柳沢氏の発祥(山梨県北杜市武川町柳沢)

柳沢氏の発祥
柳沢氏は、鎌倉末期の甲斐守護一条時信の六男、青木十郎時光を祖とする家で、『寛政重修諾家譜』所収青木家譜に、時光の六世尾張守安遠の次男弥十郎信興が柳沢村に封を受け、ここに柳沢氏を称したのが起こりとされている。
同じ家譜に、信輿の兄青木尾張守義虎は永正八年に五十三歳で没したとある。逆算すると長禄三年(一四五九)の生まれとなる。したがって、その弟に当たる信興は、文明~大永年間に青木家に生まれ、柳沢家を興したことになる。
以上は、『寛政重修諸家譜』所収青木家譜の記事によったもので、じつは柳沢氏の発祥はこれよりずっとさかのぼるのである。
甲府市一蓮寺に所蔵される『一蓮寺過去帳』は、中世の甲斐における第一級の史料であって、南北朝期から江戸初期にわたっている。
この過去帳に、永享五年(一四三三)四月二十九目の死者の法名が列記されている。
阿弥陀仏  永享五年四月廿九日 柳沢
阿弥陀仏      同日    山寺
阿弥陀仏      同日    牧原
  この日、巨摩郡山梨郡の境、荒川河原において武田右馬助信長の率いる日一揆が、逸見・跡部ら反武田の諸将の率いる輸宝一揆と激戦を交え、日一揆側は惨敗して柳沢・山寺・牧原ら武川の三将をはじめ、河内・鷹野・吉田・矢作・林戸・山県などの諸将を失った。
この荒川合戦に、立呵弥陀仏柳沢氏が部将として参戦していることは、柳沢氏の発祥が青木家譜の記すところよりはるかに遠く、応永年間以前にあることを証していると考えられる。
  ここで思うに、応永年間以前に青木氏から分派した柳沢氏が、永享五年(1433)に討死したため、これが補強のため、文明~大永の間に青木家が再び柳沢氏へ信興を送りこんだのであろう。したがって、柳沢弥十郎信興は、柳沢家の始祖ではなく、中興の祖というべきであろう。
この信興が晩年になって出家し、菩提所竜華山柳沢寺に一基の六地蔵石幢を寄進した。その幢身には次のような銘が彫られている。
「明応五年丙辰三月二日願主□透謹白」
願主□透の名は磨減していて、よく読めないが、柳沢の地において、中世の地頭柳沢氏を偲ぶ便(よすが)となるのは、この石幢一基と、大門跡に立つ竜華山柳沢寺の万霊塔一基だけである。
信興が柳沢寺に六地蔵石瞳を寄進した年から七十余年を経た永禄十年八月七日、武田信玄麾下の武士たちは信州小県郡塩田下之郷諏訪明神社前において、信玄に対し六か条の起請文を捧げた。
武川衆(六河衆)は柳沢壱岐守信勝・青木兵部少輔重満・横手監物満俊・宮脇清三種友・山寺源三昌吉・青木与兵衛尉信秀・馬場小太郎信の七士が連署した。
柳沢壱岐守信勝の自署・花押・血判は、現存していて、当時を偲ばせるに十分であるが、この人の名は『柳沢系図』・『寛政重修諸家譜』のいずれにも見えていない。それは、武田家の没落前後の混乱により系図をはじめ古文書類を失い、寛永・寛政両度の諸家系図編纂の際、信勝に関する資料が提出されなかった結果とみられ、何とも残念なことであった。
 
そこで、『柳沢系図』中の人物のうち、信勝に比定し得るのは誰であるかを考えてみたい。
 
○信興(弥十郎・青木尾張守安遠二男)
貞興(弥太郎)
信景(弥三郎)天文十年武田信虎に随い駿河国に逃れる。この時信虎、信景をして万松院義晴に仕へしむ。後、近江国坂本において討死す。子孫毛利家に仕える。
信房(靱負)柳沢斎と号す。甲斐国に住む。
信兼(靱負)天正八年十月上野国膳城攻めの時先登して軍令に背いたので、勝頼が怒って自殺させた。
信久(主計)父が死んだ後駿河国清見寺にのがれ、のち穴山梅雪に属す。天正十年六月十九日大和国宇治田原において戦死す。
信俊 初め長俊 源七郎兵部丞実は青木尾張守信立が三男。母は漆戸左京亮某が女。
〔信興〕
信興の嫡男が弥太郎貞興である。貞興は武田信虎の初政から仕え、信虎のために生涯をささげた。
〔信景〕
貞興には弥三郎信景・靱負信房の二子があり、信景は天文十年六月、信虎の駿河退隠に随行、身辺を守ったが、のち信虎の名代として、将軍足利義晴に出仕した。
当時将軍家の権威は地に墜ち、義晴はやむなく近江にのがれて京都の回復を期した。天文十七年に京都を回復したが、まもなく三好長好に敗れて近江坂本に奔った。信景はこの時義晴の身辺を護り、身代りとなり討死した。
〔信房=信勝〕
信景が国を去ったので、貞輿の次男信房が家を継いだ。信房は天文から永禄末年にかけて活動した人であるが、同じ時期に信州下之郷起請文に署名した武川(六河)衆の領袖、柳沢壱岐守信勝はこの信房と同一の人物と思われる。
〔信兼〕
信房の子信兼は武田勝頼に仕えて武功があったが、天正八年上州膳城攻めの際軍法に触れて自刃し、長男信久は逃がれて穴山氏に仕え、家跡は信久の弟源七郎信俊がついだ。