米倉主計助忠継

米倉主計助忠継
 
 重継の嫡男忠継は、父亡き後、主計助として甘利家に仕え、武川衆の領袖を兼ね勤めた。
 天正十年(一五八二)三月、武川衆は勝頼より特殊の任務を与えられ、その指揮に従ったが、中途で計画が変わったため、活動の棟会を得なかった。
Ø  甲斐国志』に、
天正壬午(十年)ノ時、新府ニテ勝頼謀略アリテ、面々ノ小屋へ引入アルべシトノ儀ナリ、各々其ノ意ヲ守リシカドモ其ノ謀相違セシ故、武川衆ニハ勝頼ノ供シタル人ナシ、トアリ。」
と記しているのである。
 武川衆諸士のうちでも、殊に領袖をもって見られていたのが、折井次昌・米倉忠継・山高信直らであった。
Ø  「米倉忠継譜」に、
²  天正十年(一五八二)勝頼没落ののち、織田右府(信長)より武田家の士を扶助する事を禁ず。これによりて東照宮徳川家康)、成瀬吉右衛門正一をもつて潜に命を伝へられ、折井市左衛門次昌とともに、甲斐国市川においてまみえ奉り、月俸をたまひ、仰によりて遠江桐山に潜居す。
²  六月右府事あるののち、北条氏直甲斐国をうかがふにより、東照宮甲府に御進発の聞えありしかば、折井次昌とおなじく三河路に出でて御馬を迎へ、仰せを受けて本国に帰り、武川の士をして御麾下に属せしむ。
²  七月御先手の勢を向けらるるの時、北条氏直若神子に出張し、しばしば武川の士を招くと雖もうけがはず、しかのみならず北条に属せし小沼の小屋を打破る。この旨台聴に達せしかば御感ありて、
²  十五日次昌と一紙の御書を下さる。
²  二十四日樫山に御着陣の時、次昌とともに武川の者を進退すべき旨、仰せを蒙る。
²  八月北条氏直武川の士を従へんがため、中沢縫殿右衛門某、同新兵衛某二人をして計策の状を贈る。忠継・次昌と相はかりて武川の士をして二人の便を討取らしめ、其の謀苔を奪ひて新府の御陣にたてまつる。
²  十二月七日、甲斐国円井郷にして四百三十貫文を知行すべき旨、御判物を賜ひ、歩卒をあづけらる。
²  天正十三年(一五八五)九月真田昌幸が寵れる信濃国上田城を攻らるるのとき、弟六郎右衛門信継等とともに大久保七郎右衛門忠世が手に属し、軍忠を励まし、また証人として妻子を駿河国興国寺にたてまつりしにより、
²  天正十四年(一五八六)正月十三日武川の士一紙の御書を下され、
²  天正十七年(一五八九)円井郷のうちにおいて七百石を賜ひ、この年三吹・牧原・白須三郷にして四百石を加賜せらる。
²  天正十八年(一五六〇)八月関東に入らせたまふののち、更に武蔵国鉢形において、采地七百五十石を賜ふ。慶長四年四月死す。年五十六。法名珠元。
 
とある。慶長四年(一五九九)四月に五十六歳で没したとあるから、天文十三年(一五四四)の生まれである。同二十一年に父重継が信州苅屋原城攻撃に際し、竹束戦法を工夫して同城を攻略したとき、忠継は九歳であった。
 武田家の没落に遭った天正十年には三十八歳の働き盛り、忠継とともに武川衆を指揮した折井次昌はこの時五十歳、円熟老成の武将のコンビであった。両士に率いられた武川衆武士団の強力な団結と勇敢な行動によって、巨摩郡北部での徳川家康の対北条的軍事力の優位性は、着々と確立されていった。満足した家康は、両士に宛てて次の感状を与えた。
 
   其の郡において、別して走せ廻らるるの由、祝着に候、各々相談有り、
いよいよ忠信を抽んでらるべく侯。恐々謹言
    (天正十年)七月十五日    家康 (花押)
    米倉主計助殿
    折井市左衛門尉殿 (寛永諸家系図伝
徳川家康が、武田家の遺臣とはいえ、一介の浪人の群れとも見られる武川衆の折井・米倉両士に対し、かくも丁重な感状を与えたことは、この時両士が指揮した武川衆部隊の武功が抜群のものであったことの証拠である。
 また折井・米倉両士としては、さきに主家武田氏没落の際、織田信長の苛酷な迫害から保護してくれた上、遠江桐山村に潜居させた家康の恩誼に対する報謝の行為であった。
 
Ø  『武徳編年集成』
『武徳編年集成』によれば
「七月十五日、甲陽巨摩郡ノ内、武川津金ノ族、阿部善九郎二拠テ駿府へ人質ヲ献ズ。即チ当座ノ堪忍分トシテ月俸ヲ賜ハリ、武川ノ士ノ棟梁米倉折井二感状ヲ授ケラル。」
 
と、あって、前記感状を掲げている。武川衆諸士が妻子を人質に差し出したので、家康もその忠誠に深く感じたのである。
 これより先、甲信両国が北条氏直によって占領されつつある、との情報を得た家康は、七月三日に浜松を出陣、五日は江尻泊、中道を甲州に入り、八日精進泊、九日阿難(女)坂、迦葉(柏)坂、右左口峠を強行突破してその日のうちに甲府に到着した(『家忠日記』)。家康の入峡を見、ついで感状を授けられた武川衆の士気が高まったことは言う迄もない。
 
 先に入峡した氏直としても、無為でいたわけではない。
甲斐国志』付録の収める天正十年七月十八日付け、黒沢上野介繁信(北条氏直重臣)の甲州金山衆に与えた書状に、
「一昨日ハ、各ミ御代官トシテ両三人指越サレ候、御忠節ノ至り、則チ御陣 
下へ中上候間、定メテ安房守殿御直吉ヲ以テ仰セ、越サルべク候」
とあるように、栗原筋の黒川金山衆(田辺・深沢・橋爪などの諸氏)に働きか
けているのである。
さらに同書付録所収、北条家重臣高城下野守胤辰が甲州郡内某に与えた八月十
二日付け書状に、
「当口動(テダテ)ノ様子ハ、甲州若御子卜号スル地ニ御馬ヲ立テラレ候、家康ハ本府中ニ在陣、又新府中卜申スニモ人衆二、三千陣候(中略)無ニノ御一戦ヲ遂ゲラルべキ由ニ候、敵ハ無衆、御当方ハ大軍、其ノ上信甲ノ衆悉ク御味方ニ参ラレ、逐日御威光増進シ候ノ間、御勝利ハ眼前ニ候」
というもので、去息気衝天の趣がある。
大軍を擁する北条方は、当初のうちは、寡兵の徳川方を呑んでいた。しかし、家康の打った手には無駄がなく、武川衆はもとより津金衆も、疾うに家康に協力を誓い、北条方の甘い誘いを退けたのである。
 この頃、米倉信継・同信俊らは信州佐久・諏訪両郡の問をさかんに奔走していたらしい。それは『武徳編年集成』の、天正十年八月、是の月の条下に見える次の記事である。
²  吾ガ兵、信州佐久郡岩崎二戦ヒ、北条方ヲ百五十三人討取ル (中略)。津金監物弟修理、小池筑前、米倉主計、折井市左衛門等会合、群議ヲ凝ラシ、板橋ノ嶮ヲ取り敷上道十五里、敵地ノ勝間ガ反(ソリ)ニ砦ヲ設ケ交代シテ守衛シ、佐久郡一揆ノ城砦ヲ抜クベキ旨注進ス、甲州江草ノ小屋ヲ伊賀ノ陣士夜懸シテ是レヲ落サントス、甲州先方ノ士、北条方必ズ後詰セント察シテ伏兵トナル、遂ニ伊賀ノ枠士彼ノ小屋ヲ乗取ルノ処、果シテ北条方三千許り馳セ来ル、甲州先方ノ士是レヲ撃チテ四百七十八人ヲ殺ス、伊賀ノ忰士等、殊ニ御感ヲ蒙ル
   
 と。これによれば武川衆の領袖米倉忠継・折井次昌の両士は、津金衆の領袖津金祐光弟修理亮胤久・小池筑前守の両士とともに、甲州先方衆を統率して軍議に参画したことが知られ、その軍議の結果、北条方が占拠する江草の小屋すなわち獅子吼城の周辺に、津金衆の指揮する伏兵を置き、伊賀衆の領袖服部半蔵正成配下の忰士(カセモノ いわゆる伊賀者、忍びを特技とする)らと協力して、この江草小屋を攻略した上、若神子から応援に駈けつけた北条勢を撃破して四七八人を討ち取ったので、家康はその奮戦振りを賞し、特に伊賀忰士の殊勲を褒めたたえた。伊賀衆は、この年六月の本能寺の変直後、家康が九死に一生を得た伊賀越えに協力し、守り抜いた勇士たちで、のち家康に召し出され、伊賀同心といわれた。
 同書は、この記事の次に項を改めて、
 
²  北条氏直、先日巨摩郡武川ノ諸士ヲ招クト錐モ是二応ゼズ、氏直再ビ書簡ヲ遣ハス、中沢縫殿右衛門・同新兵衛、氏直ニ随ヒ是ヲ謀ルト雖モ、武川ノ士米倉左大夫(丹後重継ノ弟ナリ)・伊藤新五郎、早速雨中沢ヲ斬ツテソノ首級ヲ氏直ノ書簡ニ添へテ神君ニ献ズ。其ノ後、逸見ノ日野村ノ台、花水坂ニテ武川ノ士、敵卜戦ヒテ、山高宮内信直・柳沢兵部信俊等、首級ヲ得テ新府ニ献ズ、其ノ忠義ヲ以テ遂ニ武川衆ニ本領ヲ賜フ。
 
 と記し、武川衆諸士の敢闘振りを讃えている。
 北条の使者両中沢を、米倉左大夫・伊藤新五郎らに命じて斬らせたのは、米倉忠継・折井次昌の領袖であるが、この英断を武川衆の忠誠に発するものと見た家康は、報いるに武川衆諸士の本領安堵をもってしたのである。
 米倉忠継は天正十年(一五八二)十二月七日に円井郷四三〇貫文を安堵された。同じく武川衆の領袖折井次昌も、同日付で折居南分ほかで一四八貫四〇〇文を宛行われた。
 天正十三年(一五八四)八月、家康が信州上田の真田昌幸を攻めるに当たり、忠継は次昌とともに武川衆を率いて出陣したが、この時武川衆はその妻子を証人として駿河興国寺城に送り、二心なきを誓った。
また天正十三年(一五八四)十一月、家康の老臣石川数正豊臣氏に奔った際、家康が家中の歴々に人質を要求すると、武川衆は率先して妻子を駿河に送ったので、家康は翌年正月十三日に、武川衆に対し次の感状を与えた。
 
²  今度、証人の事申し越し侯の処、各ミ馳走有り、差図の外、兄弟親類を駿州へ差越し、無二の段、まことに感悦し侯、殊に去る秋の真田表に於ては、万事情(精)を入れ走り廻り候旨、大久保七郎右衛門披露し候、是れ亦悦喜に候、委細両人申すべく候、恐々謹言。
   (天正十四年)正月十三日   家康 (花押)
     武川衆中
                          (『古文書集』)
 
 大久保七郎右衛門とは忠世のことで、上田城攻めに際し、武川衆所属の部隊の長であった。忠世は、武川衆の奮戦振りに深く感じ、これを家康に披露したのである。文中の両人とは、軍監の大久保忠隣・本多正信をいい、主命を挙げて武川衆に次のような懇書を与えた。
 
²  今度、証人の儀について、平七・成吉よりその断り申し越さるるの処に、御差図のほか、若衆まで要子、駿州へ引越し慌て、無ニ御奉公あるべきの由、すなわち披露におよび候の処、大形ならず御祝着に思召し候。殊に去る秋真田に於て、大久保七郎右衛門申上げられ候、毎度徴無沙汰存ぜられず候の間、御喜悦成され候、これにより各々へ御直書遣わされ候、いよいよ御奉公御油断なき体、肝要に候、恐々謹言
   (天正十四年) 正月十三日  (大久保忠隣)
           大 新十郎(大久保忠隣) 岡崎ヨリ
           本 弥八郎(本田正信)
    武川衆中御宿所
                        (『武家事紀』)
 
こうした、家康に対する武川衆の忠誠は、家康にとり大きな強味であるが、秀吉にとっては無視し得ないことであった。家康が、信長全盛の時点にあって武田遺臣を懐柔保護し、戦力としたことはその先見を示す好例で、これが家康政権実現の布石となるのである。
 天正十七年(一五八九)、忠継は円野・三吹・牧原・白須諸郷の内で一、一〇〇石を知行したが、翌年八月、小田原役の後、家康の関東入部に随い、武蔵大里郡鉢形領御正郷において堪忍分七五〇石を与えられ、甲州の本領から移り任した。
 功成り名遂げた忠継は、慶長四年(一五九九)四月二十日、五九年の生涯を終わった。法名を珠元という。
Ø  高野山引導院過去帳の忠継の牌には、
 
 珠元大居士 己亥卯月廿日 施主武州大里郡御正郷米倉六郎右衛門尉種継
        立之 慶長五年卯月廿日
 
とある。己亥は慶長四年である。実子のない忠継は、弟種継を養子とし、種継は養父忠継の一周忌に当り、引導院に立牌したのである。
 
Ø  この日、武田以来の盟友折井次昌も、
 珠元大居士 己亥卯月廿日死 施主折井市左衛門尉建之 慶長五年(一六〇〇)卯月廿日と忠継の菩提のために同院に立牌している。