柳沢吉保 龍華山草創之事 『兜嵓雑記』「とんがざっき」

龍華山草創之事 『兜嵓雑記』「とんがざっき」
  • 吉保の事
抑此龍華山と申寺は、故美濃守吉保殿御願として、山梨郡岩窪村(現甲府市)に一字を御建立有り、則寺号龍華山永慶寺と號す、山城国字治の里黄檗萬福寺之千住悦峯禅師を請待し、常山の開山と敬いけり、是浅唐名僧なり、是より君を始奉り諸士萬民に至迄、昼夜之参詣引もきらず、堂上堂下之御作事宇治之里萬福寺之図を以、七堂伽藍建並へ、加旃之堂甍(いらか)を並べ楼門高聳其風景郡懸に冠たり、去れば堂内之諸仏諸菩薩は睴光を輝し、所謂唐仏也、荘厳珠玉鏤誠に健勝の霊場也。
毎に毎年七月十五日、聖霊の供養として大施餓鬼之御法事、日中より八ツ時まで諸僧数多にて各々回向有ければ、見開の貴賤難有事感涙肝にめいじけり。
扨(さて)正徳五乙未年(一七一五)十一月二日、美濃守吉保殿逝去ましましけるに依りて、尊骸を江戸屋舗より御引取有之、則御菩提所岩窪龍華山に奉葬、御法號は「永慶寺殿殿濃州太守甲鉏(そ)卿羽林次将保山大居士、誠に此殿は一生之内、饞(さん)の知行より段々官録上がり、甲斐少将迄に昇り給いし事、前代如何成然道を積置給ふらん、アゝ、世之人の身の上計り難し、行すえ不思議なりし事共なり。
  • 秀吉の事
是をむかしに譬(たと)えれば、前関白秀吉公は尾州の土民筑阿禰入道か子にして、始めの程は隣村の寺に居て小沙彌と成しか供、是も不達追出され、夫より人の世話をもつて奉公に出る事何軒と云数を知らず、後遠州之浪人松下嘉兵次と云いし武士の所に奉公になりしが、爰に始めて二三年も勤めけるが、或時金五両を預り織田信長の城下へ具足誂(あつらえ)に来られしか、彼の預りし金にてふと信長へ奉公の望起り、主人の誂の鎧は不調、己か身の裃(かみしも)に事寄、乞食同前に形振を拵(こしら)え、信長狩野の時を見澄(みすま)し御目近く罷出平伏しける、その時信長、その方の名は何と申すぞと御問ひ被成けれは、筑阿彌の子にして名もなき由信上げる、然は小筑(こちく)と申せとて、夫より馬屋之用事杯勤、またある時は殿御覧被成小筑は去とは猿に似たり、今より猿と呼べしとて、夫より猿々とぞ召れける。
然るに用向の勤誠に実体にして、物毎人之致より利口に出来しければ、次第に立身いたし、木下藤吉郎と成、間もなく播州姫路之城代と成給い、羽柴筑前守秀吉と名乗大名と成給い、終始大政大臣関白秀吉卿と敬せられ、天下を掌に握りて朝鮮迄も切随え、異国進も英名高く聞えさせ給い、御逝去之後豊国大明神贈官仕奉る事、前代未聞の事地、
  • 吉保の事
是はむかし事、今美濃守入道保山居士も只ならぬ不思議の人也、改めまた関白秀吉公高位に昇進し天下を治めひし時
 落首 木の下に捨てる乞食もすへを見よ さる関白を見るにつけても 云々