大武川鳥瞰(蘇り来る河)昭和43年大水害 古屋五郎氏著(元白州町長)

大武川鳥瞰(蘇り来る河)
        古屋五郎氏著(元白州町長)『中央線』第8号(1972)
 
 私が南方の長い戦陣から復員したのは、昭和二十一年であった。その年は極度の栄養失調と、敗戦の虚脱状態の中に空しく暮れた。年が明けて体調もやゝ整ったので、先ず外地に在って日本を憤った人々と語って会をつくった。会は誰とはなしに外地会と謂うことに一致した。続いて山を復活したいと考えて、さゝやかな会員乍ら菅原山岳会をつくった。それには折柄疎開中の、日本山岳会副会長であった春日俊吉氏の力が大きく作用した。山によって敗戦で打ちのめされた青年達に、勇気を持って貰おうと言うのが狙いであった。
 青年達の他に、戦前ガイド等によって山に生活した人々が挙って参加してくれたのは大きい力であった。
 事業は荒れ果てたルートの復活と潰滅した避難小屋の建設から始められた。黒戸尾根、尾白渓谷、鞍掛沢、鋸、駒、鳳凰縦走コース、仙丈の馬鹿尾根から左俣へと、年を追って順次手が伸び、遂には白根三山に迄及んだ。あの食糧事情の中に在って、皆よくついて来てくれたものと思う。
 前置きが長くなったが、昭和二十五年の夏、赤薙沢から尾無尾根を経て北岳への最短コースを拓いた時の事であった。荒れ果てた赤薙沢の右岸を巻き左岸を辿ってビバークを重ね乍ら焦燥の中に前進を続けた。山は戦中の長い休止の中に在って、末木登久、高木薫博等かって南の名ガイド達が揃って居乍ら、しばしば踏み迷って一進一退を続けた。漸くメドの大滝を過ぎる頃から、河原は夥しい砂礫の押し流された跡を辿る様になり、その厚さは三米余にも及んで何処迄も上流に続いていた。押出しの主役は高嶺から落ち込んだミヨシ沢や白凰峠北面の沢、尾無尾根左手の沢等であった。
 爾后年々甲斐駒に登る度に、三宝頭から眺める大武川の流れが異常に変化しつゝみるのに気がついた。
 私はその事を武川村の人達にも話し、又しばしば当時武川村長であった一木清兵衛君に、「君、大武川は昔の古里に帰りたがって居る様だ。牧之原の新開地に商店が一軒多くふえる
事を繁栄と思ったら間違いの様な気がする。あそこをまともに狙っている。最近山が大変動いている感じだし、是非一度一緒に山に行って見よう」と誘ったが、山に興味を持たない一木君としては無理もない事乍ら全然取合われなかった。
 昭和三十四年の梅雨はダラダラと八月に続き十三日の朝は台風の予報の通りに、一しきりの激しい降雨の為地面は煙って、上の家の方から樽やバケツ等が庭先に流れて来る始末であった。暫くして何処からともなくゴーッと謂うB29が百機も一時に襲来したかと思う様な響が伝って来た。所謂七号台風による山津波である。此の時は名も無い沢々迄が夥しい土砂を押出して国道は寸断され、耕地の埋没、家屋の流失、死傷者など激甚の災害を蒙ったが大武川は特にひどかった。
大竹部落は全滅し、牧之原の新開地は私が山で眺めた規定の通りに直撃を受けて、一瞬にして流木や大石の累々たる河原と化した。
 激流は鉄橋やコンクリートの所謂永久橋を「そこに在ったか」とも言はぬげに悉く持ち去って、私の町も五地域に分断され各々孤立した。その時、尾白川が耕地を削って断崖をつくった場所があった。そこには厚さ二米程宛の間隔を為して昔の耕地が三層埋まっていた。
 山が百年前の状態になれば川は必然的に百年前の処え里帰りするに違いない。南アルプスの様な風化の激しい花崗岩の山は何年か一定の周期を持ってこの繰返しを行っているのではないだろうか。七号台風は偶々その引金になったものゝどうもその年期が来ていた様に思えた。その時の流木の年輪が大体百二、三十年であった処から推して、その周期は百五十年位との自説を立て、盲蛇ものに惧ぢずで折柄視察に来られた東大の那須皎一先生に堤防無用論と共にブッたら、大筋でそうだと御褒めを頂いた。金を、かけて割石を一つ宛並べた堤防を築くよりも人間に躾がある様に、常に河自身整理をしてやればその方が安上りだとの珍説も、随行の河川専問家がそれは学説としてもあるとの事であった。
 大武川の大堰堤は慥(たし)か昭和三十六年に完成した筈だが、よく留何十万立方とかで少くとも二、三十年は有効だと言はれたふところも昭和四十年には一杯になってしまった。当時大武川林道の入り口に腰を降ろした大石を割ったら堤防の見地石が三万五千個とれた。これを並べた堤防の蔭にかくれて安心していて良いものだろうか。勿論砂防も治山も順次奥地に伸びてはいる。然し山に立って自然の輪廻を憶う時、人間と謂うものゝ何と心細いものである事か。山は人間の生意気な営みを遺事らしく眺めている事であろう。川は言って居るかも知れない「俺はお前達に年期で小作に貸して置くのだ」と。

白州人物史 古屋五郎氏(白州町の創始者
 
明治四十三年一月二日、旧菅原村字竹宇の旧家古屋浜吉・ふじの三男として生まれる。
甲府中学校(現二高)で勉学するも、兄二人が旧東京帝大に学びながら病魔に倒れたので氏も同じ轍をふまないようにとの両親のはからいから、進学をあきらめ家に帰り農業を継ぐ傍ら、
昭和二年から菅原村役場書記として勤務をはじめる。
昭和十三年には助役になり村政推進の中核として活躍中、
昭和十六年太平洋戦争に応召され満州(綏陽)及び南方(マレー・スマトラ方面)の戦線で皇軍の一員として活躍すること六ケ年。
とくに南方の戦線においては隊長が職権をかさに看護婦を辱かしめようとしているのを見るにしのびず、一兵卒である氏は軍律厳しい当時としては全く無謀と言うべき、上官に告訴し看護婦を守つたというエピソードは、道義一筋を貫いた氏の信念として高く評価されている。
昭和二十二年復員、
昭和二十六年菅原村長に当選。
昭和三十年の町村合併に伴ない初代白州町長として引き続き就任し、町行政の要として十六年間
敏腕を振われた。それは「町の財産は人作りである」との信条から教育の面に力を注ぎ、施設及び人的問題を含めて統合巾学校の必要性を説き、資金賓材の苦難に対応したがら昭和二十九年には県下に誇る白州中学校々舎を建築した。
さらに地域発展のためにと町村合併を決意し、幾多の難間題をのり越えて今日の白州町の基盤を整えた。
また昭和三十四年台風襲来による末曽有の大災害の復旧事業には心血を注いでこれに当った。
この間、県町村会長・全国町村会常任理事・県農業構造改善審議会長・県農協合併促進審議会長・県農林統計協会長・秒防協会長・河川協会長・日本赤十字山梨支部支部長・国立公園協会県副支部長をはじめ各種委員など数多くの公職を通して県政に参画した。
よって昭和三十七年には県政功績者として知事表彰を受けた。
町長退任後も県公安委員長.内水面漁場管理委員長として活躍した。
一方昭和二十二年菅原山岳会を設立して以来会長に推されて現在に至り、県山岳連盟会長・日本山岳会理事として南アルプスの開発に多くの貢献をなした。
昭和六十年勲五等瑞宝章に叙せられたことは氏の功績を物語っている。
この陰には、よ称子夫人(元白州町婦人会長)内助の功のあつたことを附記する。
著書『南十字星の下に』新聞春秋杜発行がある。
イメージ 1
イメージ 2
 
イメージ 3