柳沢刑部左衛門尉安忠(「武川村誌」一部加筆)柳沢吉保の父

柳沢刑部左衛門尉安忠(「武川村誌」一部加筆)
 
安忠は兵部丞信俊の次男で、慶長七年、父の采地武蔵国鉢彩領今市村で生まれた。初名を長蔵といい、元服して十右衛門尉信時、さらに刑部左衛門尉安吉と改めた。刑部の名は祖先新羅三郎義光の官刑部丞にゆかりがある。
『台徳院実紀』は、徳川二代将軍秀忠(法誰台徳院)の治世下の編年体実録であるが、その慶長十九年十一月三十日の条下に、「此日柳沢兵部丞信俊死してその子孫左衛門信文つぎ、信文が蔭料は弟十右衛門信時へ下さる。」とある。
この記事から、柳沢兵部丞信俊の幕臣として評価の高かったこと、また当時は安吉を信文と呼び、安忠を信時と呼んでいたことがわかる。安吉一安忠と改名する以前であった。
信俊が死に、その嫡男安吉(当時の信文)が亡父の家督をついだ時、さきに安吉が自身の功によって与えられた知行、すなわち蔭料一六〇石は、十三歳の弟安忠に賜わった。安忠は一家を創立して二代将軍秀忠に仕えた。
安忠は早熟で、十三歳の少年にもかかわらず、壮丁の働きをりっぱに果してのけた。というのは、父の没したのは大坂冬の陣の最中であった。
やがて元和元年四月、大坂夏の陣が起こり、武川衆にも出陣命令が発せられたが、安忠の兄安吉は不幸にも病中であったので、弟である安忠は兄安吉に代って出陣し、みごとに軍役を果し、人々をして舌を捲かしめた。
 
安忠の事績を『寛政重修諸家譜』で見よう。
 
初名信時、通称長蔵、十右衛門、刑部左衛門、致任して露休と号す。
柳沢兵部丞信俊の四男。母は武田家の臣石原四郎右衛門尉昌明が女。
慶長十九年父信俊が死んだのち、兄孫左衛門安吉その遺跡を継ぐ。
安吉がかつて知行していたところの采地百六十石な安吉に賜い、台徳院殿に仕へたてまつる。
時に二十三歳.兄安吉病に罹るにより、これに代って御陣に勤める。
この年駿河大納言忠長卿に附属せられ、こと起きた後処士となり、
寛永十六年十二月めされ上総国山辺郡のうちにおいて百六十石の采地を賜い、御広敷の番を勤め、
慶安元年九月二十五日廩米七十俵を加増され、三の丸広敷番の頭となり、
のち常憲院殿(綱吉)に附属せられ、神田の館において勘定頭を勤め、
しばしば加恩があって采地百六十石・廩米三百七十俵の禄となる。
延宝三年七月十二日致仕し、これより先、常憲院殿親筆の山人の二字、及び荷薬に輩翠の御画を賜う。
貞享四年九月十七日死す。年八十六。法名源良。市ヶ谷の月桂院に葬る。
のち安忠が院号正覚をもって山号となし、月桂寺と改める。妻は青木清左衛門信生が女。
 
とある。安忠が、十四歳の少年武者の身で兄に代り、大坂夏陣に出陣して恙なく軍役を果たし、家名を輝かしたのは賞讃に値する。
大坂の役ののち、武川衆諸士とともに駿河大納言忠長に仕えたが、忠長が兄の将軍家光に忌まれて没落すると、安忠も浪人生活に入った。
しかし、七年後の寛永十六年十二月、再び出仕を命ぜられ、上総国(千葉県中都)山武郡市袋村において采地二八〇石を与えられ、江戸城三之丸奥広敷番頭を命ぜられた。
江戸幕府も慶長八年(一六〇三)の開府から半世紀に近く、慶安元年(一六四八)を迎えた。
この年、安忠は禄七〇俵を加増され、将軍家光の四男徳松(のち綱吉、五代将軍)付きを命ぜられた。当時徳松は三歳であった。
徳松は、同四年六歳を迎えたが、四月賄料として一〇万石を与えられ、七月神田橋の館に移り、十月上野国林城一五万石に封ぜられた。
承応二年八月、八歳で元服、兄である将軍家綱の一字を与えられて綱吉と名のり、官は参議従三位右近衛権中将に叙任された。
安忠が館林侯綱吉付きにたったことが、柳沢家将来の運命を決したというも過言でない。このことが、柳沢家譜には、ただ「以将軍家之命、仕子綱吉公」と、淡々と記されている。
安忠は、やがて理財の才能を認められ、奥広敷番頭から、神田屋形の勘定頭に擢でられ、功によって廩米一〇〇俵ずつ三度の加増を受けた。
安忠が武士の表芸といわれる武道にすぐれていたことは、十四歳で兄に代って大坂夏の陣に出陣し、家名を輝かしたことでわかるが、元和以後望まれる武士の裏芸、学問経済の手腕を備えていたとは驚くべきことである。それは慶安四年に家綱の将軍宣下があり、のち徳松のために神田橋の館の造営をはじめ、一家創業の激務を勘定頭として見事に処理したことで明らかである。
前記の三度の加増も思うに神田屋形の造営の功績に対する恩賞であろう。なお、明暦三年の大火の時に神田屋形も類焼の厄に遭うが、幕府から普請料二万両を与えられ、安忠の献身的活動により再興の屋形は不日に落成した。この以後、徳松の神田の屋形を神田御殿と呼ぶことになる。由来、徳川将軍の子弟は、大名に封ぜられても自身は江戸の屋形に住んで封地に赴かないのが例である。したがって綱吉は館林藩主に封ぜられても、館林城には城代家老を置き、自身は神田御殿に住み、政務の報告を受けてこれの処理を指示する事を常としたのである。
安忠は、このような環境のなかで慶安元年(一六四八)より延宝三年(一六七五)までの二七年間、職務を守りぬいたのであった。
延宝三年七月十二日に致仕し、家督を嫡男吉保に譲って露休と号し、隠居の身となった。
貞享四年(一六八七)九月十七日、八十六歳をもって没した。法名を正覚院殿張無源良居士といい、江戸市谷の月桂院に葬られた。月桂院はのち正覚山月桂寺と改号された。
安忠が危篤と聞いた将軍綱吉が、側用人牧野成貞を見舞に遣わして望む所を尋ねさせたところ、安忠は、綱吉の裁決により改易となった越後高田の名門、松平光長名跡を立てて欲しいと請い、綱吉を感激させたという。
安忠が瞑目する十四日前の貞享四年九月三日、嫡男吉保の側室飯塚染子が吉里を生んだ。こうして安忠は心置きなくこの世を去った。