入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)甲斐国巨摩郡芦倉村と同国同郡黒沢山高柳沢三ケ村山論裁許之事

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町甲斐国巨摩郡芦倉村と同国同郡黒沢山高柳沢三ケ村山論裁許之事
芦倉村訴えの趣同村分内野呂川入山内え黒沢山高柳沢三か村より新道を作り小屋を掛け立木伐採候右山内東は「地蔵嶽」より「えんとうが嶽」峯通り北は「信州境尾根」を限り芦倉村分内に紛れなき間吟味を願う旨、之れを申し黒沢山高柳沢三か村の答は三か村山境東はみつなぎより「南地蔵平関谷沢」より早川限り「のふ鳥沢西尾根」より「せん水峠」北は信州境大武川限り三か村小物成山に候処芦倉村分内と申し立ての段之れ偽りの旨之を答え右論所絵図面にて決め難きに付御代官吉田久左衛門、小川新右衛門山内見分の上糺明を遂け候処芦倉村の申し立ては松平甲斐守領地の節宝永六丑年北沢より奥留山に成り候に付北沢より奥信州境まで御林にて北沢より南の方は百姓小物成山の由申すと雖も御林境と申す証拠は一向に之れなく然れ共松平甲斐守領地の節右山内の立木払いに成り候節の絵図面に北沢と之れあるに付御林境の証拠となし芦倉村差し出し候え共外に名所数多之れある処北沢計り記し其の上無印にて相用い難く且つ黒沢山高柳沢三か村は武田勝頼の朱印の表に南判行の道より八町庄司みつなぎより北は黒沢分北は真原下道より「石うと路」(石空)「にた場石塔」「烏帽子石」大武川限り南は黒沢分也と之れある故をもって三か村山境は西の方せん水峠よりのふ鳥沢西尾根通り早川隈り南は関谷沢より「地蔵平」まで三か村小物成山に付立木伐採の旨申すと雖も峯を越し西の方早川限りに境之れあるべき謂れ之れなく其の上外に証拠之れなき上は三か村の申し分も立て難し然りと雖も芦倉村の儀小高人数多出稼ぎ之れたく候ては難儀の段歴然たり之れに依り今般衆議の上相定め、御林境東は小沢より東北の方堀切「薬師嶽」「観音嶽」「地蔵嶽」芦倉よりは高根相手三か村より「天狗嶽」と差し候峯通り喧ん水場信州境「千丈嶽」峯通りより「白根山」夫れより北馬追いお称通り瀬戸口まで南は小沢まで野呂川を限り御林たるべし、扱て又芦倉村内山の儀は荒川野呂川落合より北東は野呂川限り瀬戸口西え馬追白根山通り、南え奈良田村境売川落合より内丹橋山池の山石みとろこがんぱ山大かんぱ沢小たろう山此の分一ケ所南の方御巣鷹山すりかばより北へ杖立堀切夫れより南へ小沢風こし鷲の住家を限り一か所都合二か所は芦倉村内山たるべし。次に相手三か村は判行の道より八町庄司みつなぎより「鳳凰山」え峯通り早川峠竜ん水峠を限り信州境、夫れより北大武川を限り烏帽子石石塔石うと路にた場真原下道まで三か村内山たるべし。右の外「御巣鷹山」並びに「芦倉村内山」または入会とも前々の通相守るべし。且つ芦倉村内山小物成の儀今般相定め内山二か所分小物成米一か年に三石宛相手三か村は前々の小物成場所に応えず小分に付増小物成米共一か年三石五斗三か村高割をもって差し出し双方共に当時まで差し出し来る小物成米共に御代官え年々急度相納めべく候。猶又双方共前カの申し伝えのみをもって山内所々において立木伐採の段一同不埒に候え共宥免せしむるに及ばず其の沙汰の条以来急度相嗜むべく価って後鑑のため絵図面墨引きせしめ各印形を加え双方え下授の条永く違失すべからざるものなり
寛延三午年七月十九日
三下総判
遠伊勢判
曲豊後判(曲淵豊後守)
松河内判
神若狭判
この判決によって黒沢村、山高村、柳沢村は、従来主張していた三か村の山境は西方はせん水峠よりのふ鳥沢西尾根通り早川限り、南は関谷沢より地蔵平まで三か村小物成山であるとする考えは退けられ、そのうえに三か村は前々の小物成場所の納税に充分応えず、納税が小額であったとして増税され、一か年三石五斗の山手米の納入を義務づけられて訴訟は終わった。
 
しかし、この判決に対しては不当な判決であるとその非を唱える者もあったのか、或いはそうした者の出るのを恐れてか「村中相談連印帳・村定」の中で、今回の判決に対し村中大小百姓一人たりとも不服を申す者はなく、全員承知しているが、万一にも不心得者が出た場合には当人のお仕置は当然のことであり、村役人を始め村中の重大事件として対処する旨誓約している。
さらに山絵図の回覧中に柳沢村が回覧を拒否したため、黒沢村は古来より当村山親に入会に関する一切の証拠書類が保管されており、今回の山論裁決の山絵図も黒沢村が保管するのが当然であるとして、山絵図の引渡しを要求する訴訟を柳沢村を相手に、判決の出た翌月の寛延三年(1750)八月に起こしている。