甲斐 牧庄 (『牧丘町誌』)

牧庄 (『牧丘町誌』)
大化の改新のとき土地制度を攻め、班田制をおこなった。土地を公平に分配し、平等に義務を負担させたのであるが、時代とともに隠田(かくしだ)の取り締まり、戸籍の讃査、土地の班給、田租の徴収など事務が煩雑となり、それに人口の増加によって土地を班給することができなくなった。そのため朝廷は墾田の開発を奨励し、荒野、空閑地を開発し、三世一身、永年私有等のことを認めた。これが班田制を崩壊にもたらした原因であり、そのことによって庄園の発達を導く重大な要因ともなった。
 庄園が増加するに従い、公領、公田が減少し、国司、郡司の勢力が衰えて、庄園領主の勢力が増大し、やがて国司不入の土地ができた。平安時代には藤原一族の私有地は、全国の半ばを占めるほどであった。
 甲斐国でも八代庄停廃事件(東八代郡八代町熊野神社領をめぐる事件)、すなわち「長寛勘文」にみえる庄園八代庄は、久安年間藤原顕時が甲斐守在任中熊野社に寄進しているが、これはもと藤原顧時の庄園であった。また大井庄は藤原道長の孫俊家の三男藤原基俊の庄園であったことがある。こうして土地公有主義が一変して土地私有主義になってから、国衙の権力も全く失われ、国守に任命されても遥任と称して国政を見ず、在庁宮人にまかせ、自らは下向せず代理者に差配させた。
 延喜二年(九〇二)以来たびたびの庄園整理令にもかかわらず、ますます広範に広がっていった。このようにして貴族
や中央の寺社は、庄園の収入に依存するようになり、庄園の本所、領家は貴族の家格とさえなろうとした。また地方で
墾田を獲得した地方豪族たちは、政治的な援護を受けるために中央の権力者を本所、領家と仰いで土地を売却したり、
あるいは寄進して追従していくのである。
 この本所、領家であるところの庄園領主は、名主以下の庄民から年貢、公事を徴収し、彼らを支配するために荘官
任命し、荘官は現地の荘園に在荘して管理を代行するのである。
 このように国土の八、九分通りが荘園となった時代には、国が支配する土地は極めて少部分となり、皇室に納まる租庸
はきわめて零細となった。従って院・宮・社寺等もこれに習い種々の方法によって庄園を興していった。こうして諸国
の荘園は国都と争い、国司は荘司と争い、荘民は公民と争い、その節家は他の額家と争い、輸送に争い、境界で争い殺伐な時代となり、これが甲斐国においても当町においても同じことがいえる。
 このことから武士の必要性が生じ、武士は国家における軍隊のごとく、荘園においてもその領家に属し、軍隊の役目
を勤めたのであるが、その庄園も次第に強力な武士に横奪されることになった。本町牧庄に入ってきた安田義定荘官
の一人であったのではないかと思う。その甲斐濠氏の一族が甲斐国全土に散り、こうした時代を背景として大きな勢力
をもった。
甲斐国の荘園名は、安和二年(九六九)に「山城国法勝院領目録」に記載されている市河荘が初見である(山梨県の歴史)。
この荘園はのち源義清荘官として下向した荘園である。以後中世にかけて諸文献にみられる荘園名はかなり多い。山梨県の主なものを拾ってみると次の通りである。
 《甲斐国荘園一覧表》
八代(南北八代)・長江(長井〉・石和(石和)
井上(英以東)・一宮(一宮〉・向山(右左口)
浅利(豊富)・曾根(曽根)市川(市川大門
青島(市川大門高田)・岩間(岩間)
山崎(甲運)・立川(平等)・八幡(八幡)
牧(松里、牧丘) 中牧(牧丘)・加納(山梨)
小松(相川)・油川(玉諸)・塩部(相川千塚)
多麻(若神子)・穂坂(穂坂)・熱那(安都那安都玉) 
大八幡(長坂)・武河(清哲以北)・甘利(旭・龍岡)
鷹津名(落合 平林)・北条(大井)・大井(大井) 
南条(増穂)・八田(八田)・加賀美(三恵)・施)
鮎沢(加賀美)・奈胡(南胡)・稲積(山城国母)
布施(布施)・下山(下山)
❖都留郡
 鶴田 大原(富士北麓)・波加科(初狩
古郡(上野原) 福地
 
甲斐国志』に山梨郡加美の郷にのちに牧の庄を置き、馬城を三段に分かち、中牧・武河・西保等の名ありとあり、また牧庄は窪八幡以北、加美の郷一体を称し笛吹川の西は今西保、徳和等の山に入会の村々、恵林寺、河浦入りともにみなこの庄に属すとある。
 このことは牧庄が今日の差出の磯より以北・笛吹川両岸の諸村で、和名抄所載の加美、大野二郷にわたる広大な地であった。また時代によっては、東は北都留郡の一部丹波山村まで、また北は金峰山山麓までが牧圧といっていたようである。
 この牧庄は上代の牧場地を開拓して庄園を興したため、牧庄といったものらしい。庄内の中牧、武河牧などは後世ま
で依然牧場になっていた。田園地は今の松里(塩山)、八幡、日下部(山梨市)の諸村で墾闘以前は大部分河川氾濫のため
不毛となり、いわゆる空閑の地であったと推定される。文献としては『吾妻鏡』・『夢窓語録』・『抜隊語録』等に散見する。 
その記載をみると。
 『塩山抜隊語録』に「牧の庄宝珠寺」とある。窪平東村にあった現在廃寺の寺である。夢窓国師伝記に
元徳二年(略)出鎌倉甲州牧之庄恵林寺
居焉 云々
とあり、「新編纂書」に
牧之庄の中央を中牧と称し杣口・千野・城古寺・窪平
倉科・是なり
とあり、また列祖成蹟天正十年(一五八二)六月の条に
中麻木(牧)表の合戦云々
とある。また吾妻鏡建久五年(一一九四)三月十三日に
甲斐国武河御牧の駒八疋参著す。御覧を経られ、京都
に進ぜらるべしと云々。
とあり、西保武河の牧より軍馬を頼朝に献じたことがみえる。この記事について『甲斐国志』は甲斐国、武川の御牧、牧平、竹川は酉保の内なりと注を加え、この一帯が馬城であったことを明らかにしている。
 中巨摩郡敷島町吉沢の羅漢寺は、北山筋の高野山といわれた真言宗の古刹であったが現在は曹洞宗である。この寺の
本尊は阿弥陀如来であるが、その他に釈迦、薬師などを安置していた。その中の釈迦如来から次の銘文を植松又次氏が
発見した。
  甲州御牧庄 天台山羅漢寺 
応永三十年(一四二三)癸卯四月二十三日
   住持比丘有金 
以上の墨書がみられるが、その文中に見える「甲州御牧庄」であるが、御牧といえば甲要の御牧のことが、『延喜式』左
右馬寮にある相前・其衣野・穂坂の三牧のうち羅漢寺ともっとも近いのは穂坂牧ということになるが、穂坂牧を御牧庄と
はいわない。すると当牧庄を衡牧庄と記載したのではないかという推論が成り立つ。
 もう一点は三牧のうち「真衣野牧」は其衣郷の地、駒ヶ岳山楚の武川村方面であり、「穂坂牧」は茅ケ岳山麓韮崎市穂坂町方面である。
「柏前牧」については
東山梨郡勝沼町柏尾方面に求める説と、
八ヶ岳山麓北巨摩郡高根町念場原方面にあてる説
とがある。
 前説は『甲斐国志』巻三九、「古跡部」に柏尾の地名の類似や黒駒山・駒飼駅等牧場に因縁のある地名が近くに多いことなど証拠としている。
後説は高棍町樫山をもってその通称とするもので、磯貝正義氏をはじめ研究者は古くから見える「牧庄」の地名、勝沼町出土の康和五年(一一〇三)在銘の経常に「山東郡内牧山村米沢寺」と見えていることから、東部方面に古くから牧場が存在したことは否定できないとしながらも、柏前牧については樫山説が妥当としている。
 このように柏前牧については、まだまだ異論があるように思われるが、資料のうえで決定的な裏付けとなるものがな
いので、今日は研究が進んでいない。
 こうした中にあって羅漢寺資料は、牧庄が、御牧から庄園に発達する過程を裏付けるものではなかろうか。敷島町
牧丘町は今日にあっては行政区画のうえでまったく別な地域であるが、往古にあっては金桜神社から黒平時を越えると
牧丘町の西保に入る最も近距離にあり、上代にあっては同一共同体にあった地域である。云々