 長男米倉彦次都晴継と甘利左衛門の情愛について(『甲陽軍艦』)

Ø  長男米倉彦次都晴継と甘利左衛門の情愛について『甲陽軍艦』
  甘利左衛門尉、同心頭米倉丹後守の惣領子彦次郎鉄砲にて腹をうしろへうち抜かれ、胴の中へ血入りて腹はつしてすでに死するに、芦毛馬の糞水にたて
て飲み候へば血を下すと申して与へ候所に、父丹後に劣らぬ武者ゆえ、彦次郎申すは、此手、前からうしろへうち抜かれ、助かるべきにあらず、さありて命惜しきとて、牛馬の糞まで飲みたるとあれば、武道をかせぎて骸の上の恥なりとて飲まず、甘利左衛門来りて申さるるは、さすがに武き米倉彦次郎ともおぼえぬ事を申すものかな、か程の深手にて助かり難けれ共、もし能き事もあれば又信玄公の御用に立つべきものを、心懸け無き侍は何共いへ、能き武士は命を全うし高名をきはめてとありて、馬の糞を立てたるを左衛門尉とりて二口飲み、一段味よきとほめ、左衛門尉手より彦次郎にくれらるる、彦次郎飲み候へば不思議なり、胴の血一桶ほど下り、彦次郎其の深手平癒なり。左衛門尉其の歳二十九歳なれ共父備前守に劣らぬ名誉の人かなと、彦次郎に懇ろを見聞きて諸人ほめ、甘利下の同心被官涙を流して左衛門尉になじみ候、これを信玄公聞召し、一入甘利左衝門尉御秘蔵なさるる侍大将なり。
 
と、記している。米倉父子の武勇、甘利米倉主従の情愛は、武士道の鑑というべきであろう。
 
 彦次郎晴継は、寄親甘利左衛門尉の恩情こもる計らいにより九死に一生を得、以後もすぐれた働きをしたが、永禄十二年(一五六九)四月、駿河興津の薩埵山において北条の大軍と合戦し、遂に討死したので、父重継は晴継の弟、五郎兵衛尉忠継を家督として米倉家を継がせた。
 永禄十年(一五六七)八月、甘利左衛門尉昌忠は、不幸にも急死したので、重継は甘利家陣代として昌忠の弟の郷左衛門尉信康を助け、甘利衆の指揮をと
ったが、天正三年(一五七五)五月、三州長篠の戦いにおいて、信康とともに討死を遂げた。
甘利信康の墓は長篠の西、新城市竹広に、米倉重継の墓は塩山市恵林寺米倉家墓地にある。