入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)追記 鳳凰山名錯綜の中における本村文献(寛延三年山論)の意義

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)追記 鳳凰山名錯綜の中における本村文献(寛延三年山論)の意義
山地と山麓住民との関わりについては前述の入会と山論で見てきた。しかもそれはそれぞれの時代の杜会的背景により、その関わり方に違いがあることも見てきた。山に対する依存度の軽重も見てきた。しかしこれらは主として経済生活の面における結びつきの面であった。山地に対する敬慕や畏敬の念の面ではなかった。この面での関わり方は後述の民問信仰で見ることとし、ここでは錯綜する鳳凰山名の中における本村の関わりを考えてみたい。
 
天保六未年(1835)の柳沢村勧請神主小池鷹之助、黒沢村名主、百姓代、山高村名主、長百姓、百姓代、宮脇村立入人長百姓、合計一四名の連署がある内済証文之事と言う文書には
黒沢村より山高村之相掛候鳳風山三本木社祭礼並びに社等取計い来り一件左の通り。
 
今般黒沢村に申立て候は鳳風山の儀は勿論()その名黒沢山と唱う鳳凰山権現の儀は年暦相知らず往古より諸人崇敬の地に当村に勧請の儀相違これ無く字三本木と唱え候前宮社の儀も武田家御治世以前より当村に勧請いたし年カ九月九日祭日と相定め()右社之当村石の鳥居造立いたし候ところ貞享二丑年四月若神子村の者右石の鳥居之牛馬繋ぎおきし為引き倒し候()尚また鳥居修復いたし候()元禄十六未年拝殿再興の儀は当村限り造営いたし申し候、文久四年未年芦倉村と山論相起り当村並びに山高柳沢一致して争論に及びし候ところ武田勝頼御朱印御文面御信用に相なり寛延三午年御裁許おおせ下されしに付きそれ以来より山高村も追灸前官祭神の目定め参詣いたし神酒等相備へ候()
山高村は鳳凰山前宮祭礼の儀武田勝頼公西山大境の字御朱印より以前文保年中地頭山高殿の御崇教始り()山高宮内少輔御代元亀二未九月九日字三本木の地へ勧請し当村の内田方壱反歩の所祭領御寄付これあり、年々九月九日祭りしきたり然るところ明暦年中山高三左衛門御代江戸へ御引越しに相なり候いしも鳳凰山権現は耕作守護の御神故後後にも怠慢することなく崇教これありともともと仰せられしと()寛延三年芦倉と山元三か村と山論出入御裁許御裏書絵図面にも鳳風山奥之院三か村一体の義に付き相印しあり侯()
 
と記せられている。そして鳳凰山権現信仰が文保年間(1317~1318)に始まり、その後篤信されてきた旨述べられている。さらに鳳凰山権現の奥院は、寛延三年の芦倉村と山元三か村の山論出入御裁許に示された鳳凰山であり、農耕の守護神であるとも語っている。
そして芦倉村と山元三か村山論裁許の中で鳳鳳山については、判行の道より八町、庄司、みつなぎより鳳凰山之峯通り早川峠、せん水峠云々と述べ、これを地形図に照合してゆくと、燕頭山から現在で地蔵ケ岳と人々から呼ばれている山頂からアカヌケの頭そして高嶺、白鳳峠、早川尾根、仙水峠となり、現在人々から地蔵ケ岳と呼ばれている峰頭が鳳凰山である。
甲斐国杜記・寺記(第一巻神杜編)』には
 
鳳風山大神 従柳沢村五里余高岳二鎮座
所祭    天照大日孁尊
本殿    高岳ニシテ風烈ユエ石宮
高五丈許巨石之中段江勧請
里宮社地  字小山云次石宮堅九拾間横五拾間
同社    字三本木ト云々石宮
鳥居石   高サ八尺余
社地    竪六拾間余横四拾間余
祭日    二社共二毎年九月九目
山元産子  柳沢村 山高村 黒沢村
 
とあって、祭神が天照皇大神で、農耕の神であることを示している。
明治四十年七月三十一目より二泊三日で鳳凰山に登山した工学士・辻本満丸の登山記録(日本山岳会発行『山岳』二年三号、明治四十年十一月発行)の頂上の様子を記した部分に
 
石碑三つあり、一つには表に「鳳凰山天照皇大御神鎮坐」と刻し、右面には「甲斐国北巨摩郡富村山高講中」、左面には「明治二十歳亥七月二十九日」とあり、他の二つを見るに「鳳凰山大神」、「大日如来」と記したり、斯る神仏混淆は他高山にも例多きことなれど、一寸異様に感ぜらる。
 
とあって、農耕の守護神なることが判る。
本村からみた鳳凰山の歴史的価値は農耕の守護神として村人の信仰を集めた山岳と言うことが出来る。
ところでこの山については、古くから山名の呼称について錯綜が一言われており、特にそれがやかましくなったのは、明治四十三年に五万分の一の地形図の「韮崎」の図幅の記名をめぐってであると言う。その記名は鳳凰山が一つの山頂にではなく、現在使われている鳳凰三山のように三つの峰をさしていることであったと言う。そしてこの論争は、巨岩のピークを持つ峰を鳳凰山とするか、地蔵ケ岳とするかにあったと言われている。
 
『甲斐史学』第十四号・第十五号(甲斐史学会)の中で田畑真一は、
「赤石山地をめぐる歴史地理的一考察-鳳風山名の錯雑とそれをささえる呼称の地域圏」の中で、呼称法錯雑のことがすでに江戸時代から尾をひく歴史的なものであると述べており、柳沢吉保の特命により宝永三年(1706)九月七日江戸を発ち甲州街道をとって入峡し、各地を巡視し、歴訪し、人情風俗、自然の景観を記した荻生徂徠の「峡中紀行」、更には柳沢吉里が大和郡山に移封せられた後、支配二名のもとに小普請組の中から選ばれて赴任した甲府勤番の士の一人であった野田成方編集の裏見寒話(宝暦二年・1752)等多くの資料をあげて、すでに江戸時代から鳳凰山名の錯雑はあったと述べている。そして呼称の中には甲府方面のものも多くあげられている。
また『韮崎市誌』において山寺仁太郎は文化十一年(1814)に編集された『甲斐国志』においても、鳳凰山名について、種々混同錯雑があったことを暗に示竣し、これを国志の権威において決定づけようとした意図がうかがえるとしている。そして次のように述べている。
国志にあっては、現今我々が人物ノ状ノ如き立岩、つまりオベリスクのある山を地蔵岳と呼ぶのは誤りであって、この山こそ鳳凰山と呼ぶべきだと主張している。こうした鳳凰山名の錯雑の中にあって、芦倉村と三か村山論裁許之ことの中に記せられている山名は、幕府の役人が江戸表からわざわざ現地を実地検分して作ったものであるから史料的価値は大きいと言える。山間に生活環境を占める地域は、山と深い関係を持っていたから山頂名も細かく分けられていたものと考えることができる。山頂名の細分化された地域を実地検分したものであるから、史料の信愚性については疑念をさしはさむ余地はないものである。〈二塚謙三氏著〉