柳沢吉保の信仰(「武川村誌」一部加筆)

柳沢吉保の信仰(「武川村誌」一部加筆)
 
延宝五年、嫡母青木氏を喪った吉保は、人生、生死ということを深刻に考えるに至った。そこで、江戸小日向の臨済宗妙心寺派竜興寺の住持、竺道祖梵に参禅したのである。竺道は、妙心寺二百三十七世の名僧で、竜興寺は吉保の妻定子の生家曽雌家の菩提所であったから、機縁が契ったのであろう。竺道は吉保に授くるに「雲門須弥山」の公案を以てした。「僧、雲門ニ間フ、不起一念、還ツテ過アリヤ也無シヤ。門云ク、須弥山」というもので、以来吉保は参禅弁道、工夫を用うること十余年に及んだが、悟得することができなかった。繁雑な公務の中にあって間断なく工夫を用うる真面目な吉保の人柄は、軽佻浮華と評され勝ちの元禄時代文化人の印象とは、似てもつかぬものである。
元禄五年(一六九二)四月、吉保は、はじめて黄檗山万福寺の第五世、高泉性潡和尚に参禅した。こうして、吉保は機会さえ得られれば名僧の門を叩く求道者となっていたのである。
越えて元禄七年(一六九四)、吉保は一書を江戸の東北寺住持、洞天恵水(妙心寺二三八世)に送り、須弥山の公案について多年工夫した上での彼の所見を述べた。
    僧問雲門、不起一念、還有過也無、門云、須弥山。
工夫スルニ、不起一念ト間ウ意ハ則チ須弥山、
須弥山ト答ウル意ハ則チ是レ不起一念、
問ヒ答フルトコロ、譬バ鐘ヲ打テ響クガ如シ。
鐘ニ響アルコトハ打ザル前ヨリ備ハレリ。
然レバ不生不減ニシテ、言ヲ出ス前ヨリ不起一念ノ問アリ。
須弥山ト言ウニ出ス。前ヨリ須弥山ノ答アリ。
問ヒ答フル心ヨリ思慮ニ移ル時ハ是レ凡心、
然レバ即心是祖意、ココニ於テ疑ナキコト文字言語ニ及ブベカラズ 
 
と。この時吉保三十七歳、さきに竺道より公案を授かって以来、ここに至る十八年である。
洞天は、吉保の見解に対し答話を送り、
 
平常一箇ノ須弥山、双肩ニ担フコトニ十年、
一且機ニ当ツテ猛省シ、直チニ雲門大師ト相見エ、
胸襟洒々、快活々々、起居動静、善悪邪正、
公私匇忙ノ上、都テ須弥山ノ当体、更ニ二無ク別無シ。
 
と、称讃してこれを許可し、衣鉢を授けたのであった。一公案に工夫二〇年、世人は、このような吉保の人間性の一面を見落してはいないか。
吉保は「多年にわたる禅の工夫ならびに竺道・洞天・高泉ら多くの禅僧との往復書簡、法語等を編んで三三巻の書冊とし、宝永二年(一七〇五)霊元上皇の叡覧を仰ぎ、勅題をお願いした。上皇は嘉納されて題を『護法常応録』と賜わり、その上、勅序を賜わった。
上皇は、まず次のように仰せられている。
 
 朕聞ク、河ヲ過ルニハ須ラク筏ヲ用ユベク、
 道ヲ学ブニハ須ラク志ヲ立ツべシ、ト。
ココニ甲府少将源吉保ハ、武門ノ柱礎、法界ノ船橋
多年志ヲ禅門ニ篤クシ、
立ツ処眼ヲ須弥ニ掛ク、アル時ハ字字相投ジ、アル時ハ面面相呈シ、
コレヲ善知識ノ毒気ニ触レ、当機猛省ノ証明ヲ蒙ル 
 
と、吉保の求道の態度を賞讃、激励し給うた。さらに上皇は、勅序の末尾において、
 
其ノ大要ヲ概見スルニ、内ニハ国家ヲ護リ、外ニハ法門ヲ護リ、
永ク子孫ニ伝へ、広ク無窮ニ施シ、
繙閲スル者ヲシテ霊山ノ付嘱ヲ忘レザラシム。
則チ豈ニ小補ナラソヤ。故ニ序ス。
  宝永二年十一月 日
 
と仰せられた。上皇は、よく吉保の意中を付度し、この書の庶幾するところが、永く国家と法門を護るにあると結び給うたのである。