入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)道路、橋梁の問題、それに伴う土地の問題

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)道路、橋梁の問題、それに伴う土地の問題
農民の生活が入会に依存する度合いが高まるにつれ、道路、橋梁の問題、それに伴う土地の問題も生じてきた。次のものはそれに関係のあるものである。
寛政二年(一七九〇)八月、宮脇村、新奥村、神田紺屋一丁目代地和泉屋□□九郎兵衛、牧原村は下黒沢山入会に通ずる道で、最も足場の悪い牧原村の道について協議の上、新道の取付けについて申請している。それによると新奥村古田荒地、宮脇村中山右之境に新道の造成をなせば便利になるとしている。
さらに寛政三年(1791)九月二十五日付の訴訟方、宮脇村(武川町)、新奥村(武川町)、上円井村(韮崎市)、相手方、下円井村(韮崎市)、穴山村(韮崎市)、夏目原新田、若神子新田(須玉町小田川村(韮崎市)、境之沢村の御評定所に提出した差上申一札之ことによれば、小武川橋の掛替えに伴う道路の間題で、訴訟方は北沢を、相手方は下来沢を主張し、そこで沢通りを上落合まで行き、それより訴訟方の言う北沢の内の、相手方が北沢と主張する沢まで進め、右沢筋は間題にしないで、黒沢、山高、柳沢の三か村の境の峯へ引付け、北は宮脇、新奥、牧原村の入会、南は宮脇、新奥、上円井外六か村入会、その外は天明二年(1782)に取交した差上申済口証文之ことのとおりいたしますのでご承知くださいと述べている。
ここにも多くの人々の利害の絡む間題だけに衆知を集めた跡が見える。こうして道路の件が落着するに及んで、下来沢山にかかる入会の問題も決着することになったのか官脇村と新奥村は役所に対して、寛政三年十一月(1791)両村地元下来沢山論定帳たる文書を提出している。
その中で、両村は下来沢山は地元である宮脇村、新奥村の入会となったので百姓は大切にし、年貢上納専一に努め、証文どおり心得違いのないよう努力する旨を述べている。
牧原村
また、牧原村は寛政三年(1791)までの訴訟のため役所に出入していたが、江戸表より去寛政六年(1794)八月来訪のうえ、従前どおり下来沢の内、北沢通りしようじ迄入会できることになったと、相定申儀定之事と言う書面を寛政七年(1795)二月提出している。
牧原村は寛政七年(1795)三月、前記の書面を補足するかたちで、乍恐以書付御訴訟奉申上候と言う表題の文書を代官所に提出、その中で、牧原村は宮脇村、新奥村と共に秣山組合を結成し、行動を共にして来たものを両村は右沢通りの道を通行禁止にして、牧原村に与えた損害は大きいとその非を責めている。
さらに同年同月、牧原村は奉行所に検見してもらったことの礼を述べ、四月には宮脇、新奥村は組合入会山の通行道を開通した旨を記し、両村との見解の相違も融和し証文を取り交わしたことを述べ謝意を表した書面を奉行所に送り、この山論は終止符を打っている。
寛政八年(1796)の黒沢村名主金左衛門と長百姓平六の署名のある書面に、当時の入会年貢のことが記してあるものがある。不明の箇所もあるので一部かも分からぬが興味のあるものである。
 
一、木綿沢、大がや原、実原広き山谷故反別相知り申さず候。草間小物成米二斗八升八合上納仕り申し候
一、当村御小物成米先規清兵衛五俵二御請負仕り候
小物成山の為辺見若神子村より五俵御上納()御米之儀は若神子村より下黒沢ニケ村より御上ヵ納致す為申候
一、米籾合四俵辺見筋塚川村
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右山之入会之覚
山高村
柳沢村
塚川村
若神子村
下黒沢村
一、籾□斗五升牧原村
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一、三吹村の儀は御小物成米直納致すため右山の内大武川入り之証文入れ置き申し候
一、米五斗四合奥山小物成増米 是れは寛延三年より御上納仕り候
一、米一斗八升八合大沢山増小物成 是れは寛延四年米により御上納仕り候
一、米二斗一升六合奥山小物成増米 是れ宝暦六子年より御上納仕り候
 
入会料は軽租と言われていても、それがしだいに増税されて行くのであるから、農民の苦しみと入会に対する関心の深さを知る資料である。
文化元年(1804)四月二十五日の日付で三吹村と牧原村は、下黒沢村外一か村と日野村の秣場出入の件で役人来訪の折、三吹、牧原村の地内を日野村は自村のものとして申告し、その後三吹、牧原村の抗議でそれを撤回したが今後かかることの無いよう厳重な注意を要望する書面を役所に提出している。
そして、五月には日野村見法寺、三吹村萬休院、それに一二吹村、牧原村、目野村連署で相対書の異なる文書を交わしている。
しかし、五月の相対書の交換でも安心できない牧原、三吹村側は六月に入るや検分した役人宛に日野村の者を吟味し、相対書のごとく境界は三吹、牧原村の主張の如くであると命じて欲しいと要望している。
文化四年(1807)五月、三吹村は黒沢村、山高村、柳沢村に対して、大武川日影山で若者が保多木少々を切り倒したので今後かかることのないよう謝罪文を提出している。
文化八年(1811)七月には、官脇、新奥、牧原村の三か村は下来沢山の山割を行いそれぞれの取扱い方について決定している。この中で山割の年季を一〇か年としている。