入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)三吹村は一橋領地日野村より告訴される。

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)三吹村は一橋領地日野村より告訴される。
天明七年(1787)四月、三吹村は一橋領地日野村より告訴されている。告訴の内容は、辺見武川の大境は、北は深沢川を境とし、西は釜無川を境とする。その大境の日野村分の河原に先年より今日に至る間、日野村の人々は牛馬を放牧し、秣を採取していたところ、三吹村は当村には無断で、釜無川の河原に新田の開発を始めたので、新田開発の許可証拠の提出を求めたが証拠は無く、当方の新田開発中止要請も拒否したので提訴に及んだとしている。
さらに岩下河原名所戸石に三反九畝近くの田畑があるが、その田畑を開拓した者の努力は大変なものであり、また収穫した稲穂は毎年三吹村「萬休院鎮守月生文殊稲荷」に神納した歴史があるので、その田畑を日野村に返還するよう要請している。
さらに武川の大境を小淵沢村、笹尾村、松向村、片嵐村、若神子新町村、夏目原村各村同様川境に設定して欲しいとしている。
この訴訟にも新田開発を急ぐ農民の姿を見ることができる。