白州町 河西素柳 河西儀右衛門

白州歴史上の人物〔河西氏 下教来石〕
角川日本姓氏歴史人物大辞典10山梨県
 『続峡中家歴鑑』に、北巨摩郡鳳来村下教来石(白州町)の河西斐規がみえ、同家は新羅三郎義光の末喬河西蔵人義行を祖とし、治承四年の頼朝挙兵、義経追討に功をあげ、甲斐河西荘を領したといい、江戸期には宿駅本陣問屋・材木商を営んだとある。
 《参考資料》ここにあげた河西素柳は上記の河西氏と同家と思われる。
河西素柳

生、文化十二年(1815)歿、嘉永 二年(1849)年34歳。
 代表句   曙の動き初めや梅の花
嵐外恩師の五十七日に
   夏来ても何をか露の忍ふ草
 本名、河西九郎須。北巨摩郡鳳来村旧教来石(現白州町下教来石)といふ処に、姓を河西と名乗る武田浪士がいた。代々の主人悉く皆実名をば九郎須と称えたが、今より数代前の祖先九郎須氏、深川に居を移して材木商を営み、江戸の長者番付に載録された。その後商売も傾き、故郷に帰り余生を送った。下教来石村は臺眠と共に活躍した塚原甫秋を生んだ集落である。
 

『甲斐天保騒動』 天保七年(1836)八月。
 (略)教来石に押し行、当初に河西六郎兵衛といふもの、江戸深川木場に出店ありて、材木問屋にて数年相続、甲州より往古仕入銀を遣わし置けるゆえに、今もって江戸より小遣ひ銀おくりくれば、それにて家内はなはだ富家に暮しぶげんの数に入りたる富家なり、江戸にても天満屋六郎兵衛といひ、当国にては教来石村の九郎九郎と謂る。なにゆえくろふぞと謂る。云々(『甲飄談』)
 『峡中俳家列傳』
 北巨摩郡鳳来村舊教来石と云ふ處に、姓を河西と名乗る武田浪士があった。代の主人悉く皆實名をば九郎須と称えたが、今より数代前の祖先九郎須氏、江戸の深川に居を移して材木商を営み、牙籌を把って巨万の富を致し、其の時代に於て長者番付に載録せられたが、峡中の人で江戸の長者番付けに載せられたのは、抑も此人が矯矢である。されど有為転変の世の中、盛衰常無く、栄枯また測られず、晩境におよんでから、聊か商略を誤ったので、住み馴れし、江戸の住居も物憂くなり、遂に故郷に帰って静かに余生を送ったとの事であるが、此の人の嫡孫九郎須氏、財實余りありて家計豊かなりしがまゝに、幼少の頃より和漢の学を修め、また茶道・活花・謡曲等の風流の余技を学んで、何れも其の奥秘を究め、殊に俳諧に於ては、嵐外の洒落を慕って随遊し、四方の風土を交遊する事頗る盛なりしが、惜ひ哉、天此の人に歳を假さず、嘉永二年(1849)八月僅に三十四歳を一期として遠逝せられた。遺骸は信州諏訪郡蔦木駅の信福寺へ葬った。

暁の動き初めや梅の花
  嵐外恩師の五十七日に
  夏来ても何をか露の忍ふ草
  居るほどの窪たみ持て冬の月
  鶯のうとまるゝ日はなかりけり
  葉の影をすみて日の照る清水哉
  露の玉こほるゝまてに仕遂けり

等の諸吟が世間には傳はる處の咏である。
 白州町域内の俳人 河西素柳 
下教来石出身で、嵐外の酒落を慕い各地の文士と交遊したが、嘉永二年三十四歳で早世した。
    曙の動き初めや梅の花      素柳

河西儀七郎 
高根町西割「熱那神社」の算額の項)


 ―甲州の和和算―『文学と歴史』弦間耕一氏著 昭和60年 文学と歴史の会発行

(抜粋 一部加筆)

算額を奉納するに当って、世話役をした人物はおそらく河西儀七郎だと思われる。

 この儀七郎は、甲州道中教来石の本陣で問屋を兼帯した河西家一族の一人である。

 儀七郎の教来石村は、明治二十年の火災で一村が羅災し豪農の河西家も焼失している。

 河西家は焼失前に明治天皇が立寄られた所として、「山梨県聖蹟」の指定を受けたが、羅災後は、長野県小県郡県村大字田中百十六番地に、一時転移した。それに河西家の蔦木(長野県富士見町)にある菩提寺も焼け、古い過去帳はない。そんな経過の中で、白州町役場の戸籍係の人に、除籍簿で儀七郎を調べてもらったが判然としない。

河西家は、大家という屋号で呼ばれ、全盛期は村中の面倒を見たと伝えられる。この河西家を北巨摩郡教育会の『北巨摩郡勢一班』で見ると。


鳳来村教来石に河西九郎須といふ武田浪士があった。代々の主人通称を九 郎須と唱へたが数代前の九郎須、江戸深川に居り材木商を営み巨万の富を致し、江戸の長者番付に載録せられた。


右にみるように、江戸の長老番付に名前が載る程の富を手にした。その財力を物語るものに、河西家の屋敷神や屋敷墓が旧跡に残っている。私と教来石へ調査に同行した郷土史家の中村良一氏「こんな豪壮な屋敷神は、見たことがない」と驚嘆のことばをもらした。その石宮には、寛政九年(1797)江戸店とか、安永九年(1780)河西氏再建之と記録されている。

 屋敷墓地は、およそ広さは三十坪程ある。そこには、立派な墓石が二十数基並んでいる。なんと下男・下女の墓碑もある。河西家一族の俗名には、六郎・宮八・九郎須など、郎の付く名前が多い。儀七郎とある墓石を発見することはできなかったが、六郎の次に儀七郎・富八・九郎と続く感じがした。

 儀七郎の学問的背景であるが、河西一族からは、俳人の素柳が出ている。

 幼少より和漢の学を修め茶道、活花、謡曲等風流の余技を学んで何れも奥秘を究め、俳諧は外の酒落を慕ふて従遷し四方の文士と交遊した。嘉永二年(1849)八月、三十四歳を一期として遠逝した。

曙の動き初めや梅の花 鴬の疎まるゝ日はなかりけり

  葉の影をすみて日の照る清水哉

嵐外恩師の五七日に、

  夏来ても何をか露の忍ぶ草

  居るほどの窪たみ持ちて冬の鳥

 等が世に伝わる吟詠である。


 右は『北巨摩郡勢一班』に載る俳人、素柳である。


 儀七郎は、河西家の家督を相続した素柳の弟に当たる人物であろう。

 河西家は『県政総覧』によると「河西私塾 下教来石の人 河西文五郎とか、河西九郎須、文化年中より明治に至るまで、御家流の教授をなした」とある。

 幕末から明治期にかけて、峡北きっての豪農でしかも私塾を経営した河西家から、儀七郎のような人物が輩出するのは、不思議ではない。それに街道で本陣を勤め、問屋であったから、算勘は、お手のものであった。お手のものと書いたが、算額は日常的、実用性を離れているので、儀七郎にも和算の師匠がいたであろうが、その点は明らかでない。

 信濃和算の盛んな所であったから、信濃関係を探ったが、儀七郎は出てこなかった。和算の研究に一生を捧げ『信濃和算』を出版された赤羽千鶴先生にも照会したが、峡北地方、特に教来石村は、信濃と近接しているが、和算の交流はないとの御返事であった。

 ただし、諏訪の和算家伊藤定太へ、明治十一年一月巨摩郡豊村斎藤重松が入門していることが判明した。

 算額を奉納した人達がだれに、和算を学んだかについては、今後の課題である。