北杜市偉人伝 今井喜七氏&名取高三郎氏

北杜市偉人伝
今井喜七氏(小淵沢町篠尾村)&名取高三郎氏(白州町上教来石)
名取高三郎氏(「白州町誌」昭和61年)
北海道で大活躍(名取高三郎商店)、郷土への貢献も大 
安政五年(一八五八)十月二日、旧鳳来村字山口名取員保・まるの長男として生まれた。
少年時代より学を好み六歳より山口番所二宮為信氏の手習い弟子として十二歳まで教を受ける。
明治八年(一八七五)、十八歳の時叔父今井喜七外五名と開発中の北海道へ金物農具等の行商に行く。
明治十年(一八七七)小樽に金物店を開業、二十年ころから小樽港改良工事等にて拓殖移民が続々入道して景気上昇し、家業も大いに繁昌した。
明治二十三年(一八九〇)、店を番頭に任せ、郷里山口に帰省、釜無川堤防工事の村受人を知事より任命される。
明治二十四年(一八九一)上教来石区長、鳳来村々会議員に選出され就任する。
明治二十七年(一八九四)再度渡道し独立店㊤を商標と定め車業の拡大に努力し金物類のほか砂金等を東京安田銀行と契約して売捌く。
その為、事業益々発展し巨万の富を集め全道届指の財閥となる。
明治三十五年(一九〇二)小樽商業会議所議員に当選。
また小榑区(市会)議員二級より立候し当選。地域発展向上に尽力信望誠に篤かつた。
大正二年(一九一三)小樽集鱗会祉取締役・北海道銀行監査役・北漉道製油会杜取締役等を歴任し、
昭和三年(一九二八)小樽市功労者として功労章を受けた。
郷里の人々の信頼も篤く、常に遠くにあっても愛郷の念深く、昭和三年旧鳳来小学校増築に際しては金壱万円の巨額の寄付をされた。
ほかにも児童の教材購入のため止数回多額の寄付をされた。
昭和四年(一九二九)紺綬褒章の栄を受ける。
昭和二十四年(一九四九)二月、九十二歳で硬せられた。
 
今井喜七(『逸見平の郷土史 其の一』)
大泉村 小池信繁氏著 昭和26年刊 一部加筆
今井濱七は天保十年(一八三九)篠尾村上笹尾に生誕したのである。幼にして穎悟(エイゴ、賢いこと)今井家塾に於いて学び神童と称せられた。成長するに及び専農の発展性なきを看破し、商業家とならん事を志した。最初に目を付けたのが秩父銘仙(平織り絹織物)であつた。僅かの資金を以つて産地に至り、之を仕入れて帰途に行商をなし、その商業界の成行きを常に観察していた。この行商時代には甲府に於いて若尾逸平等とも屢(しばしば)会見して商業界の前途に就き、大に論断した程交遊が深かったと云はれている。また緑酒紅燈の街(歓楽街)にも出入し、攀柳折花(花柳界)の快を叫びし事もあったのである。その後方向を転じ、諏訪町に於いて生産する鋸の有望である事を探知し、之を仕入れて越後方面に行商に出で相当な利益を得たのである。その当時北海道を開発するために、開拓使が設直せられ、小樽を中心に札幌に於いて官舎や、移民の住宅が盛ん建築せられ、開拓使の使う経費のみでも一千万円で北海道のインフレ時代であった。それがために大工道具や建築に用いる鉄材が非常な勢いで取売せらるゝ事を、旅舎に於いて聞知したのである。
 機を見るに敏なる喜七は直に北海道視察を決意し、手持の資金全部を投じて大工道具を仕入れて、新潟港より乗船して、小樽港に上陸したのが三十四才の時であつた。数日間市内を視察する内、甲州駒飼出身の侠客である有賀仁右エ門の居住する事を聞き、直に訪問して市内の商況を備(つぶさ)に聞く事を得たのである。
 斯くして新潟に於いて聞知した以上に鋼鉄商の将来有望なる事を確かめ、小樽港の繁華街である山ノ上町に店舗を物色して開業したのが明治六年(一八七三)であった。営業は想像以上に発展し、数年ならして小樽一の鋼鉄商となったのである。
 斯く進展するに連れて有力な店員を養成するのに迫られ、明治十二年(一八七九)郷土鳳来村(白州町)出身の名取高三郎と、篠尾村(小淵沢町)出身の中山藤太郎を店員とすべく呼寄せたのである。
 この両人も亦喜七に劣らざる商才に秀で、各その手腕を振って発展に努力したので数年ならずして、押しも押されませぬ優良の店員となった。        
 斯くて巨万の富を造り、商店の基礎は確定不動のものとなったのである。
 郷里に妻子を残してある喜七は、一旦郷里に帰るべく決意し、名取を店主代理とし、中山を支紀人として商店経営の一切の権利を与へ、明治十三年、目出度く郷里に帰ったのである。
 その後喜七は毎年一二回渡道し、経営の大綱を指導するのみで、二三ケ月間滞在して郷室に帰るのが通例であった。
 斯くて喜七は郷里に放て、大藤神社の社司となり、また廣野神社の社掌をも兼務して、崇高なる職務に後事すると共に、和歌俳論の道も郷里の同好者に鼓舞したので、青少年間に珍重せらるゝ様になった。
 喜七が大滝神社に奉納し、社側の石榊に刻せられている和歌は左の通りである。
   神がきや この瀧津瀬に この清水
また七十五歳の時詠める歌は
   朝夕に神のちかいを仰ぎつゝ
        ふして恵みの露にぬればや
 
大正三年(一九一四)、大滝神社境外地約三町歩を一万円で買い入れた。その資金の半額を喜七が負担した美事がある。
 喜七翁の餘沢
 前に述べた店員名取高三郎は独立開業してより、健か二十餘年間に巨万の冨を積み、昭和五年(一九三〇)には多額納税者となり、市会議員にも再三選出せられた。
 その他の店員も、北海道各地に店舗を設けたから全道至るところ、金物商店と云えば必ず山梨県人であると云はれている。
 また喜七の二男孝は、大正六年(一九一七)独立して店舗を開き、麻製品の輸出を営み、次第に発展して、昭和十九年(一九四四)には、資本金八百万円の今井産業株式会社を組織した。その株は殆んど同族の者が所有している。
 麻袋製造工場は職工五十餘人を使役し、その工場の収入のみにも六百萬円と云われている。