入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)若神子村、下黒沢村、塚川村は黒沢村、山高村、柳沢村を相手取って提訴

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)若神子村、下黒沢村、塚川村は黒沢村、山高村、柳沢村を相手取って提訴
享保七年(1722)七月、若神子村、下黒沢村、塚川村は黒沢村、山高村、柳沢村を相手取って提訴している。訴訟の内容は、今回武川筋鳳凰山に杣人が大勢入りこんで来て、薪山を残らず伐採してしまい、見張りを続けなければならなくなったので訴訟に及んだのである。この鳳凰山の入会は、黒沢村、山高村、柳沢村、若神子村(須玉町)、下黒沢村(長坂町)、塚川村(長坂町)の六か村の入会で、薪、まぐさ、刈敷を採取し、年頁も納入してきたのに、山元の黒沢村、山高村、柳沢村の者どもは、他国の杣人と組んで杣人を入山させようとした時も訴訟したが、山元の村の言い分により杣人を入山させ、若神子村、下黒沢村、塚川村の村民は迷惑をした。
前山は既に荒れ果て、奥山も現時点では薪、まぐさ、刈敷等が不足し、入会の村々は困窮Lており、営農にも事欠く事態である。入会山の件について入会六か村が相談をしない訳は、今より二〇年前(元禄十五年・1702)の山元三か村と牧原村が山論をした折、若神子村、下黒沢村、塚川村がその費用を負担したことから、山元の三か村が勝手に入会山を支配したことがなかったからである。
しかるに、今回は山元の三か村が、若神子村、下黒沢村、塚川村に無断で大勢の杣人を入山させたことは理不尽なことである。依って御詮議願いたいと言うのである。
延享二年(1745)十一月、黒沢村、山高村、柳沢村は、同年十月発生した事件による芦倉村(芦安村)の提訴を受けて反論するかたちで芦倉村との山論訴訟を起こしている。
乍恐返答書を以申上候の表題に始まる訴訟書は、事件の概要、続いて事件発生の地が三か村支配、下の山林であることを主張している。
巨摩郡黒沢村、山高村、柳沢村三か村支配の小物成山内の品川峠で去る寛保三年(1743)癸亥の年より山稼をしていたところ、延享二年(1745)十月、芦倉村の者たちが大勢押し掛けてきて狼籍を働き、そのうえ、この山林は芦倉村の領域であると主張した。芦倉村の主張は偽りであって、鳳凰山のことは天正年間武田勝頼の朱印を頂いており、山境は、東はみつなぎより関屋()沢、南は品川限り、西は高遠境、北は大武川切である。芦倉村が今回小物成山内の地を芦倉村分内と申し立てたことは料簡違いである。
松平甲斐守知行(領知)の節、殿様御入用材木、御用薪について指示なされたが、芦倉村支配の山林より伐採したということはない。また、その節役人様が山境の引き渡し(綱をはりわたすこと)をするよう話されたが、芦倉村には引き渡しをする理由が無かったので、三か村側は立会の上意見を述べる。
十七年以前酉年(享保十四年已酉・1729)武州青梅中村屋六兵衛と申す者が、大武川峠よりこのたび芦倉村の者達が狼籍を働いた場所より材木を切り出し、新道を作り、搬出するとのことであるが、この山道は昔より鳳凰山詣の道であり、品川峠、泉水峠、のふ鳥沢通りの道筋は古来よりあるもので、新道ではない。芦倉村が述べていることは偽りである。
この山論訴訟の裁決は、当事者の言い分、山絵図面のみでは決め難く、実地検証を行い五年の歳月を費やして下された。その判決は次のようである。