山口素堂 白州町誌

山口素堂 
 参考資料 『白州町誌』一部加筆
   編集 白州ふるさと文庫 山口素堂資料室
  序にかえて
 この資料の中で「濁川改悛工事」や江戸俳壇における素堂の位置を誤って記載している箇所も見えるが、別記としてここでは触れないことにする。
  山口素堂
 寛永十九年五月五日、当町宇山口の郷士山口市右衛門の長子として生れた。名は信章、字は子晋、通称官兵衛、素堂と号した。後、一家は甲府魚町に移り酒造業を営んで巨富を得た。翁は二十歳ころ家業を弟に譲り大志を抱いて修学のため江戸に出て、幕府の儒官林春斎林羅山の三男)に入門して朱子学を修めた。壮年のころ(延宝二年)京都に上り北村季吟俳諧俳詣を学んだが、江戸下向中の西山宗困から芭蕉と共に、談林俳諧を学ぶに及んで、漢学に造詣のある翁が漢詩文調の新風の先達となり、やがて展開する蕉風(芭蕉俳諧に寄与したことは多大である。
 特に延宝七年仕官を辞し上野不忍池畔に隠居したことは芭蕉芭蕉庵入り (延宝八年 一六八〇)の動機となっている。また数学にも秀でていた翁は、甲府代官触頭桜井政能の懇望により、元禄九年(一六九六)濁川三千二百三十間の治水工事を指揮した。これは父母の国を思う親切な精神の発露で、土民は
感激し庄塚に生祠を建てて祭った。
 広く風雅を楽しみながら菖飾で隠居していた翁は享保元年八月十五日、七十五歳で没し谷中感応寺に葬られた。法名広山院秋厳素堂居士。翁を祖とする俳系は葛飾派と呼ばれ幕末まで栄えた。
 翁の句碑は、昭和四十六年十一月、白州町中央公民館を建設するに当り、白州町が町役場地内と、素堂の生家近くに建てた。
 素堂の生家近くに建てた碑文
Ø  碑の表
   山口素堂誕生の地
   目には青葉 山ほとゝきす はつ松魚 素堂
Ø  碑の裏
   寛永十九年五月五日上教来石村山口で生れる
享保元年八月十五日江戸葛飾阿武の草庵で没す七十五歳 
          昭和四十六年十一月吉日建之 白州町
 碑の除幕式は十一月二十日、中央公民館落成式とともに行われ、そのあと山梨大学教授清水茂夫氏の「俳人山口素堂翁について」の講演があった。
 
 山口素堂の俳諧年譜
 寛文七年   加友編「伊勢踊」 に五句入集
 延宝二年   三十三歳、十一月上洛し同二十三日、北村季吟以下の歓迎百
        韻に出る。信章付句十一(甘会集)
 延宝三年五月 江戸下向中の西山宗困を迎え芭蕉らと古韻興行
 延宝四年春  芭蕉との百韻興行(江戸両吟集)
 延宝五年   風虎の「六百番発句会」に二十句入集
 延宝六年   前年冬からこの春にかけて、芭蕉、伊藤信徳とともに三吟三
韻興行(江戸三吟)
またこの年高野幽山主催の「江戸八百韻」に加わっている。そ
の句は西鶴縮「新付合物種集」に付句五首、言水撰「江戸新道」
に発句六首、不卜撰「江戸広小路」に発句七首、雪柴撰「鱗形」
に発句が入集している。「目には青葉山はとゝぎす初鰹」の句
は「江戸新道」の中に載っている。
 
このころから季吟、宗困、芭蕉、幽山と交わり本格的俳人活動をしている。
 
延宝七年   六年夏のころ江戸を出て長崎に向い、肥前唐津にて新春を迎
う。暮春のころ江戸に帰り任を辞して不忍池畔に隠退。
「玉手箱」、「富士石」、「江戸蛇之雛」に入集。
 延宝八年   始めて素堂と号す。幽山編「誹枕」に序文を書く。
五月十六日灘波本覚寺において興行した「大矢数」に付句を
載せる。
 延宝九年   四十歳、「東日記」に入集
 天和二年   麋塒主催の月見の宴あり、素堂、芭蕉、信徳ら出座し、素
堂に「月見の記」あり。
 天和三年   九月、昨冬焼失せし芭蕉庵再興のため勧化文を草す。
其角編「虚栗」に入集。
 貞享二年   六月二日、小石川において芭蕉らと古代の俳諧興行
 
葛飾に移居せるはこの年の夏以後であろう。
 貞享三年   三月、芭蕉庵における「蛙合」の判者に加わる。
 貞享四年   春上洛か、秋「蓑虫記」の文章をつづる。
其角編「続虚粟」に序文を書く。
その冬「続の原」の発句会に芭蕉、調和、湖春とともに四季
句合の判者に選ばれる。
 貞享五年   九月十日、芭蕉の帰庵を迎え、芭蕉庵十三夜の会を催す。
 元禄二年   三月、芭蕉の奥羽行脚を送る(松島の詩)。
九月十三日園中に月賞して十三唱「廣野」に入集
 元禄三年   嵐雪の「其袋」の編集を助ける。
秋、酒折官奉納漢和連句表に八句の序をおくる。
 元禄四年   五十歳、鋤立編「俳諧六歌仙」の序を書く。「勧進帳」「雑談
集」「元禄百人一句」「色杉原」「餞別五百韻」「西の雲」入集。
 元禄五年   母の喜寿を賀し芭蕉以下六人を招いて宴を設ける。
秋「稿本芭蕉庵三日月日記」の序を書く。
十二月芭蕉、嵐蘭らを招いて年忘れの会を催す。
沾徳編「一字幽蘭集」の序を苦く。
 元禄六年   十月九日、残菊の宴を開く、芭蕉、其角以下参加する。
 元禄七年   五月、不角編「芦分船」。姑徳編「一字幽蘭集」に序文を書く。
十月十二日芭蕉没、同二十三日興行の芭蕉追善歌仙に参加(枯
尾花)「炭焼」「句兄弟」「名明集」「芳里袋」「枯尾花」に入集。
 元禄八年   八月十一日、甲斐に赴き九月八目帰庵。甲山紀行を書く。
        (亡母の遺志を継ぎ身延山参詣)
「花かつみ」「墨吉物語」「笈日記」を書く。
 元禄九年   五十五歳、甲斐において濁川の治水に努む。
三月二十八日起工、五月十六日竣工。村人禰を蓬沢に建て山
口霊神と称す。
 元禄十年   桃隣編「陸奥衛」の序。其角編「俳譜錦繍段」の序を書く。
「韻塞」「未若菜」「柱暦」等に入集。
 元禄十一年  夏から秋にかけて上京し芭蕉の墓に詣る。「続有機海」
        「続猿蓑」「泊船集」「寄生」に入集。
 元禄十三年  芭蕉庵で翁の七回忌を行う(追悼吟七草)。
 元禄十四年  二月上京、島田の宿で「宗長庵記」を書く。
義仲寺芭蕉塚に参詣、四月大津でたまたま嵐雪と会す。
 正徳三年   師走火災に遭う。
 享保元年   七十五歳、八月十五日葛飾で没した。
上野谷中感応寺中瑞音院に葬る。法名広山院秋巌素堂居士。
 
その後、享保二年雁山編素堂追善集「通天橋」。享保六年門人子光の「素堂家集」。明治二年黒露編素堂五十忌集「摩詞十五夜」などが編集されている。
明治六年「鬼貫句選」の序で蕉村は「其角、嵐雪、素堂、去来、鬼貫の風韻を知らざる者は共に俳諸を語るべからず」と述べている。
 谷中感応寺の墓は現存しないが位牌は上野谷中の天王寺にある。小石川の厳浄院に山口黒露の建てた碑があり、甲府の尊体寺に山口家代々の墓がある。
 
 山口素堂の俳諧(抄)
かへすこそ名残おしさは山々田      (伊勢踊、寛文七年)
・延宝二年北村季吟の歓迎百韻(廿会集) の発句、脇句より
    いや見せじ富士を見た目にひへの雪 季吟
    世上は霜枯こや都草        信章
・延宝三年五月、西山宗困を迎え芭蕉とともに二百韻興業(江戸両吟集)
    梅の風俳諸国に盛んなり      信章(素堂)
     こちとうづれもこの時の春    桃青(芭蕉
目には青葉山ほとゝきす初松魚    (江戸新道、延宝六年)
・延宝六年夏から長崎に赴く。           
    入船やいなさそよぎて秋の風     (誹枕)
・延宝七年、上野不忍池畔に移居す(三十八歳)
塔高し栴の秋の嵐より        (とくとくの句合)
鮭の時宿は両夜のとうふ哉      (武蔵曲)
蓮の実有り功経て古き包もあり    (向之岡)
宿の春何もなきこそ何もあれ     (江戸弁慶、延宝八年)
・西国下りのころ周防長門の堤に大木の柳ありけるを。
胴をかくし牛の尾戦ぐ柳哉      (とくとくの句合)
    春もはや山吹白く千重苦し      (続虚集)
芭蕉いづれ根笹に霜の花盛      (続虚集)
年の一夜王子の狐見にゆかん     (統虚集)
    池はしらず亀甲や汐を干す心     (武蔵曲、天和二年)
    市に入てしばし心を師走哉      (歳旦帖、貞享三年)
    雨の蛙声高になるも哀也       (蛙合、貞享三年)
    もろこしのよしのの奥の頭巾哉    (続虚栗、貞享四年)
    我をつれて我影帰る月夜かな     (廣野、元禄二年)
    旅の旅つゐに宗祇の時雨哉      (枯尾花、元禄七年)