2015-04-01から1ヶ月間の記事一覧
柳沢吉保伝 翁草 巻之七十七 柳沢吉保伝 翁草(おきなぐさ) 巻之七十七(『日本随筆大系』第三期 第十二巻)左は原本 加筆 生類御憐并五士一僧之事 将軍始の程は、尚も御慎みの兆遣らせ給い、営中へは召るゝ女中もなく、唯保明亭の御遊のみ成しが、日を迫ひ…
松平甲斐守吉里 吉保ノ男、幼名、網干代又は柳沢兵衛安暉と云う。 元禄 年 任越前守 元禄十四年 賜御氏諱改、松平伊勢守吉里 宝永六年丑六月廿八日 家督改甲斐守四品侍従に至る(按に宝永三年の八月、望まれて古府八幡宮奉納百首和歌の尾に記して曰く、従四…
松平美濃守吉保『甲斐国志』一部加筆 『武家補任』云う 柳沢刑部左衛門安忠の二男始め柳沢弥太郎保明 神田御屋形ノ小姓也 柳沢氏ハ本州武河衆の一員なり 御本丸ニ被為入節為に御小納戸(延宝九年の『武鑑』に見える) 貞亨二年丑十二年廿八日、任官出羽守従…
〔隆盛時期の善光寺〕 当時寺内には浄智、空海、信蓮の三尊の外に、御彿供所、弘法堂、薬師堂、外に化用院があつた。僧として、大蔵、浄蓮、當照、良生、堂明、玄春、蓮生、順能、随行、蓮教、光運、常圓、了故、正圓、感榮の十五ケ寺院があり、灯篭彿の別当…
〔本所の回向院で、本尊の開帳と灯篭佛の結線〕 享保七年(一七二二)覚誉上人の時代に於いて、七月二日より九月朔日まで六十日間、本所の回向院で、本尊の開帳と灯篭佛の結線を行った。その時の記録には驚く勿れ、慶長金一千両、諸費用が金三百両を要したが…
〔信玄法要 柳沢吉保〕 その後宝永二酉年(一七〇五)四月十日から十二日まで二夜三日佛式を行い、機山公の百三十三年忌を施行した。これは柳澤甲斐守吉保が在封中であるが、吉保は当国とは関係も深く、武田家再興等についても、非常に尽力をされ、武田家の…
〔八の宮良純親王・甲府宰相綱重〕 八の宮良純親王が富国に遵居せられ、天目山から湯村に遷られたが、あの地は西北風が烈しいので宮様が風を厭はせられ、城北積翠寺村の興因寺内に仮屋を建てゝ御遷し申したが、これは平岡が谷村の城主秋元越中守泰朝の命を受…
〔豊臣秀吉の霊夢によって、此地から京都の方廣寺に遷座〕 機山公によりて信州善光寺の本佛は当善光寺に移されたが、慶長二丁酉年(一五九七)、豊臣秀吉の霊夢によって、此地から京都の方廣寺に遷座することになった。秀吉は夙に大佛造成の所願があった。金…
明治三十九年(一九〇六)九月六日付を以て、国宝に指定された、阿禰陀如来及び両脇侍像三躯二組は、千塚村の光増寺と北宮地村の大彿堂から移したものである。
〔浅野弾正少弼長政〕 そのあとの当国主に封ぜられたのは浅野弾正少弼長政である、長政は文禄二甲午年(一五九四)正月より慶長五庚子年(一六〇〇)まで国内に居り甲府城を築いた人で、常に如来を尊信し、此寺の興隆に努められた。その事業の著るしいのは、…
〔加藤遠江守光泰〕 天正十九年(一五九一)四月より豊臣秀頼に代って封を本国に受け、二十四萬石を受領した加藤遠江守光泰も、如来の尊崇も厚い人であった。主命蒙ってて甲府城を築いたが、まだ成らない中、朝鮮軍に従い、文禄二癸巳年(一五九四)八月二十…
〔徳川家康〕 その後天正十王午年(一五八二)八月、徳川家康入国の際、前者の例により二十五貰文を同寺に寄進された。 その朱印状は 甲斐国善光寺領松本内十二貫文、穴山内七貰五百文、国衙内五百文等事 右寺領不可有相違之條如件 天正十一年四月十九日名乗…
〔織田信長・大泉坊・小山田信茂〕 其後天正十壬午年(一五八二)三月、織田信長が当国に襲来し、其の先手は長子の信忠であったが、信忠が安土に帰陣したあと、信長は国内諸所を巡見した。これより先織田に内通して勝頼を新府から欺き出し、武田家をあの結果…
〔御堂建立〕 永緑元年(一五五八)二月十六日巳の刻如来を板垣の仮屋に移し、同年の十月二日から御堂建立に取かった。山本勘介が普請奉行として萬事を指図し、次いでで跡部大炒助が作事奉行として工事を進め、永禄七年(一五六四)七月十六日上棟式を拳げた…
〔武田信玄〕 寺記によれば、天文二十年(一五五一)の春、武田機山公が信濃の村上義清と争った時、火を敵陣に放った処が恰も風が烈しかったので、其余炎が図らずも善光寺に飛火したため、寺中の僧坊は一宇も残らず忽ち灰燼に膵した、急火の事故、諸彿尊像を…
江戸の作左衛門 甲斐国善光寺本尊〕 江戸の番町に紅葉の番所といって、此所に高三千石を儲する本田作左衛門といふ旗本があった、此の家に三尊像の尊像が伝わり、裏書に此の尊像は「甲斐国善光寺の本尊」であると書いてあった。此家の組先の作左衛門が、或る…
〔牛にひかれて善光寺参り〕 こゝに一つの不思議の話は延賓六年(一六八〇)江戸の芝牛町から一疋の牛が来山された事である。 寺録に、 延室六年(一六八〇)江戸芝牛町より一疋の牛、常山へ参詣の事、一七日 参籠、其行方不知、彼牛の石碑は本堂東の傍にあ…
甲斐善光寺の今昔 『甲州叢話』 村松蘆洲氏著 昭和十一年 (一部加筆) 甲府駅から東上の電車に投じて、次の酒折駅に到る間、北の方を望めば、欝蒼たる板垣山の麓に、蘶然として半空にそびゆる大伽藍が見えるのが甲斐の善光寺である。全国中京都・奈良に於け…
北杜市偉人伝 小尾守彦 『北巨摩郡誌』(一部加筆) 寛政四年(一七九二)甲村五丁田(北杜市高根町)なる里正の家に生れ、通称兵之進、諱は保教、字は子孝、鳳山と号した。幼にして谷戸の祠官某に学び、其の後独学独習一家を成し又書を能くした。蕪(かぶら…
北杜市偉人伝 中山正俊 白州町横手出身 『北巨摩郡誌』一部加筆 本県明治の漢学教育家として第一位に置くべきは駒峯中山正俊である。氏は安政三年(一八五七)駒城村横手に生る。天資頴悟夙に甲府徽典館に学び、明治六年(一八七三)笈を負い東都に遊学する…
北杜市偉人伝 今井喜七氏(小淵沢町篠尾村)&名取高三郎氏(白州町上教来石) 名取高三郎氏(「白州町誌」昭和61年) 北海道で大活躍(名取高三郎商店)、郷土への貢献も大 安政五年(一八五八)十月二日、旧鳳来村字山口名取員保・まるの長男として生まれた…
大武川鳥瞰(蘇り来る河) 古屋五郎氏著(元白州町長)『中央線』第8号(1972) 私が南方の長い戦陣から復員したのは、昭和二十一年であった。その年は極度の栄養失調と、敗戦の虚脱状態の中に空しく暮れた。年が明けて体調もやゝ整ったので、先ず外地に…
白州歴史上の人物〔河西氏 下教来石〕 角川日本姓氏歴史人物大辞典10山梨県 『続峡中家歴鑑』に、北巨摩郡鳳来村下教来石(白州町)の河西斐規がみえ、同家は新羅三郎義光の末喬河西蔵人義行を祖とし、治承四年の頼朝挙兵、義経追討に功をあげ、甲斐河西荘を領…
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甲斐駒山脈の特色 小島鳥水『現在登山全集』「北岳 甲斐駒 赤石」 昭和36年 創元新社刊(一部加筆) 花崗岩と古生層地と交錯していること、日本アルプスに比額のない、シエラ、ネヴァダににたような、鋸歯状の山稜を有すること(鋸岳において)、高山植吻は…