白州の俳人 塚原幾秋

白州の俳人 塚原幾秋
 
 文化年間以降、下教来石の甫秋、幾秋、雲鳳、四秋の父子四代によって、この地方の俳諧の道が高揚された。幾秋は文化二年(一八〇五)下教来石一五四番戸に生れた。幾秋の父は通称彦平といい、号を甫秋と称した。幼少のころから風雅の道を志し、俳諧雲水として諸国を行脚し、見聞も広く超然として衆にぬきんでていた人である。幾秋はこのような父の影響もあって、風流の道に詳しく、各地の俳人と交わり、明治六年初代鳳来小学校長として教育にもつくした。幾秋は通称の名であり、また俳号でもあって、父の教庵を継いで号ともした。
 この時代は県内でも峡北地方は特に俳諧の浸透がおそかった。それでも山口素堂とその弟子の輩出、貞享三年四月、芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の途次、教釆石宿に立ち寄った(?)ことなどから、この地にも俳諧の道が盛んになっていった。
幾秋の宗匠としての活躍は各地にその事績が残されており、峡北の天地に燦爛たる光彩を放った。当時の宗匠仲間としては、石原常山、小野松渓、広島南里、有泉指斉、輿石守郷、山本閑湖、金井志雪、宮沢随斉などがいる。山高の幸燈官に献吟の額が納められている。「時天保重光単聞玄吉辰」とあるのがそれで、辛卯天保二年、幾秋二十六才のときに甫秋、嵩山等峡北俳人五十六名が名を連らねている。
 其の後慶応三年七月発行の「甲斐俳家人名録」にも幾秋、雲鳳の名が見える。幾秋は、「遊びよき家に遊びて夜の月」と詠じ、雲鳳は俳画の名手で鶴二羽を一筆画きにして、「馬市の場も田となり育みどり」と作句している。
  塚原雲鳳
雲鳳は天保元年七月七日に生れ、通称を甫秋といい、祖父の甫秋と混同しやすいところから号を松垣または雲鳳と称していた。
  塚原幾秋の事績
幾秋の最も顕著なる事綴としては、晩年の明治十三年、山高の実相寺境内神代桜の下に「しばらくほ花のうえなる月夜かな」の芭蕉の句碑を建てたことである。この記念事業として、翌々年、明治十五年に「大桜集」を発刊した。この句集には三枝雲岱の大桜の絵を、篁石が画いて版にしている。東京、京都、尾張三河駿河や近くは蔦木、立沢、乙事、金沢など信州諏訪郡の村々、県内各地から有名俳人が寄稿し、幾秋も
「月に明け花に暮るるや革まくら」
と詠じている。この句集の諸言に、
「私は病のため右手は全くかなわず、筆をもつことができないので、孫の甲子磨が代筆し版を録した。費用は子の雲鳳に任せ、此の編はすべて子と孫によって成る」
と記している。
 巻末は駒蜂中山正俊が撰文し、雪斎小池真清が書をしたためており、
   咲きにほう故の山高の大桜 
たちさりがたき花の木のもと   幾秋
   親とともに幾世をかけて仰ぎみん
      まれのさくらに雪の富士の嶺   雲鳳
 
と結んでいる。幾秋は、その二年後の明治十六年六月二十二日、七十九歳をもつて逝去している。
 
  塚原雲鳳
 雲鳳は幾秋亡きあと、よく教庵を継承し、明治十三年明治天皇御巡幸の折、父母に孝順の故をもって賞賜された。明治二十八年刊行の「ももよぐさ」には次の句が掲載されている。
  あら楽し千町八千町庭のまど
 明治三十一年四月二十四日、六十八歳をもつて逝去した。
  塚原四秋
幾秋の孫の甲子太郎は、元治元年十二月二十八日生れで、四秋と号している。四代の「秋」を継承したという意味であろう。俳諧と和歌をたしなみ、明治三十一年刊行の「百花園」に数歌が掲載されている。
  甲斐が嶺の雪の中より立つ雲は
       誰か炭がまの煙りなるらむ
 四秋は谷村郡役所に勤務していたが、定年退職後は上京し、家族とともに松屋に勤め、北多摩郡三鷹町牟礼に転住し、同所において昭和十六年十二月七日、七十七歳で逝去した。
    日中蝶狂い込む関屋哉      甫秋
    薮梅や寄りもつかれぬ枝配り   幾秋
    美濃の羽子近江の屋根へ外れけり 雲鳳