御牧関連資料 古代と中世 律令制時代(『牧丘町誌』)

御牧関連資料 (『牧丘町誌』)
古代と中世 律令制時代 一部加筆
 律令制国家の下にあって、政庁を国衙といった。甲斐国国衙の位置については諸説があって議論されてきた。平安
期の貴重な文献である『和名類衆抄』に「府ハ八代郡ニアリ」とあるが地名、遺跡等からみて、御坂町国衙、岡部の国府、があげられ、また国分寺国分尼寺からみると一宮町もその一つに数えられる。今日多くの研究者がその移動について学説を発表しているが、県内の研究者である広瀬広一、上野晴朗氏による国衙三転説が今日定説となりつつある。
それは春日居町国府から一宮町国分に移り、さらに御坂町国衙へと三転したのである。これらの国衙からみて本町は北端の僻地であったろう。
 次に部名が文献に登場してくるのは、和銅七年(七一四)十月に正倉院御物の金青袋白梅絁の墨書に「甲斐国山梨郡
美里日下部□□□□□絁一匹」とありここに見える山梨郡可美里(可美郷)が部名として記録に見える最初である。
 巨摩郡と都留郡の郡名は、『正倉院文書』の天平宝字五年(七六一)の神宮造営徴用者巨摩郡栗原郷漢人部千代の記録があり、八代郡の郡名は、『続日本紀』の神善意雲二年(七六八)孝子小谷直五百依の記録に見えてくる。
このように甲斐国は初めから四郡制をもって発足しており、郡郷の名が決められた和銅六年(七一三)から約二〇〇年後の承平年間(九三一―九三七)に『延喜式』と相前後して書かれた『和名類聚衆抄(和名抄)』によると初めて甲斐国の郡制は四郡とあり、郷は三十一郷制が定められた様子が明確に把握できる。
『和名抄』によると、甲斐には山梨(夜万奈之)、八代(夜豆之呂)巨摩(麻)、都(豆)留の四郡があった。そして山梨郡には於曾(塩山付近)、能呂(上下岩崎から能呂付近)、林戸(一宮町内)、井上(井上、金川原、長田、下野原、粟合、夏目原、鳥山付近)、玉井(井上の西方一帯で金川笛吹川の合流点付近で北から坪井、上下平井、中川、成田、国衙、二宮周辺)、があって、以上五郷を山梨東郡とあり。また石禾(石和付近)、表門(表戸付近)、山梨(旧山梨、岡部、春日居付近)加美(旧日下部、八幡、牧丘)、大野(大野、加納川付近)の以上五郷は山梨西郡をなすとある。
 本町牧丘町は加美郷に含まれる。『甲斐国志』をみると「加美郷ハ山梨ノ北ニアリ、上ノ義ナリ、国界ニオヨブ一円ヲ称
ス、大村、西部、大井窪アリ、後ニ大八幡、中枚、竃戸郷卜云フ」とあり、笛吹川を境として甲斐国山梨郡を東西に分け、
西部の山梨郷につづく差出の磯から上流の右岸一帯を加美郷とした。加美の語は川上の意であろう。邸内にはのち大八
幡庄、すなわち八幡八郷の地や、当町を含む牧庄が起こってくるのであるが、『国志』の中にもみえるように本町はこの加美郷にすべて含まれ、現在の山梨市北地区より北方、本町全域で、国境におよぶ一円であった。
 本町に大村氏という旧豪族があった。甲斐国志の人物部の上代国守並二属官ノ部の大村ノ直の項をみると
姓氏録。天ノ道根ノ命六世也ノ孫若積命之後又紀ノ直ノ
同祖大名草彦ノ命ノ男枳弥命之後也、(略)山梨那加美
ノ郷ニ後置牧之庄馬城ヲ三段ニ分ケテ、中牧・西保等
ノ名アリ中牧ニ大村卜云フ処アリテ、大室・大牢礼トモ
呼ベリ、(牢礼トハ族衆の義ニテ村・室モ同ジ言葉ナリ)、
是レ大村ノ直ノ所拠ルカ、後ニハ大村一党トテ樹ツル
党ヲ土人アリ云々
とあるが、ここに見えるところの大村の置とは和泉・丹波の大村氏のことで天道棍命五世の孫大名草彦の子若積命が景行天皇の征西に従い肥前国で地方の賊を平らげ、その功によって国造に補せられたという伝えである。この大村の直が、この牧丘町に関係したのではないかという記事である。
また『甲斐国志』の古跡部に、 
大村・大室相通ズ、『姓氏録』ニ大村ノ直アリ、倉科ハ
今ハ寛邑千石千口ニ過ギタリ、域古寺窪平・千野野宮等
本卜一郷ナルベシ、山ニ倚り山ヲ抱キタレバ室卜云フ義
ニ協ヘリ、疑フラクハ『新編纂図』ニ所云フ大御室即
チ此処ヲ斥スヤラン、杣口ノ里人「大村山」ヲ「大牟礼」
卜言ヒ慣ヘルハ、古語ノ存シタルニテ牟礼(むれ)室(む
ろ)又相通ズベシ、室伏ハ室二臥スノ義ナリ、新ニ墾開
ノ地ヲ末ダ公ケニセズ、地頭領主ノ手前ニ持添ヘアルヲ
云フ(中略)金峯ニ今モ御警卜唱フル処アリ、(略)口
碑ニ「山梨ヤ御室ノ山ノ鳴ル時ハ」ト云フ歌ノ伝へタル
モ是レナラン、都留郡ニ大牟礼卜呼大山アリ、駒宮村ニ
大勢籠(オオムレ)権現ノ祠アリ、牧場ノ勢子ノ群
ル義ナルベシ
とあり大村氏は三枝氏と同じ丹波国から甲斐国に入ったとしているが、古代氏族として勢力をもっていた。また『和名抄』には記載がないが「大村郷」として加美郷の中に一つの郷があったと思われる。『甲斐国志』からみると中牧の地としているが、現在の倉科・杣口・千野々官・城古寺・窪平・室伏にわたる範囲と推定される。
 本町の古代中世史をみると、杣口米沢の金桜神社、中牧の倉科にある黒戸奈神社が特筆される。金桜神社・黒戸奈神
社ともに延善玉年(九〇五)醍醐天皇の命によって編纂された『延喜式』に加えられた延書式内社と伝える。
 金桜神社は杣口米沢にあり、金峰山の里宮として往古においては甲斐国きっての大社であった。勧請は仁寿元年(八
五一)円珍大阿闍梨によってこの地に移されており、金峰山信仰の根本道場としてこの地方の古代、中世史の中心的役
割をもった。また黒戸奈神社は大宝二年(七〇二)の創立であって、この地域の古代中世の旧豪族の信仰を受けた古社で
あった。『中牧村誌』を見ると『続日本紀文武天皇慶雲三年二月庚子の条「此日甲斐国十九社に祈年幣帛の例を始む」云々とありその内、黒戸奈神社の祭神として天の暗戸奈神・国の暗戸奈神」とあり、暗戸奈は倉科・蔵品と転化し、倉科の地名になっている。また長野地方には倉科を氏と名乗る一族が多いといい、その祖を甲斐山梨郡倉科の住人とする説があるという。
 酉保の「保」は「堡」とも書き古代・中世における土地の一小区画の称で後の隣保とか、組合とかいう意味である。
『拾芥抄』に
八戸為行、四行為町、田町為保、四保為琴四坊
とあるが、これは都の坊保に限られたもので、地方の保はただその義が転じてきただけで、民家の集まった一かたまりとなっている所を称しているようである。甲州には西原(塩山市奥野田)国衙御坂町)藤井(韮崎市〉福田(甲府市)と当町の酉保の六カ所であるので珍しい。
西保の場合古代からのものかどうか疑わしい。一説には後にこの土地に入って来た安田義定の所領中もっとも西部に当たるので、西部という説もある。今後の研究を待ちたい。