柳沢兵部丞信俊(「武川村誌」一部加筆)柳沢吉保のお祖父さん

柳沢兵部丞信俊(「武川村誌」一部加筆)
 
信俊は、武川衆の中での実力老青木尾張守信立(信親とも)の三男であるが、実兄で武川衆横手家を継いだ監物信国が、元亀元年正月駿河国花沢の城攻めに討死したため、名門横手家の絶えることを惜しんだ武田信玄の命により、横手家を嗣いで横手源七郎長俊と称した。
ところが、天正八年十月、上州膳城において柳沢靱負信兼が軍令に背いて先陣の功を立てたのを勝頼が怒り、自刃を命じたため柳沢家は断絶の危機を迎えた。勝頼も、信兼が忠功を急ぐあまり、やむなく軍令を犯した心情を憐れみ、また信俊が膳域攻略に際して立てた殊勲を賞し、柳沢信兼の名跡を与えた。こうして信俊は柳沢氏をついだのであった。信俊は智勇兼備の名将で、長篠の合戦においても大将勝頼の側近にあって防戦これ努め、勝頼の危急を救った。
 
寛政重修諸家譜』柳沢家譜に、その事績が述べられている。
 
武田信玄および勝頼に仕え、元亀元年正月実兄横手監物信国駿河国花沢城を攻める時戦死したので、信玄の命により信国が遺跡を継ぎ、横手村に住む。
元亀三年十二月、三方原合戦に、山県三郎兵衛昌景が手にあり戦功あり。
天正三年五月長篠の役にも、武田勢は敗軍となったが、しばしば返し合せ勝頼に従ひて防戦する。
天正八年十月上野国膳の城素膚攻の時、信俊も頗る戦功ありしにより、勝頼その忠賞として柳沢信兼の一跡を与える。これより柳沢村に移り住む。
天正十年勝頼没落ののち、武川の諸士と同じく東照宮の御摩下に属し忠節を励ます。
このころ北条氏直使を遣はし、武川の士を味方に招かんとする時、信俊米倉主計助忠継・折井市左衛門次昌らに力を合せ、氏直が使を討ちとりこれを献じ、また氏直に属せし小沼の小屋を攻破る。
この年甲斐国新府に渡御ある時はじめて拝謁する。
このころ北条勢逸見日野村の花水坂に屯して、しばしば武川衆を襲う。信俊山高宮内少輔信直と謀り、三吹(武川町)の台に伏兵を設けてこれを追崩し、首二級を討取り、家臣も敵一人を生捕新府の御陣に献じ、功ありし家臣に青銅三貫文を賜う。
八月十六日本領甲斐国柳沢郷において七十二貫八百文の地を賜い、十二月七日御朱印を下さる。
天正十二年小牧の役に、信濃国勝間の砦を守り、御帰陣ののち尾張国一宮城を守衛する。
天正十三年真田昌幸を御征伐として軍を信濃国上田に進軍の時、信俊妻子を証人として駿河国與国寺にたてまつり、大久保忠世が羊に属して軍功があり、
天正十四年正月武川の士と共に一紙の御書を賜う。
天正十七年より甲府城の番を勤め、この年采地を加へられ、
天正十八年小田原陣に供奉し、八月関東に入ら昔給う時、武州鉢形領の内において二百三十石の地を賜う。
天正十九年九戸一揆の時、大久保忠世が手に属して陸奥国岩手沢に赴き、文禄元年朝鮮の役に兵船を作る時、伊豆山より良材を伐出す事をうけたまはる。
慶長五年台徳院殿信濃国上田に御進発の時、大久保忠隣が手に属して供奉する。信俊かって台徳院殿より親筆の和歌一軸を賜はる。
慶長十九年十一月晦日采地において死す。年六十七。法名良心。鉢形領今市村の采地に葬り、後一寺を建立して高蔵寺と号す。妻は武田家の臣石原四郎右衛門昌明が女。
 
信俊の事績の詳細が読みとれるであろう。
信俊が武川諸士とともに祖先伝来の名田の地、柳沢村に別れをつげて武州鉢形領に移った時、知行として宛行われたのは今市郷の内、三石七斗二升であった。これは、信俊がさきに本領甲州柳沢村において安堵された七二貫八〇〇文に見合う知行高とみられるが、一貫文が約一石五斗三升四合強に当たる。これはいわゆる堪忍分で、家康が多年恩恵を施してきた甲州から、北条氏の旧領関東へ移され、財政的に苦境に立っている。当分これで堪忍せよとの意のもとに宛行われたものである。
その後、慶長九年三月に一二〇石を加増され、ここに二三一石七斗二升となった。前記の信俊の譜によれば、天正十八年のころ二三〇石を与えられたように記しているが、慶長九年三月の加増は、折井次忠以下一四人の武川衆に対し、一律に行われたものである。
 
武川衆御重恩の覚
一 百弐拾石      柳沢兵部丞信俊
一 百拾八石八斗    伊藤三右衛門尉重次
一 八拾石       曲淵勝左衛門尉正吉
一 五拾六石四斗弐升  曽根孫作
一 八拾六石      曽雌民部丞定政
一 六拾石       折井九郎三郎次吉
一 九拾石       折井長次郎次正
一 百拾石       曽雌新蔵定清
一 五拾石       有泉忠蔵政信
一 七拾五石      山高宮内少輔信直
一 八拾石       青木与兵衛尉信安
一 弐拾石       青木清左衛門尉信政
一 百石        馬場右衛門尉
一 弐百石       折井市左衛門尉次忠
    合計 千弐百拾壱石弐斗弐升
 
右の分、今度加増として右の衆へ下され候儀、御前におゐて我等ども承り候て、かくの如くこれを書き進め候。
慶長九年辰三月二日成小吉(花押)
大石見守、(花押)
折井市左衛門尉殿まゐる
(遠藤重利氏・柳沢康雄氏共著『柳沢氏の研究』より)
 
家康はこの前年、すなわち慶長八年の二月十二目に征夷大将軍に補せられ、幕府を開いたのであるが、その翌年三月に武川衆に加増の沙汰をしたのは、武川衆諸が壬午以来、至誠奉公を一貫し、家康子飼いの三河武士に劣らないほどの武勲を立てたことに対する恩賞とみてよいのではないか。
この覚書の連署奉行は、大久保石見守長安と成瀬小吉正一とで、いずれも家康の信任厚い人たちである。宛名人の折井市左衛門尉は先代市左衛門尉次昌の嫡男、次忠である。通称九郎次郎、九郎三郎次吉の同母の兄である。
  功成り名遂げた信俊は、慶長十九年十一月晦日に采地において没した。享年六十七歳。墓は信俊の開基になる今市村宝珠山高蔵寺にある。碑面に高蔵寺殿安宗良心居士とある。
信俊の妻は石原四郎右衛門尉昌明の女である。昌明は武田家の重臣であったが、壬午の年家康に仕え、民政に長じたので天正・慶長両度にわたり徳川家四奉行に列して活躍した。信俊の二児安吉・安忠は石原氏の所生である。