入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)黒沢村は柳沢村を相手取り、甲府御役所に提訴

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)黒沢村は柳沢村を相手取り、甲府御役所に提訴
文化八年(1811)十一月に入ると、黒沢村は柳沢村を相手取り、甲府御役所に提訴している。提訴の内容は、寛延三年芦倉村との山論裁許の折の絵図面を、黒沢、山高、柳沢三か村で一年交替でこれまで大事に保存してきたのに、黒沢村に渡さないので渡すよう指示してもらいたい。絵図面を渡さないのは墨引きの範囲内に既に新畑を開発している恐れがあり、山高、黒沢村では秣が不足してきているので不正のことをしている新畑等を発見し、寛延年問の絵図のようにして行きたいためであ
るとしている。
柳沢村は同年十一月、黒沢村を相手取り、甲府御役所に逆提訴
これに対して柳沢村は同年十一月、黒沢村を相手取り、甲府御役所に逆提訴している。逆提訴の理由は、三か村で一年交替で寛延年問の山絵図を保存してきたのに、今回黒沢村の役人が当方に渡さないので渡すよう吟味していただきたいと言うのである。
文化八年(1811)正月、宮脇、新奥、牧原三か村は秣、田肥引取場である下来沢山の三か村の入会場に近年藪が多くなり、秣も田肥も収穫が少なくなったので、入会人別割を割取りにし、藪を切り倒し秣、田肥場の復旧を図りたいので届け出ている。
文化八年(1811)十一月、黒沢村、柳沢村、山高村は甲府御役所に対して、先の文化八年十一月、黒沢村と柳沢村で提訴しあった寛政年問の山絵図の保管について話し合いが成立し、毎年十二月二十五日に引渡す旨報告している。
文化十二年(1815)四月八日、柳沢村、黒沢村、山高村、牧原村は、柳沢村より黒沢村に寛延年間の山絵図を渡さなかった件に基づき、絵図面による調査をして三か所に杭を打ち直した旨報告している。
文化十年(1813)正月、宮脇、新奥、牧原三か村は入会地の下来沢山を割合制にして入会地の復旧を図りたい旨届出をし、文政四年(1821)八月、山割合議定書を作り報告している。
下来沢山を割合制にしたいと計画してから議定書の報告まで八年間の歳月を要していることから考えてみると、各村の利害が絡み、困難な仕事であったことが判るのである。
文政六年(1823)八月、若神子村、若神子新町、境之沢三か村は牧原村を相手敢って役所に訴えている。
その内容は同年八月十六日・十七日の大風雨のため、釜無川通り大満水より三か村入会秣場並びに御所地続き、若神子新町御縄請の地所に水が流入し、二十日になって水防のために若神子、同新町の者が水没地に行き水防作業をLていたところ、牧
原村の者が大勢、川を越して来て、流木等を引上げる等した後、水防作業中の者に乱暴を働き、さらに二人を引きつれて帰ってしまった。
知らせを受けた村役人が川岸に到着した時に人影は無かった。幸いにも連れ去られた者は同夜の内に帰村したが、その後牧原村に厳重抗議をしたが、今後かかることの無きよう吟味して欲しいと言うのである。
文政七年(1824)八月には、黒沢、山高、柳沢三か村の入会山の割山対談書が報告されている。それによると
 
一、山高村分日影一ノ沢汐葭沢南尾根迄
一、柳沢村分萩坂日向平通奥みたらし沢西尾根向一の嵐へ見通し淵ケ沢西平通牛首副迄
一、黒沢村分きわた沢奥松尾かしら/水こぼれ境八丁通り迄外につふら川一ケ所
 
となっている。
文政十二年(1829)十二月には、文政六年八月二十日に起こった牧原村の者たちの、水防作業をしていた若神子村、同新町の者に対する暴力事件と流木等の引上げ事件について、暴力事件の起こった場所が、牧原村が寛政三年の山論にこのような小物成山の増税に絡んで、寛政四年から米九斗宛上納していた場所であったので、問違って起きた事件であったとの役所の判断が示され、示談で解決している。
このような入会地における紛争は、このようた集団でなくても起こっており、天保五年(1834)八月四目、山高村役場に対して、三吹村長百姓幸八、右証人孫左衛門が行った文書にもある。
また、慶応四年(一八六八)十一月、官脇当人儀兵衛、組合藤兵街、親類儀八連署で黒沢村役場に入れている文書にも、心得違いで薪を掠め悪口を言った事件が報告されている。
本村の入会の歴史は前述したごとく、文書にあるものは天正九年の黒沢山大堺のことから始まったと考えられるが、江戸時代になってからは、幕府の直轄地であったことから、幕府から入会地として借り、最初は麓の近い所で十分その目的を達していたであろうが、寛延三年の芦倉村との山論が示すように、人々はしだいに奥山に入り込まねばならなくなって行った。とにかく本村に関係のある入会山は、現在の地名で言うならば、小武川沿いに遡り、上来沢から燕頭山、鳳鳳山、アカヌケの頭、高嶺、早川尾根、仙水峠、大武川に囲まれた広大な山地であるが、その山地は急峻であり、秣、刈敷、薪、その他林産物を求めるのも大変なことであったと考えられる。それけげに麓に近い入会地の管理は大きた間題で、前述した入会に関する記録はほとんど、ここに集中しているのである。