米倉六郎右衛門尉種継
米倉六郎右衛門尉種継
また種継は、高野山引導院に先生武田歴代諸公の立牌をしているが、
いずれも施主米倉六郎右衛門尉種継とあって、信継の名はない。したがって本稿では種継をもって一貫する。
種継は、天文十七年(一五四九)の生まれで、少時武田信玄・勝頼二代に仕えたが、主家滅亡ののちは武川衆諸士と同様徳川氏に属して戦功を立て、家康は同年十二月、種継の本給を安堵した。
白須の内拾三貫文 宮脇の内拾貫文 二日市場の内三貫文
蔵出替浅利の内三寛賞弐百文 窪八幡の内鶴田分五貫文
三条の内拾弐貫五十文 宮沢の内三貫文
蔵田の内拾貫文 鹿野川の内五百文
田村の内六拾貫文 門井の内五貫文 同前拾俵、同所屋舗壱間
和戸夫丸壱人 白須の内夫馬壱疋等の事、
右、本給相違有るべからざるの状件の如し。
米蔵六郎右衛門尉殿
右の内、白須・宮脇・円井はいずれも武川筋の内であるが、二日市場は逸見筋、浅利は八代郡、窪八幡・蔵田・鹿野川(神内川)・和戸は山梨中郡、宮沢は西郡筋、三条は中郡筋で、米倉氏の所領がいかに広範囲に散在していたかがうかがわれ、また種継の邸宅が円井村にあったこと、和戸村で陣夫一人、白須村で駄馬一疋の徴発を許されたこともわかる。
『寛政重修諸家譜』は種継について記す。
Ø 天正十年(一五八二)忠継と同じく召されて仕へ奉り、
Ø 天正十四年(一五八六)正月十三日忠継等と一紙の御幸を賜ふ。
Ø 慶長三年(一五九八)十一月三日、男重種にこの地を分ち与ふ。のち忠継死するの時、その嗣となりて遺跡をたまひ、御使番を勤め、仰せによりて丹後守と称し、関原および大坂両度の御陣に供奉し、加恩ありてすべて千二百五十石を知行す。
Ø のち伏見・大坂において御金奉行を勤め、寛永十三年(一六三六)四月八日死す。
Ø 年八十九。法名道心。妻は牧野原氏の女。
と。種継も父祖を辱めない人物であった。采地は相模国足柄郡の内とだけで詳しくは不明。長男を助右衛門尉清継といい、元亀元年(一五七〇)に生まれた。
〈牧野原氏〉
母は牧野原氏の女であった。牧野原氏は、甲斐守護一条時信の男八郎貞家が武川牧原村に拠って興した家で、初期武川衆中での名門である。永享五年の荒川合戦に牧野原声阿が戦死して以来、家運はあまり振るわないが、隠然たる豪族には相違なかった。