❖ 柳沢父子 『甲州風土記』上野晴朗氏著 昭和42年刊

❖ 柳沢父子
  『甲州風土記』掲載記事 
上野晴朗氏著 昭和42年刊 
            NHK甲府放送局 一部加筆
 
宝永元年(一七〇四)甲府宰相網豊は、五代将軍綱吉の嗣子となって幕府にはいった。
その後に甲斐を受封したのが柳沢吉保である。特筆すべきことは、それまで御料所といわれて分郷割拠していた給人の古い支配形態から村々が解きはなたれたことで、甲斐国も大名支配としてはじめて柳沢吉保の管下に入ったのである。
吉保が甲斐守に封ぜられたとき、将軍綱吉自ら朱印状を賜わったという。それは破格の待遇であり、親藩諸侯と同一のあつかいである。
 この三郡一円宛行われた目録の内容は
山梨都一円 高六万八千十四石一斗一升六合
       百四十六力村
八代郡一円 高五万九千五百三十二石四斗五升四合四勺
       百七十九力村
巨摩郡一円 高十万二百十九石二斗九升五合
三百三十六力村
にわたっており、都留郡は当時、寛永十年(一六三三)に上州惣社から移封された秋元氏によって治められていた。秋元氏は谷村に居城し秋元但馬守泰朝から富朝、喬朝と三代都留郡を治めていたが、宝永元年(一七〇四)十一月一万石の加増をうけて武州川越に転封となった。寛永十年から宝永元年まで七十二年間で、以後都留郡は御料所となる。
                                        
 柳沢吉保は微禄から身をおこし、天下の老職にまでになった人で、とうじは権勢並ぶもののない時代であり、とくに甲斐の国は祖先の出生の地でもあったので、故郷に錦のような気持で、この国を子孫永領の地にしようと大変な意気ごみで入国してきたようである。
 
 柳沢氏は柳沢系図をみると、甲斐源氏に出で、武田信光の孫時信の子供たち十数人が武川筋に封ぜられて、のちに武川衆となった。十二騎とも二十六騎ともいうがこれは当らない。吉保の祖父信俊のときには、青木源七郎とも、横手源七郎ともいった。家康から柳沢兵部丞と名のることを許された。天正十年本領安堵、慶長中の記録に柳沢兵部百十三石とみえる。家康が江戸にはいるとき、武川衆は武州にうつるが、柳沢・折井・有泉・青木などの諸士十四名は、国にかえって平岩親吉の部下となった。慶長十二年徳川義直甲斐一円を領したときから元和二年まで武川・逸見の諸士十二人、二人あて、十日代りに甲府城に交替勤務し、武川十二騎の城番と称えられている人々である。
 吉保は、信俊の子安忠の子として万治元年(一六五八)江戸に生まれた。母は佐瀬氏。幼名を十三郎、弥太郎とも、初名は保明といい、綱吉が館林の城主のときからその下に仕えるようになり、綱吉が延宝八年に将軍となるにおよんで、小納戸役となり、天和元年加増されて八百三十石、貞享二年従五位下出羽守に任ぜられ、貞享三年千石取りとなり、元禄元年には若年寄の上座に定められて一万石に加増され、さらに同三年三万二千三百石となり、次第に累進して、元禄十四年には松平の号ならびに偏諱(へんき)の字をゆるされ、美渡守吉保とあらためた。松平の姓は徳川家の親戚であるという栄誉の腸姓(しせい)である。この立志伝中の注目の殿様が甲斐国入りをするのであるから、それこそ大変なさわぎになった。
 
勝沼古事記』の宝永二年の項をみると、甲州街道をくだってくるこの殿様一行を迎える庶民の気持が伝えられている。
 
甲斐守様御入府三月十八日の夜、小佐手小路ニ御泊り、十六日の夜御家老柳沢権太夫様御通行、浄泉寺前より御小荷駄ト申す□(?)速の御馬ニ葵の御紋、織詰の御羽織御拝領の趣の沙汰、将軍横御上意の趣ニッキ、右の御羽織ヲ召、右の御小荷駄馬ニ召、馬上テ若尾(当時本陣)御着御泊リ遊バサレ候。誠に見る人ながめながめと申候、ソノ節取沙汰申シ候ハ、御上意ニ権太夫古郷へハ錦ヲカザルべシトノ御上意ニテ、将軍の御召の御羽織ヲ御前ニテスグサマ御直ニ権太夫へ下サレ候卜取沙汰ニ御座候、権太夫様の儀モ当所バカリニテ、郡内路上ハ掛札ニテ、肩へ甲斐守御内卜御書遊バサレ候由、サリナガラ御跡ヨリ殿様御出御泊り成ラレ候故、十六日の夜若尾氏ニテ、御奥ニハ御着成ラレズ侯由、次の御座敷御休成ラレ候由、出口ト若尾門前へハ大名格ニ、書はなしに柳沢権太夫泊リト中高札立申候、殿様の時ハ両宿入口御本陣前へ立申候、出口ハ番所バカリソノ後宝永三年の御泊ニハ甲斐少将卜申御宿札に御座候、郡内路上ハ左様コレナク由、国内バカリの沙汰…云々
のように、最初家老柳沢棒大夫一行が、先触れのような形で甲州街道をのりこんできて、あとを甲斐守の行列が入ってきたようである。沿道の人々が文字どおり故郷へ錦のこの行列を「ながめながめ」と見物にあつまり噂話に花をさかせている様子が日にみえるようである。
こうして柳沢吉保甲斐国を受対すると、ただちに甲府城の整備や、分郷携帯のさまざまな弊害を除くことにつとめている。
 このときの活気に満ちた復興の槌音は、大名支配として血のかよった政治を行なおうとする吉保の心意気をしめすもので、甲斐国を子孫永鏡の地にしようとする熱意にあふれたものであった。
このときの様子を荻生徂徠が『峡中紀行』のなかで次のように書いている。
 
『御城ノ門二人テ仰テ櫓ノ甍ヲ見ルニ鯱ナシ、怪テ問へバ古ヨリアル事ナシ、何ノイハレヲ知ラズ、此州モト公儀ノ御連子方江戸屋敷ニ潜り玉フ時ツカワサレシ事也、則チ慶安年中甲府宰相綱重公同中納言網豊公コレナリ、故事ニ御家門方ノ封セラレ玉フハ御国へ入ラセラル事ナシ、故ニ城タイヤクラ大手ノ子(ね)り堀斗ニテ内ニ御殿等ノ設ナシ、柳沢公コノ国へ封セラレシ後、御殿ノイトナミナキ事ヲエズ、此セツ土木紛奥入夫、大工蟻ノ聚ル如クヤカマシク、人熱モヤモヤシティヤナ事ユへ走リテスギ去ル(中略)サテ仕度終テ城中
ノ最モ高キ処ニ上ル、世ニイフ天守台也、此台四方ニ塀アリテドコモ見へズ、唯塀ノ外、石垣ノハシ二尺バカリ辺アリ、丁卜脣ノ出クル如キ処也、亦クルリトメグリテ下ハ石壁百尺ハカリナレバ、目ガマフテ(まわって)久シクソノ石垣ノハシニハ立チ居レヌ(下略)原漢文』
 
 とあって、徂徠の紀行文は、たまたま不明であった甲府城修築の模様まで伝えてくれている。つまり甲府城は代々親藩が継いだので、実際に城主がくるわけではなく、そのため櫓造りと大手のねり塀ばかりで、御殿と呼ばれる主賓建物さえもなく、本丸も天守閣はなく台ばかりで、四方を塀で囲っていたと記録しているのである。
 
甲府城とその城下町は、このため柳沢吉保によってとくに念入りに修改築され、城の外堀をもって都内と都外とにわけ、城下の面目はまったく一新されたのであった。しかし吉保は天下の老職でもあったので、江戸の廷におって、甲斐国へはあまり入ったことはない。したがって藩政を自らとるということはなかったけれども、封を受けた早々に、一国藩政の綱領としで、条目二十七箇条(追補九カ条)を定めている。
 宝永六年(一七〇九)、吉保親子に破格の待遇をあたえていた将羊綱吉が崩じ、家主が将軍となるにおよび、吉保も老中職を去り、剃髪して号を保山ととなえ、隠居して甲斐国の封もその子吉里に譲って、正徳四年十一月江戸の廷に五十七歳をもって歿した。以外は甲府市岩窪の竜華山永慶寺(現在護国神社境内)に葬られた。永慶寺は『裏見寒話』によると、宝永中に吉保が山城国氏の黄櫱山(おうびゃくざん)より唐の僧悦峰和尚を招いて開創した寺である。吉保の権勢と全盛時代に建てた寺であったから、金堂・楼閣・庫裡・方丈等七堂伽藍がそなわって国中の人々の眼を驚かしたという。吉保の御霊屋もまた金銀をもってちりばめられており、甲斐八景に毛筆の秋月といって宜伝された。
 しかしその子吉里が郡山転封のおり、この新名所も、弊政刷新のあおりをくって、甲府城内に善美をつくして建てられた御殿などとともに、幕命をもって完全に破壊しつくされた。理由は国替にあたり甲斐は新地になるというものであった。いまも護国神社の裏手にいくと、基石の碑名までも突き潰されているすさまじい遺構が散見できる。
 吉保の事績としては、甲府城の修築と市中の整備、都内、蔀外などの呼称を改めて新風を送りこんだ。とくに甲州街道-の整備をはかり主商品流通を活発にし、民治には意をもちいている。甲斐八景をきめ、甲州八珍果を選定し、御樹木園を城中につくって寄木、珍木を植え、八珍果は献上物として宜伝した。
 荻生徂徠細井広沢などの登用も吉保らしい文化のニュアンスであり、このころ峡中に入ってきた江戸の文化人は数多かった。
 
 
 
 
 
 
  • 柳沢吉里
宝永六年父の跡を継いで甲斐守となった柳沢吉里も是、将軍綱吉から父と同様の異例の待遇をうけており、学問の弟子となり、綱吉の猶子に准ぜられたほどであった。
吉里の事績も大きく、十五年間を甲州最後の大名としてつくしている。まず第一にあげられるものは、茅ケ岳山麓の穂坂堰の開さくである。享保元年大旱魃があって、三ッ沢・宮久保・上今井・長久保などの村民の苦しむさまを見て、三之蔵
からの堀継工事を計画、享保三年三月、山口八兵衛を工事奉行として官費支弁で遂にこの工事をやり遂げた。工事が終わって有名な柳里恭が小袖口から三ツ沢まで入ったところ、老人から子供にいたるまで堰のまわりに集まって、落涙したと伝えられている。
 吉里の事業の最大のものは、それまで取りのこされていた峡東地方の検地を宝永七年から実施したことであろう。検地はなんといっても一国の財政の基礎を築くのであるから難事業であり、香里が本格的に甲斐国の民治に取り組もうとしている様子がうかがえる。
ところが享保九年三月、幕府は突然吉里を大和の郡山城に遷すと命令してきた。この転封はまったくの寝耳に水だったようである『甲陽柳秘録』というのをみると
 
「壱家中は申すに及ばず、一国の騒動大形ならず。諸家中の人々忙然として夢の如くなるもことわりなるかな。武州川越在城より当国へ引越、宝永年中より廿年の星霜を送り、都の花と時めきしも、一場の夢と消へ、大和は都近き所とは言ひながら、見も知らぬ山川をへたてたれば、是享た所縁懇意も失いはて、親子兄弟離散のてい、哀れなることいはん方なし、斯てもあらねは家中の面々、長途の支度旅の用意取々にて、貴賤の家財道具を売払ふとて、ここかしこに売出し、町在とも集ること市の如し、よって家老中より猥に曲輪内に入まじく旨申付られ、見付番人厳しくこれを止む」
 と一朝にして変りはてた甲府市中の混乱ぶりを伝えている。『勝沼古事記』は甲州街道の様子を
 
----三月より御早通ル、昼夜をかぎらず、のちのち承り候ところ、御国替の事也、甲斐守様郡山へ御国替、殿様四月十六日(当宿朝立)御立の由承リ候……」と伝えている。『甲斐国歴代譜』をみると、同年六月十一日に御城引き渡しを行なっており、最後の厳粛な光景は、
「甲斐守家来衆、穴切見附より山手御門前まで十一ケ所に相並ぶ、各々席上下着用、御城引渡滞なく相済み、甲斐守家来中は片羽見附より出る、都合騎馬五十騎也。実にや今日、甲陽の名残に有けん、行粧尊莫を尽し、見物の男女移し…」
 
と一抹の哀歓をこめてこのときの光景を伝えているのである。
 これを日本史の上からみると、五代将畢輌書の元禄の政治は、江戸幕府の政治史上一番みだれたときでありあとを継いだ将軍家宜は、新井白石などを登用して弊政を大いに改めたが、しかしまだ充分ではなく、その後八代将軍となった吉宗は、享保の改革を断行、「公事方定書百箇条」などをつくって、伊勢山田奉行の大岡忠相を登用して江戸町奉行としたり、また青木昆陽などを重く用いるとか、元禄、宝永の時代の悪貨を改鋳するなど中興の名君とうたわれたのである。
 そのあおりをもって柳沢家は郡山への転封となったのであり、永慶寺の破却、城内御殿の取りつぶしなどはとかく奢侈に流れた世相への苧告と矯正が多分に含まれていたのであった。