甲陽柳秘録 青木信俊(柳沢吉保公資料)一部加筆

甲陽柳秘録柳沢吉保公資料)一部加筆
一 柳澤氏は甲州武門之連名にして甲斐漁氏之庶流也、其始め新羅三郎義光甲斐守に任せしより以来、子孫甲斐国に多し、義光之二男刑部三郎(武田冠者甲斐守)其の子黒源太清光甲斐守、其の子武田太郎信義甲斐守、武田五郎信光大勝大夫、其の子一條六郎信長甲斐守、武由五郎信政與號、武田信長の兄は信玄の先祖なり。信長の子一条八郎信経、一条源八時信甲斐守、其の子青木十郎時光、青木十郎太郎常光、青木次郎太郎信連尾張守、青木孫六貞義、青木十郎義園(【校者註】遠とあり)、青木彌十郎安園(【校者註】遠とあり)尾張守、青木彌七郎義虎、青木尾張守信定、青木尾張守信定、青木尾張守信立、其の子柳沢兵部丞信俊、(【校者註】世系に相違あれども原本に従って改めず)
一 青木信俊
信俊初めは青木源七郎、中頃横手源七郎、後には柳沢兵部丞と号す。
元亀元年()正月、駿河花澤の城攻めの時、兄横手監物信国(【校者註】監物とあり)戦死に付き、軍勝信玄命にして横手の家を継ぐ。是より青木源七郎を改めて横手源七郎と号す。此の處に天正八年十月廿九日、上州勝之城攻めの時、
信俊一族にて柳沢靱負信兼というもの軍令に背き、味方を一丁斗離れて一の門際に付、信俊は敵を堀之内に切り落し、横続けて飛び入り首を取る。馬場忠左衛門尉、鎗の柄を下せしに取り付け堀を出て、首を軍勝勝頼に捧げて付す。勝頼この時靱負信兼を怒りて死を命じ、信俊をして柳沢の遺跡を継がしむ。これ依り甲州柳沢村に移り、横手村を領する。是より妙横手源七邸を改め柳澤兵部丞と号す。
元亀三年十二月廿二日、遠州味方が原の合戦の時、山縣三郎兵衛昌景の備えが崩れたるを盛り返し、信俊首級を得る。
天正三年五月二十三日三州長篠の合戦に味方敗北の時、信俊は青木主計信昌と白須又市と唯三騎で度々敵を追い払う。
天正十年春織田信長甲州へ進発する。勝頼は新府より都留に趣くの時、計策の為に信俊等は柳沢村の餓鬼嗌(がきののど)と云う小屋に籠らしめる。
天正十年三月二十一日、勝頼生害、甲州武川の諸士事兼ねて権現様(家康)に達していて、成瀬吉右衛門は武川の諸士に由緒在の故、餓鬼嗌の辺りに来て可被召出の御内意を告げる。武川衆一族の折井市左衛門次昌、米倉主計助忠継、甲州市川の庄にて召し出されて、御扶持米を拝領する。遠州桐山の辺りに忍んで可被罷出旨蒙上意彼地へ行き、天正十年六月織田信長生涯、権現様従泉州堺堺御下向之時、折井、米倉儀は甲州へ罷越武州(武川か)之者共可申合之由蒙上意、餓鬼咽に来る。此の頃北条氏直より度々雖内意承引せず、北条勢甲州若神子に出張、権現様は未だ御出馬不被遊以前に、信濃堺北条方方之小沼之小屋を武州(武川か)の謝士迫崩し、之により同七月各御直書を頂戴する。同八月、信俊は本領安堵御朱印をこれ頂戴する。(家康は)其後御出馬にて甲州新府に御着坐之刻、信俊初めて御目見えする。この砌中澤縫右衛、同新兵衛と云者が北条家より之同意の書状を達す、之により武川の諸士は相談の上両人を討取る、其の書状を添えて新府(家康に)へ差し上げた。また逸見日野村の花水坂より、北条家の軍兵度々襲来により、山高宮内少輔信直と信俊示し合せて、がまりを設けて是を待ち首二つ討ち取る。敵之家来一人を搦め捕り新府に差上げた。
 
(「がまり手」【註】本隊が撤退する際に、小部隊をその場に留まらせ、死ぬま
で追ってくる敵軍を足止めさせる。それが全滅するとまた新しい足止め隊を
退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる
戦法。この場合はどうか
 
此砌為に信俊使いの家来に青銅三貫分を下さる。天正十年(一五八二)十二月七日に再び本領を安堵され、之の御朱印を頂戴する。天正十二年(一五八四)三月尾州小牧御陣之節、武川の諸士は信州勝馬取出の御番に残し置き、其の後上意によって尾州に趣て御一戦御勝利の故に、同国一の宮の御番を相勤める。牧野半右衛門忠清指引之、同年九月信州真田表に御人数被差向時、信俊は大久保七郎右衛門忠世備組に属し、於彼地走り廻り有之、其上為証人御定之外、妻子等を駿州興国寺迄依差越為御感、天正十四年(一五八六)正月十三日御直判の御書を頂戴の時、大久保新十都貞清、本多禰八郎正信連署添之、平岩七之助主計親吉よりも書状添之、天正十八年(一五九〇)正月廿七日、武川の諸士御加増になり之を拝領する、天正十八年二月、小田原御陣これに信俊供奉(ぐぶ 御供)する。天正十八年八月、武州鉢形にて領地を拝領する。天正十九年(一五九一)正月、奥州の陣の時、信俊は大久保七郎右衛門忠世の備え組に属し、岩手沢まで供奉する。
 文禄元年(一五九二)朝鮮御征伐之事が始まる時に、信俊は伊豆山より舟板を出すことを仰せ付けられる、
慶長五年(一六〇〇)濃州青野ケ原御陣のとき、信俊は大久保相模守忠隣の備え組に属して、台徳院様の供奉をこれ勤める。
 慶長十九年(一六一四)冬、大坂御陣の時は信俊病気に依り供奉を勤めることが出来なかった。そこで嫡子孫右衛門安吉が本多佐渡守に属し供奉する。
 慶長十九年信俊卒去する。家督は嫡子右孫右衛門安吉に与えた。
信俊の二男は柳沢刑部左衛門安忠、松平美濃守吉保の父なり。
 一 安忠初めは長蔵、次に十右衛門、後に刑部左衛門と改める。元
元和元年(一六一五)大坂御陣之節に元孫右衛門安吉が病気のため代わって刑部左衛円安吉十四才にして供奉を相勤める。大阪に於いて台徳院様(徳川家忠)に御目見し其の上領地を拝領する。
【筆註】大坂の陣(慶長十九年 一六一四~慶長二〇年)
 
慶長元年(一五九六)九月二十五日、綱吉公へ可奉勤仕旨従大猷院様(徳川家光)に仰せ付けられる。初め御廣式番頭、後に御勘定頭に仰せ付けられる。
延宝三年(一六七五)七月、願いの通り隠居を仰せ付けられる。家督は吉保公に下し置かれた。安忠は剃髪して露休と云う。