貞享5年(1688)前島作次右衛門検地で高8石5斗・反別1町9反7畝4歩,

享保/7年(1732)遠藤又三郎検地で高6斗5升・反別9畝12歩増加し

合計高589石!斗9升・反別60町6反3畝6歩となった(延享3年差出明綱帳)。

村内は享保9年で家数83戸,このうち本百姓59戸、水呑百姓24戸,馬30疋・牛40疋、計70疋となっている(村明細帳)。

田畑では稲、粟,稗,菜,大根,大麦,小麦および煙草を少々作っており,耕作の余暇をみて薪を伐り出し韮崎宿まで付出し,商売を行った。

○三吹村は

寛文12年南条喜左衛門検地,

貞享5年前島佐次右衛門検地,

元禄7年(1694)遠藤次郎右衛門検地

を経て,高651石9斗5升6合・反別75町8畝10歩となっている。

村は名主が2人で名主給11俵は6俵が上組70軒,5俵が下組50軒から出し,

定夫2人の給分籾7俵は4俵が上組、3俵が下組に割り当てられている(延享3年村明細帳)。

文政4年(1821)に水害などのため家数120戸のうち潰百姓20戸,潰百姓同様の者34,5戸と村内の被害が大きかった。

平常は稲のほか野菜、木綿、煙草,大豆,蕎麦,粟,稗などを少々作っている。

○柳沢村は

宝永2年(1705)商人4人が茶・塩を販売,男子は薪を韮崎宿で売り,女子は麻,木綿、布などを織っている。

文政4年の農民構成は名主・長百姓が7戸,本百姓66戸,水呑百姓18戸となっており,村役人が多いのが特徴的である(村明細帳)。

○新奥村

村高・家数は一番少なく,他村と同じく田畑の耕作で生活を立てていた。

 

○三吹村は

元禄2年以後甲州道中台ケ原宿助郷役300石7斗を勤めた三吹村は,困窮のため寛政8年(1796)より免除され、代わって宮脇,黒沢,山高,柳沢,牧原,新奥の6か村が代助郷を勤めた。しかし,6か村も困窮化してきたので助郷勤高601石余の免除を願い出,吟味の結果,文化5年(1808)に大八田,塚川,長坂上条,渋沢の各村が代助郷を勤め,6か村には300石余の助郷勤高を申し付ける吟味申渡書が出されている(台ケ原宿伝馬助郷証文/甲州文庫史料)。

村域諸村は約8割が山林であり、専ら田畑耕作に依存し,一部薪など韮崎宿で換金して生計を立てており,畑作も大部分は自給用であった。全体として

「村々之儀ハ困窮村方ニ而,農業之間ニハ日雇稼ニ罷出,御年貢御上納之助ニモ仕候程之村方」

という状態であった(甲州文庫史料)。

村域は水質・気候の条件が米生産地に適し,良質の米が生産され,産米は韮崎宿の米問屋に集散され,年貢米は廻米および甲府御詰米として韮崎宿を経由して江戸・甲府へ送られた。周辺には入会地があり,秣場として肥料の供給源となったが利用をめぐり山論などが頻発した。

 

〔近現代〕

行政区画の変遷当村域の村々は,明治元年甲府県,甲斐府、翌2年甲府県の管轄を経て同4年山梨県下となる。

同7年駒城村(柳沢村ほか2か村)、

同8年新富村(山高・黒沢・三吹の3か村)・武里村(新奥・宮脇・牧原の3か村)が成立し,

同11年村々は北巨摩郡に所属した。

昭和8年富村武里村が合併して武川村となり,

同30年駒城村の一部を編入

武川米の生産当村は大武川,小武川などが流れる南アルプスの急傾斜地帯にあり,田畑合わせても1割にみたない土地柄であり,耕地や居佳地は標高475m前後の地域にある。

○柳沢は大正5年頃は戸数120戸・人口750人で主要農作物は、米と麦で養蚕吃次第に盛んとなり,農業2,養蚕4,山稼ぎの

割合となっていた。馬は近世以来多く、320頭に及び,用途は農耕および荷車引きを主としている。新富村でも牛1疋に対し馬166疋で(うち農馬ユ53疋・稼馬13疋),

武里村も牛4疋、馬99疋(うち農馬90疋・稼馬9疋)となっており,牛は乳用,馬は農耕用が圧倒的に多い(北巨摩郡町村取

調書)。山林の杉,檜、松は建築用と炭に加工され,村の重要な資源となっていた(駒城村取調書)。

村の人口は農家が中心であったが,

○薪富村では大工18人、左官1人,武里村は石工4人,左官1人,大工5人,鍛冶1人がいた。

また水害を防ぐため,特に柳沢地区では約1町歩の水害防備保安林が設けられ,柳,椚、松,杉などが利用されていた。生業の

うち養蚕は次第に重要性を増したが,近世以来米産地として知られた当村の米は良質な武川米として出荷された。しかし,第2次大戦となり昭和17年食糧管理法が制定されると米は量産本位となり,質低下を招いた。

戦後、武川村ではこの傾向に歯止めをかけ良質の特産武川米の生産に鋭意努カした。現在、武川米は武川村農家の良質米を武川村農協が厳重に検査しており,品質の良い武川米の銘柄が定着している。

 

〔水害の村〕

村域の河川は急流で平常は灌漑,用水に利用されるが豪雨時には大水害がしばしば起こった。

特に明治2年7月には三吹村地内釜無川通り字上河原二番堤防をはじめ17か所が決壌し、田畑流失29町歩に及び,柳沢・山高村でも被害があった。

明治31年9月の台風で釜無川の大氾濫が起こり,上三吹村戸数74戸が砂石に埋まった。今もこの災害に対し「上三吹水災

碑」がたてられている。

第2次大戦後は昭和34年8月に7号台風と9月に15号台風(伊勢湾台風)により村域は大水害を被った。流失民家129戸、死者23人,流失農地120h刮,堤防・橋梁のほとんどが損害を受けた。

この災害復1日は4か年の歳月と35億円の巨費を要したが,その結果,近代的国土建設の理想的工事が施され,農村自治の基礎ができた。その後昭和46年から同55年に第1次武川村総合言十画を立て村治の基本構想を定めたが,同56年から同65年にかけて第2次総合計画が進行中で、「ふるさとづくり」の実現に努めている。

その具体的構想は,

  • 街づくりを基盤とした交通体系の充実,
  • 林業生産基盤の整備拡充,
  • 「水と文化とあいさつの村」,人づくりの推進,
  • 生きがいと健康を求める村づくりの推進,
  • 行財政需要の的確・迅速な処理を推進し住民福祉の向上を図る

の5項目である。

現在の村域の山麓斜面は桑園,果樹・野菜栽培と畜産(肉牛)が行われている。西に鳳圓三山を望む大武川の渓谷沿いには胃腸病の霊泉として知られる藪の湯温泉があり,石空川渓谷の上流には精進が滝があり、渓谷の景観を楽しむ人々のため民宿もできている。

 

〔史跡・文化財文化施設

国天然記念物に山高神代ザクラ(実相寺),万休院の舞鶴マツ(現在は三代目)がある。

 

〔現行行政地名〕

○くろさわ・黒沢

〔世帯〕55

〔人口〕202〉

村の南東部。集落は山高とともに大武川の河成段丘上に位置する。当地域の河成段丘面は大武川氾濫原との比高40m以上。西から北は山高,東は氾濫原の水田地帯を隔てて牧原・宮脇,南西は県有林。農業・養蚕・林業を生業とし,山高とともに比高の大きい耕地の経営を行う。

  • しんおく・新奥
  • 〔世帯〕42
  • 〔人口〕1711

村の南東部。集落は小武川左岸の、水田を南に見下ろす新奥段丘の崖下に立地。南は小武川を隔てて韮崎市,東から北・西一帯は宮脇に接する。北の宮脇地内および東西方に3か所の飛地がある。集落の南および西に近く山地が迫る。小武川氾濫原の水田地帯は常に水害の危険にさらされているが、地味は肥え,屈指の穀倉地域である。段丘上に桑畑が卓越する養蚕農村地

 

帯でもある。

  • まきはら・牧原

〔世帯〕232

〔人口〕815〉

村の東部。東は釜無川を隔てて長坂町・須玉町,南は宮脇,南西は大武川段丘を望み,西は段丘上の黒沢・山高,北は大武川旧河道を境に三吹に接する。国道20号が中央部を南北に走り、県道横手目野春停車場線が北西境をかすめる。村役場1農協・武川郵便局1武川小学校・中央公民館1武川警察官駐在所・武川診療所など,村の行政・経済・教育・交通通信などの中枢機

関が集中し、商店が軒を並べ,村の中心をなす。大武川の氾濫原に立地する結果,多年にわたり激甚な水害を被ってきた。集落の形態は,旧信州往還に沿う街村であるが,近年,国道20号バイパスの開通により形成された商店街と,県道の整備により大武川旧河道に造成された三吹の新開地商店街とは,ともに近代的集落の景観を構成する。役場に接する旧村社八幡神社は社叢が森厳で,かつて真衣野牧の馬見丘に創建された古社といわれる。

 

○みふき・三吹〒

〔世帯〕261

〔人□〕932(新開地を含む)〉

村の北端。北西は中山地塁山地の山裾および尾白川を隔てて白州町,北は釜無川を隔てて白州町と長坂町,北東は釜無川を越え七里岩を隔てて長坂町,西は中山を隔てて白州町,南東は大武川と新興集落の新開地を隔てて牧原,南は大武川を隔てて山高

と柳沢の水田地帯に接する。国道20号釜無川にほぼ並行する。教育福祉センター・農業センターがある。元来,釜無川・尾白川・大武川の氾濫原を開拓した耕地を基盤とする農村で,当地の歴史は3河川の水害史でもあった。水害を受けた住民は中山山裾の高地に移り,新屋敷という新集落をつくった。当地北部の上三吹の集落形態は農村には珍しく街村型をなす。これは

近世の信州往還に沿って民家が集まったとみられるが,むしろ釜無川の暴流に対する抵抗を少なくするのが主目的で,それに街道沿いの利益が一致した結果とみるべきであろう。上三吹の北端に神明神社の祠が祀られ,その南方に整然として街村が展開するのは,水害を防ぐのに最適な形態である。明治年間から第2次大戦前にかけての数十年間、上三吹には和紙製造工業が盛んに行われた。清冽例な釜無川の水と,山野に豊かに産するコウゾ・クワの靱皮繊維を原料としたもので,武川半紙と呼ばれて有名であったが、戦後の産業構造が一変した影響で衰滅した。

一方,下三吹は、大武川・釜無川の水害を避けて申山山裾に集落を形成したが、この地域は狭すぎるため,大武川対岸の下三吹分に進出し,新開地の集落をつくり上げた。下三吹には国天然記念物の万休院(曹洞宗)の舞鶴マツと,村史跡中山塁跡がある。

 

○みやわき・宮脇

〔世帯〕97

〔人口〕380〉

村の東部。東は釜無川を1隔てて穴山台地上の須玉町,北は黒沢を境に牧原、西は新奥河成段丘を経て黒沢,南は小武川を隔てて韮崎市に接する。地内ほぼ中央に新奥の飛地がある。東部を国道20号が縦断する。集落の西方約500mの新奥段丘の末端に緩斜面があり,その中腹に、地名の由来ともなった古社諏訪神社が鎮座,社地は東方に面し,その北側の段丘崖下は清水が湧出するので,ここに集落が発生。近世以後の宮脇集落は,信州往還に引かれてできたが,南北両隣の上円井・牧原とは異なり,宮脇の新集落は小武川と黒沢川の水流に挟まれ,常時水害に備える必要から,狭い地域で足りる塊村の形態を示す。武田氏の時代に武川衆の領袖米倉氏が領した所で,屋敷跡・墓所などが今も残る。

 

○やなぎさわ・柳沢

〔世帯〕160

〔人口〕590(開拓を含む)〉

村の中央から北西部。大武川の南岸。北東は大武川を隔てて三吹,東は山高,南は県有林,南は山高の真原開拓地,西は大武川を隔てて白州町に接する。山高の南部に「く」の字形に細長い地域の飛地がある。県道横手日野春停車場線が北東部を横断し,沿道に駒城郵便局がある。大武川は荒れ川で洪水を起こしやすく,古くから常襲水害地で,住民の生活は苦闘の連続であった。男子は河川の改修や水害復旧工事,荒廃田の再開墾作業に出,林木の伐採、牛馬の飼料や屋根葺き材料の萱刈りは,いきおい女子の分指作業となる。「縁で添うとも柳沢は嫌だよ,女が木を伐る萱を刈る」の民謡(縁故節)は,柳沢の生活の厳しさを描写したものといえよう。

 

○やまたか・山高

〔世帯〕95

〔人口〕351〉

村の中央部。大武川河成段丘上に立地。同河成段丘面は,大武川氾濫原との比高50m以上。集落は周辺の地よりもはるかに高い段丘上にあるので,山高の地名が生じたと思われる。北は大武川の氾濫原を隔てて三吹,東は牧原,南東一帯は同じ段丘上の黒沢,北西は柳沢に接する。西部に真原の集落がある。地内中央部に食い込むように甲斐駒ゴルフ場(黒沢地域)がある。柳沢地内南端に2か所飛地がある。県道横手日野春停車場線が北東都を横断する。武川中学校がある。集落東端の日蓮宗実相寺には樹齢1,OOO年以上といわれる国天然記念物の山高神代ザクラがある。中世,武田氏の支族一条氏がこの地に拠って山高氏を称し,武川衆武士団の頷袖となったことから,その集落形態には,山高氏居館を中心に設形さされた趣きが認められる。