北杜市偉人伝 中山正俊 白州町横手出身 『北巨摩郡誌』一部加筆

北杜市偉人伝 中山正俊 白州町横手出身 『北巨摩郡誌』一部加筆
 本県明治の漢学教育家として第一位に置くべきは駒峯中山正俊である。氏は安政三年(一八五七)駒城村横手に生る。天資頴悟夙に甲府徽典館に学び、明治六年(一八七三)笈を負い東都に遊学する。初め山形県儒者司馬謄に就き漠学を修め、後仙台藩の碩儒岡千仭(鹿門)に師事し切磋数年、逐に同塾の塾舎長になり諸生監督の任に当たった。当時塾生中千家尊福の弟尊紀は盟友の重なるもので、文学博士市村鑚次郎、同服部宇之吉等は実に同門の学弟であった。常時師友の推拳で好地位に脾用せんヾ与るものがあつたか、名利に無頓着で孝順の志し深き氏は、郷里の父母を省み、且つ郷黨の子弟教育に盡さんとして、明治十二年六月(一八七九)帰郷し家塾を開いた、これ氏が県に拘志を暢ふる初めである。以来鞠躬如として生徒を教育したから、入門するもの日々に増加し速く長野方向より来て教えを請ふものがあった。
 明治十七年(一八八四)甲府微典館助教授を拝命し、次で山梨解師範学校教諭となり、明治二十五年(一八九二)より甲府中学校教諭に転じ、以来二十有三年同校に勤務奉職した。明治四十三年(一九一〇)二月十日、多年中学数育に盡瘁(ジンスイ 努力を惜しまず、職務を尽くす)して功績顕著なる所以を以て文部省より表彰せられ、明治四十四年(一九一一)十二月二日には帝国教育曾より教育功牌を贈られた。氏は孔孟の学に造詣が深いばかりでなく、道徳の実践家で、其の講ずる所即ち身に行う人であった。されば徹典館及中学校奉職時代父母の在す間は、土曜日の午後より駒城村まで八里の道を徒歩で帰郷し、父母を省み慰安を輿へ日曜の夕刻より帰府する事を常とした。その人となりは温良恭倹オンリョウキョウケン: 温和でやさしくおだやかに、人をうやまってつつましく接すること。)であるが又一面卓磊にして邊幅な飾らず、譜生を見ること實に我が子の如く、其の徳に悦服せぬものはなかった。故に成人の後氏の門に出入して昔を語るものが多く、其の情誼掬すべくして普通の中等学校教員とは異なっていた。居常読書と詩文を作ることを楽しみ殆んど巻を措かず、諸生の門を叩くものあれば慇懃之れを迎えて文を講じ詩を詠じた、詩文の遺稿は實に山を為している。又県下の碑文は氏の選文になったものが多い。大正三年八月、職を辞し閑地に身な置くこと三年、大正六年八月俄然病に確り六十二歳を一期として長逝した。子無く弟循夫が家督を相続した。
 
文中登場人物
千家尊福(せんげ たかとみ)Wikipedia(一部加筆)
弘化286日(184597日)-大正7年(1918年)13日)は、日本の宗教家、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。
出雲大社宮司神道大社教管長(初代)、元老院議官、貴族院議員、埼玉県知事(第4代)、静岡県知事(第4代)、東京府知事(第17代)、司法大臣(第14代)、東京鉄道株式会社社長などを歴任した。

☆市村鑚次郎(いちむら さんじろう)市村さん次郎 Wikipedia(一部加筆)

元治元年89日(186499日)- 昭和22年(1947年)223日)
日本の歴史学者國學院大學学長、東京帝国大学名誉教授。専門は東洋史。字は圭卿。号は器堂・筑波山人・月波散人。
常陸国筑波郡北条町(現茨城県つくば市北条)出身。1878年に上京し、明治法律学校を経て、1887年に帝国大学古典漢書科卒業。1888年に学習院傭教師、1890年に同助教授、1892年に同教授となり、1898年からは東京帝国大学文科大学助教授(学習院は兼任に転ずる)、1905年に教授に昇進、白鳥庫吉とともに東京帝国大学における東洋史学の基礎を固めた。なお、学習院傭教師時代の1889年には、森鴎外らとともに同人組織の新声社を結成し、8月に日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた共訳の詩集『於母影』(雑誌『国民之友』夏期付録)を刊行した。
1924年に東京帝国大学を定年退職、翌1925年名誉教授となった後、國學院大學教授。1926年から大東文化学院教授・1928年から立教大学教授を兼ね、1933年から1935年まで國學院大學学長をつとめた。わずか1年余りでの学長辞任は、自身の言によれば学究生活への愛着が絶ちがたく旧道に立ち帰りたいためであったという。1944年、國學院大學教授を退職。東洋史研究の分野を開拓し、1907年には文学博士の学位を授与され、明治天皇の皇女である允子内親王や聡子内親王にも漢学を講義し、1925年には帝国学士院会員となっている。また、国文や西洋文学を題材とした漢詩を作詩したり、漢詩の翻訳を行うなど、維新後に洋学に押されていた漢学の立て直しにも尽力した。
☆岡鹿門(おか ろくもん) Wikipedia(一部加筆)
天保4112日(18331212日)-大正3年(1914年)218日)
幕末期の仙台藩士、明治時代の漢学者。名は千仭、字は振衣、初名は敬助、鹿門は号。幕末から明治を代表する漢学者の一人で、多くの門人を数える。
仙台藩の番士として将来を嘱望され、江戸に出て昌平黌に学び、のち舎長となる。同窓の重野成齋、松本奎堂、松林飯山、南摩羽峰と深く交わり、大坂で私塾「雙松岡塾」を開いて尊王攘夷論を唱えた。清川八郎、本間精一などを教育した。慶応2年(1866年)に藩校・養賢堂指南役。
戊辰戦争に際して、奥羽越列藩同盟に反対したことから仙台藩主及び藩士の怒りを買い、投獄された。維新後は太政官修史局、東京府等に務めたがほどなく辞任し、芝愛宕下の旧仙台藩邸を利用して私塾「綏猷堂」を開いて門弟の教育活動に当たり、福本日南、尾崎紅葉片山潜、国分青崖など多くの偉人が門を叩き、福沢諭吉の薦めで啓蒙活動を開始し始めた。晩年には、大陸経論の志を抱き始め、李鴻章を尋ねて支那改革論を説き、大陸浪人として活躍。初期の興亜会にも関与した。没年に従五位に叙された。
服部 宇之吉(はっとり うのきち、慶応3430日(186762日) - 昭和14年(1939年)711日)は、中国哲学者。東京大学卒。東京帝国大学教授、ハーバード大学教授、東方文化学院院長などを歴任。帝国学士院会員。福島県出身。
 
★参考資料 中山正俊氏 山梨の高等教育に献身(「白州町誌」昭和61年他)
号は駒峰(または環山楼ともいう。)
安政二年(一八五五)九月二十五日、旧駒城村字横手の旧家中山福俊・いせの長男として生まれる。
少年時代より学を志し岡千仭の塾生として学び、その後塾長になり帰省して居を甲府市横近習町(中央二丁目) 、郷里の徽典館(梨大の前身)で子弟に漢文・倫理の教育をする傍ら、藤原多魔樹や竹田忠に教えを受けた。
その後上京して岡鹿門について漢学を学び、孔子論語を懐から離さなかったほど常に精進努力の人であった。
明治十六年、二十八歳のとき山梨県尋常師範学校助教諭、
明治三十一年には尋常中学校(現二高の前身)教諭に任ぜられ、三十年間の永きにわたって山梨の高等教育に献身した功績は大きく帝国教育会より表彰を受け、偉大な足跡を残して大正三年九月教員生活を終えた。
氏は温厚で、ことば少なく君子の風格を具えていた。特に漢詩文に長じ、各所の碑文を撰している。
現在甲府市富士川小学校庭にある「権太翁遺徳碑」の撰文を始め県内に数多く遺っている。
また「正俊会」は氏の徳をたたえるために多くの門弟が集って設立した会である。
大正六年八月二十六日病のため六十二歳で死去、甲府市の信立寺に葬られているが、横手馬場原の共葬墓地にも分骨されている。
著書『山県大式』(明治三十一年柳正堂発行)がある。
 
正俊の妻、中山貞(てい)
なお、正俊の妻、中山貞(てい)は梨本宮家の女官長をつとめ、朝鮮李王殿下の妃となられた方子殿下のご結婚の取り運びに尽くされ、後には東京九段にある東京家政学院の経営にあたられた。