柳沢美濃守吉保 生まれる(「武川村誌」一部加筆)

柳沢美濃守吉保(「武川村誌」一部加筆)
 
出生
柳沢家は、信俊以来、徳川家の信任を受け、信俊の次男安忠が父信俊に劣らない才能をもって徳川綱吉に重用され、家運の端緒を開いた。しかし当時の俸禄は、采地一六〇石、廩米三七〇俵で、決して高禄ではない。
安忠の家督をついだ吉保は、安忠の側室佐瀬氏の所生である。万治元年(一六五八)十二月十八日に生まれた。安忠の正室は青木信生の息女で、安忠とはいとこの間柄であった。しかし、夫人青木氏は男児が恵まれなかった。
たまたま安忠の采地、上総国市袋村の浪土佐瀬氏の娘津那子が、領主柳沢氏の屋敷に行儀見習いのため奉公にあがったが、津那子は才色兼備、且つ温順であったので夫人青木氏に愛され、侍女として仕えるようになった。
実子に男のない安忠は、やむなく津那子を側室とし、その腹に吉保を儲けたものと思われるが、また夫人青木氏の立場を考えると、憚りもあり、旗本柳沢家を継ぐに足る壮健な男児を得た上は、津那子を側室として置くべきではないと考えたのであろう。津那子の産後の肥立ちが回復したと見た安忠は、これにいとまをとらせ、佐瀬家に帰らせたのである。
このようなわけで、吉保は生まれるとすぐに安忠室青木氏の嫡子として育てられて成人し、嫡母の没する延宝五年(時に吉保二十歳)まで、実母の存在を知らされなかったのである。
佐瀬家へ帰った津那子は、間もなく再婚して一子隼人を生んだが、夫に死別して大沼氏に嫁し、大蔵・玄章の二子を生んだ。これらの三人、いずれも吉保の異父弟である。隼人・大蔵は柳沢姓を許されて一族に列し、享保四年の御家中御役人付によれば、「御城代、高一千石、柳沢隼人」とある。玄章は臨済宗妙心寺派の僧で虎峰(琥芳)と号し、吉保開基の武蔵国入間郡三富山多福寺の二世となった。宏量の吉保は異父弟を愛してそれぞれ所を得させ、柳沢藩の強力な藩屏としたのである。
吉保の生母津那子は、青木氏の没後、二〇年ぶりに吉保と母、子の名のりをしたのであるが、当時まだ大沼家の人であった。それから三年後、津那子は夫の大沼氏と死別したので、吉保は父安忠と相談して生母を柳沢家に迎えとることにしたのであった。時に天和元年(一六八一)である。こうして吉保は、時に八十一歳ながら壮健で、露休と号していた父安忠、母佐瀬津那子(法名了本院)とに対し、存分に孝養を尽し、孝悌の道を全うした。