甲斐善光寺の今昔 『甲州叢話』その一 村松蘆洲氏著 昭和十一年

甲斐善光寺の今昔 甲州叢話』 村松蘆洲氏著 昭和十一年
(一部加筆)
甲府駅から東上の電車に投じて、次の酒折駅に到る間、北の方を望めば、欝蒼たる板垣山の麓に、蘶然として半空にそびゆる大伽藍が見えるのが甲斐の善光寺である。全国中京都・奈良に於ける巨刹を除けば、信濃善光寺とこの寺の如き宏大なるものは稀である。
寺記によれば、天文二十年(一五五一)の春、武田機山公が信濃村上義清と争った時、火を敵陣に放った処が恰も風が烈しかったので、其余炎が図らずも善光寺に飛火したため、寺中の僧坊は一宇も残らず忽ち灰燼に膵した、急火の事故、諸彿尊像を持出す暇もなかつた。定めし焼滅したものと思ったが、不思議にも安泰であつた。之れが薦め戦後に御仮屋を造ってこれを移し奉った。
その時信玄公の申さるゝには、
「兵火の余炎が如来の伽藍を焼失した事はその罪は軽くない、若しこの後事に信州全部が我有に帰した時には、甲州に一寺を建てゝ如来な安置しその罪を償い奉らん」
と、且つ願う事には御威力を以て信州残らず、我有に辟する様にと祈願し、干戈が息むにあたって後、善光寺を甲斐に建立する企てをした。
 弘治元乙卯年(一五五五)の春、公はまた甲府を発して木曾に向われ、遂に軍を進めて七月二十六日、越後の上杉謙信川中島に封陣した、此の時は火勢の為に先年の如き焼亡々憂って、一時同国佐久耶禰津村に本尊並に寺中の霊彿を移して置いた。そこで永禄元年の九月本尊ならびに諸彿を禰津村から甲府に動座して一と先ず上條の法城寺の彿殿に納め奉った。法城寺の旧記には永禄元年(一五五八)九月十五日酉の刻、信州善光寺を当寺の彿殿に奉安したとある。また信州善光寺の古縁起によると、
甲州武田晴信、信州川中島へ馳せ出る虚に、越後園長尾景虎、水内郡に出向き一戦に取り組み、二夜三日戦い、長尾景虎合戦切り負け、飯山の城に引退く、弘治元乙卯年(一五五五)七月三日、武田晴信、信州佐久郡禰津村に請しあり、後に永禄元年(一五五八)八月十四日、甲州如来遷座せり」
とある、一説には正親町天皇が勅して善光寺如来を戦争のなき安国の地に奉安せよと、宜うたからだと云われてもいる。
 永禄年間機山公が善光寺を板垣の地に建立した事は、何の関係から此の地を定められたかといえば、世に称する如来の大檀那たる善光居士の墓所のある由縁の地として、大伽藍を造営したものである。
〔本多善光・善佐〕
伝うる処によれば、人皇三十五代皇極天皇の御宇、本多善光・善佐の二人は信濃と甲斐を領し、善佐は信濃を.善光は甲斐を夫々治めた。善佐は信濃の国に大伽藍を造営し、三国伝来の本彿を安置し、爾来其家は継続して居った。
 当(甲斐)善光寺は善光逝去の後、自然と衰えて仕舞ったが、善光寺の前身である十念寺といふ寺は善光が建立したらしい。
〔江戸の作左衛門 甲斐国善光寺本尊〕
 江戸の番町に紅葉の番所といって、此所に高三千石を儲する本田作左衛門といふ旗本があった、此の家に三尊像の尊像が伝わり、裏書に此の尊像は「甲斐国善光寺の本尊」であると書いてあった。此家の組先の作左衛門が、或る合戦の時に一人の敵を組み伏せて、首を取らんとする途端に、敵の懐中から光明が射したので驚き見れば、一幅の尊像であった。それが不思議にも本田家に無くてはならぬ宝物であった。天保九戊年(一八三八)十月十四日当時江戸日本橋通三丁目に善光寺の江戸詰所があって、住職の順能奄諦善と講中の者とで、本田家へ推参して本尊を拝見したことが記録に残っているが、これは善光寺の前身である十念寺の本尊であつたものと想う。
金堂から西北に行くこと三町余の所に善光塚と言い、また四位殿塚ともいうて四、五坪の円形の塚の上に立てられた野石に善光の碑と刻されてある。周囲には、大きな二・三本の松の樹が繁っている。また十念路といふ地や、南善光、北善光等の土称のある事から考えて其由縁が想われる。
〔御堂建立〕
 永緑元年(一五五八)二月十六日巳の刻如来を板垣の仮屋に移し、同年の十月二日から御堂建立に取かった。山本勘介が普請奉行として萬事を指図し、次いでで跡部大炒助が作事奉行として工事を進め、永禄七年(一五六四)七月十六日上棟式を拳げた。永禄元年斧始めをして七ケ年を要した。当時の風説には甲信両国三ケ年の貢納を以って建立の費用に充てたといわれる程巨額の金を要したと云い、常時の信濃善光寺州七世の住職、本願鏡室上人を開基とし京都知恩院の末寺となった。本堂の高さは、七丈五尺、桁行廿八間、梁間十二間、廻りは欅の丸柱が百三十六本、内陣が二十八本、これは皆六尺の金塗柱で其下張りには法華経の経巻が用いられた、定尊沙門が四寓八千部の御経を一々書写されたもので、常時用材不足の為に更に切り出しの許状が武田家から下されてある。
  善光寺金堂材木不足の所於八幡の天神宮可剪之趣厳重之御下知候者也
   戊辰十月十日
      ㊞ 跡部大炊助奉之
      大本願御房
 竣工の際法事を司どったのは.遠州巌水寺の源瑜上人であった。上人の生国は出羽の図であって、四十歳の頃より五穀を断って木食をし、其折善光寺大勧進々勤めていた。機山公が善光寺建立の節は、寺内に真言宗の小院があって不断院といった。東山梨郡八幡社寺上の坊末であった。源瑜の没後は上の坊が大勧進に補したので、建立常時の金堂の絵図、その他の古記録は八幡上の坊にあったと伝えている。金堂建立後、元亀三壬申年(一五七二)五月上旬より七月十六日まで供養を行い、大法会は国内大小となく一般の寺院に命じて其宗旨によって読経をさせ.内陣に於いては四十八日別時の念彿を執行した。第一座は長禅寺の高山和尚が勤め、僧侶一日の総数は二百人以上、その時の大導師は増上寺第十一世雲誉上人圓也大和尚であった。
織田信長・大泉坊・小山田信茂
 其後天正十壬午年(一五八二)三月、織田信長が当国に襲来し、其の先手は長子の信忠であったが、信忠が安土に帰陣したあと、信長は国内諸所を巡見した。これより先織田に内通して勝頼を新府から欺き出し、武田家をあの結果に陥らしめた逆臣小山田信茂の最後が機山公が建立した此寺であった事は是も因縁というべきであらう。信長が当時滞陣中小山田は御目見得の為罷出でた。信長は小山田が主君勝頼の為に陰謀を企てた事を憎み.御手廻り衆に命じて之を誅しようとした。小山田はこの事々聞き付けて夜中旅舎に逃け込み、ここから追はれて、また善光寺の金堂の縁の下に逃げ隠れしいた。寺内に大泉坊といふ強力の山伏が居ったが、小山田の隠れているのを見付け、縁の下より追出して西板垣に於いて討取った。信長は大泉坊を召寄せて、小山田を討取った功労により、善光寺の事は機山公の時の如く、地領等諸事相違ある可からずと申し渡され、大泉坊には黄金五枚と時服とを與え、また善光寺内にては諸軍狼籍致す可からず候段との触出があった。大泉坊は文珠院と称して越後の人である。当国に来って当山開基本願鏡室上人の恩顧を蒙っていた。その後本仏入洛の折も上人は大泉坊を召して、萬事注意し心を配り、永く当山に在って奉仕すべき様との言付もあり、寺内本願寺屋敷は残らず大泉坊に輿へ、大泉兄弟は多年学ぶ処の修験道をやめて、当寺の供僧に加えられ子孫も永く其職を継いだ。小山田信茂の墓は、東光寺の南から善光寺の山門南へ通ずる道路の傍にあるが、年々開墾されて今は葡萄畑となっている。小山田は武田家に叛を謀り、勝頼公を欺き、父子敗死の後は織田氏からは沢山の褒美に預る心底で謁見した虚、却つて不忠の臣として、哀む可き最後を遂げ、自分許りでなく一味の小山田八左衛門・小菅五郎兵衛等まで同じく誅せられたのは、当然の結果というべきである。年々武田神政の祭典に御供をする武者行列の中に、昨年からは小山田信茂の姿が見えなくなったが誰も不思議とはしなかった。
 その後天正十王午年(一五八二)八月、徳川家康入国の際、前者の例により二十五貰文を同寺に寄進された、
その朱印状は
 
甲斐国善光寺領松本内十二貫文、穴山内七貰五百文、国衙内五百文等事
右寺領不可有相違之條如件 天正十一年四月十九日名乗御朱印
 
此時鏡空上人は女儀であらるゝによって、時の老職大蔵堂明、秋山助秀を以って御造営のことや山林下付のことを願い出たところ、先規の通りに許しがあった。同年家康は本尊前に持扇並に紙一折を奉納した。
〔加藤遠江守光泰〕
天正十九年(一五九一)四月より豊臣秀頼に代って封を本国に受け、二十四萬石を受領した加藤遠江守光泰も、如来の尊崇も厚い人であった。主命蒙ってて甲府城を築いたが、まだ成らない中、朝鮮軍に従い、文禄二癸巳年(一五九四)八月二十九日、朝鮮国釜山浦に於いて、病の為に卒去し遺命によって其家臣達は遺骨を奉じて、この寺に埋葬した。墓は本堂の東北垣内に五輪の石塔があり、瑞垣の前には九基の石燈籠が立っている。塔の正面には空・風・火・水・地、と一石毎に刻し地宇の石に一曹渓院殿剛園勝公大居士、文禄二年癸巳八月二十九日とある。向って左側に
公為甲斐国守也、朝鮮之役将兵在釜山浦、以病卒、実文禄二年癸巳八月二十九日也.群臣奉枢帰甲斐国善光寺境内
右側に
元文四年(一七三九)巳未二月二十九日、
六代孫豫州大洲城従五位下遠江守藤原朝臣泰候謹誌
とある。埋葬後に墓を建てたのであるが、それは長い間荊棘の中に没していたのを百四十五年後に、光泰の子孫である加藤大洲の城主加藤泰侯が詩碑を埋めて、其上に以上の墓所を改築したのである。
〔浅野弾正少弼長政〕
そのあとの当国主に封ぜられたのは浅野弾正少弼長政である、長政は文禄二甲午年(一五九四)正月より慶長五庚子年(一六〇〇)まで国内に居り甲府城を築いた人で、常に如来を尊信し、此寺の興隆に努められた。その事業の著るしいのは、金堂の内陣を修補して金の間となし、また其上仏壇の東の間が空虚で見苦るしいというので、東邦松里の放光寺住職に命じて、国内中を尋ね、大体の詮索をさせ、西山梨那千塚村の光寺の本尊の阿弥陀坐像六尺余のものと、北宮地村の大佛堂の本尊の禰陀坐像六尺余のものと、武川郷武田地蔵堂の坐像四尺余のものとを、引移すことゝし、浅野氏の家臣梶河彌五作が奉行として、これを取扱った。梶河の書付に 
態々令啓上候、仍弾正様御意.武川武田宮地大御堂佛、北山筋干塚村の霊彿、恵林寺法光寺の口入の上、三ケ所へ本尊善光寺可有入彿の由の御意に候、以吉日為移可申候、其分可有御心得候、人足の事は其の筋にて可申付候 恐々謹言
   極月十三日                 梶河彌五郎
とある。明治三十九年(一九〇六)九月六日付を以て、国宝に指定された、阿禰陀如来及び両脇侍像三躯二組は、千塚村の光増寺と北宮地村の大彿堂から移したものである。
 
豊臣秀吉霊夢によって、此地から京都の方廣寺に遷座
機山公によりて信州善光寺の本佛は当善光寺に移されたが、慶長二丁酉年(一五九七)、豊臣秀吉霊夢によって、此地から京都の方廣寺に遷座することになった。秀吉は夙に大佛造成の所願があった。金彿では多大の費用を要するので、国民の窮苦を慮り、群臣にも諮訽(シジュン 諮問)の末、奈良の大彿等身の土の彿像を造成する事にした。まだ供養も遂げない中に、慶長元年(一五九六)七月大地震の為に破壊してしまった。
 太閤は歎じて、我年来の願望も、逸に天災の為に成就す来たって、告げて云うには、
汝の多年の大願にて土佛の大像を造立するも末代罪悪身の所作である故に、天欒の為に破滅されたのである。汝若し以後此の造営を企てるならば、造る所の佛像の胎中に、霊彿を安壇するがよい。さすればこの後天災ある場合でも、恙無く大願成就をする。
との宣言があつた。太閤は夢覚めて不思議に思ひて群臣を召して、此の霊夢の次第を物語ると、群臣の中に、甲斐善光寺如来が無双の霊像である事を言上した者があった。其結果、太閤は急に甲斐の国司浅野弾正長政に善光寺如来を京都方廣寺へ遷座すべき事の旨を命ぜられた、その時京都大佛堂の照高院から善光寺支配役東田永壽へ寄せた書翰の返事に、
謹言御書致頂戴候、仍就太閤様御霊夢如来於安置之御託ては、当時満山の歓悦不過
之候、於此地も御告の儀、只今存知合儀に御座候、殊に興山上人為御迎御下向の條、万事得其意可令供奉候 恐悦敬白
    六月六日                栗田永壽
    大佛照高院枝尊報
善光寺に蔵する太閤秀吉道中侍馬人足の御朱印の文面には、
   善光寺如来の儀、御霊夢之仔細あって、大彿殿へ遷座の事被仰出候、然者従甲斐国
大彿殿まで路次中人足五百人、伝馬二百三十疋宛可申付次第事。
とあった、その道程は甲斐より駿河国へ、之れより遠州浜松、吉田、岡崎、熱田、熱田から船にて伊勢の四日市場まで、桑名、四日市、亀山、江州土山それより石山、草津、.大津、大津から、大仏殿まで、其供奉は浅野長政前頭として、以下部署を定め十五人の重役が随従した。
善光寺如来、京都へ〕
慶長二年(一五九七)六月十五日、伝馬人足並に役割の御朱印が下り、同年七月八日甲州を出発した。善光寺からの供奉は寺内本願寺智慶上人、並に供俸十五坊・京都から御迎えとして高野山の木食興山上人が参った。上人は秀吉の帰依僧である。1人の外守護の武士数十人、参詣の男女は路傍に手を合せて、如来の寶輦を奉迭する有様は殊勝であって其の行列の盛観なることは今想像もつかぬ程であって、甲州初まって以来の騒ぎてもあったろうと想はれる。愈御出掛となった処が、寶輦が俄に重くなって、恰も大盤石の如く如何に衆力を加へても動かばこそ、之れに施すべもなかった。、段々時刻も移った、当時智僧と称せられた帰命院第二世故信上人は本願寺智慶上人の師範であった。当日如来見送りの為に参詣されたものであるが、その有様を見て本願上人に謂わるゝには、
愚考するに如来上洛の後は当金堂に定まる本尊がない為に、諸人が参詣して結縁をな
すべき霊主がないわけであるから、結局当寺が退転の基となり、衆生を利益する本意
を失うので、此事を悲しまれて、現瑞を顕したものであると思うわるゝ、即ち建久の新彿を金堂に安置して諸衆の済度を補う様にといわれた。
その旨を聞き、本願上人は新彿を賓輩の前に安置して新古の尊容を相向はわしめた。故信上人は礼拝恭敬して尊體に親近し、彿身から出づる所の汗を硯の上に受け留めて、名号百幅を書したとの伝説がある。新彿とは今の本尊で建久六年、尾州の釋定尊の鋳た紫金銅の立像三尊で、中尊如来は丈四尺五寸許り、普通開帳彿と称えて内陣に安置されている。そこでこの新彿を金堂に安置した処、賓輩が軽く挙がったので、参拝人は全く感じ驚いた。本彿は東海道の駅路を経て、七月十八日志なく京都の大彿殿に着した。新彿は同寺に跡を垂れて永く当寺の本尊と仰がるゝ事となった。こゝに又、不思議の事は本尊が入洛の後京都には大に疫病が流行して庶民の難儀が少くなかった。誰言うとなく、善光寺の本尊が入洛の為であるとの風説が高まった。之れに加ふるに慶長三年(一五九八)秋の始めより太
閤は病気に罹った事から噂は噂を生んで、如来の崇りであるといった。
 如来は往昔の因縁によって跡を東海に垂れたものを.太閤は己れの権威を以て無理にも上洛をさせたのである為にこんな事が起ったものである。此のまゝにして置けば、子孫も亡ふるに至るという噂から、深慮の淀君は群臣と謀り、森右近太夫忠政が上意を蒙りて、翌慶長三年(一五九八)七月下旬京都を発し、再び如来を返す事になって、木曾路を経て東国に帰した。段々通過して信州の塩尻峠に到った時、賓輩はまた俄に重くなって挙がらぬので、供奉の人達は大いに恐れ、時刻も移る時、老僧が進み出で、
彿意の程は測り難いが霊夢の事から考えても、往古垂跡の地は信州である。-且は機山公の願望で甲斐に移ったが、つまり川中島の舊地に帰座なさるゝ御思召であらん
との意見から、一と先づ尊像を塩尻の宿に止めて、其儀を上方に注進した処が、「佛意に任せよ」との事で、屡尻から川中島に造り、慶長三戌年(一五九八)八月、信州の舊地に帰座された。
其後豊臣秀頼は、善光寺御座を建立して寺領千石を寄進され、之れより本佛は信州に跡を垂れ、新彿は甲斐に化を顧はされ、無得光如来の徳を輝かした。
 其後当国に封を受けた徳川大納言忠長は、元和二丙辰(一六一六)九月入府して、寛永八辛未年(一六三一)六月二日まで居られた。其在任中、当山修理の願い出でを許可され、金堂は檜皮葺に造営する事となり、天野傳右衛門、岩波七郎右衛門、松本三太夫其他と感榮坊が監督の下に、後藤権兵衛、松本輿惣右衛門、吉川治郎左衛門、小宮山長左衛門を下奉行とし、寛永八年(一六三一)より初まって、翌九年の六月成就した。その後は大久保忠成が、同九申年十月から十年三月廿三日まで城番として居られたが、寛永十三年(一六三六)より寛文元辛丑年(一六六一)まで二十六年間は、旗下二人づゝ年々交替で国内の統治をした。その間に寛永十六卯年(一六三九)、常山三十九世専拳上人の代、大門下板垣村の木戸の普請を郡内の平岡勘三郎がしたと記録にあるが、此の人は前の大久保忠成の時代にも代官をしたもので係数の篤信家であって、当山の為には前後力を致されて居る。
〔八の宮良純親王甲府宰相綱重〕
八の宮良純親王が富国に遵居せられ、天目山から湯村に遷られたが、あの地は西北風が烈しいので宮様が風を厭はせられ、城北積翠寺村の興因寺内に仮屋を建てゝ御遷し申したが、これは平岡が谷村の城主秋元越中守泰朝の命を受けて御世話申上げたのであった。慶安四年(一六五一)四月三日、甲府宰相綱重は当国に封を受け、寛文元辛丑年(一六六一)、平岡は石和に陣屋を建て、この後河東の料地は一人で支配した。平岡の支配時代に山門の建立を施行し、一方には国内一般に向って勤財した。寺記に、
承應元年(一六五二)仰誉玄貞和尚代三門建立、本願人中郡川西村源左衛門、寺内十
五人相添、国中奉加に相廻り申候、同本願並供僧十五人、組中相廻り寺社の林にて、
当寺内へ引付、寄進有之候事
とある。また一方当寺からは、その資金造成の為に江戸表に於て霊佛霊寶の開帳をして、多くの人からの喜捨を仰いだ。その結果三門建立も成就し、盛んに供養を行った。その時の材木の本願は、中郡川西村の源左衛門と金丸忠左衛門との篤志によるもので、大工は小口小右衛門、雨宮輿五右衛門の二人で、作事方は浄誉感榮、井虎梁泉、長瀬玄澤であった。萬治二巳亥年(一六五九)霜月完成して、翌三年(一六六〇)五月八日甲府から八の宮良純親王も参詣された。夫は京都へ御帰りになる勅免の御沙汰のあった後である。