入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)肥料と牛馬耕と農具

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)肥料と牛馬耕と農具
幕藩体制の確立の中での経済の発展、特に農業に関係あるものは、治水かんがい技術の進歩・品種の改良・肥料の進歩・農具の発達など、さらに幕藩行政サイドの勧農、農学者の活動、領主の課税の強化に対する生産額の増大があげられる。
今これを肥料と牛馬耕と農具について、元禄年間(1688~1703)の著書で、紀伊国伊都郡の農業経営を説いた『地方の聞書』と、元禄九年(1696)の宮崎安貞の著『農業全書』の内容を『日本史資料』(東京法令出版)から抜粋すると次のようである。
1、牛馬耕と農具
一、牛 作候もの牛持候はねば、地をおこし申事成らず故第一也、
此道具からすき:えか・さき・引綱・かいそり・くびき・しりかせ
一、馬 肥をおかせ出稼き作毛取〆、又は馬に踏せ申、上作によく候ゆえ、
大作仕候者は馬持候はねぼ成らず、
此道具
しらはたこ・鍬・からすき・持籠・かま・すき・おふこ・たんこ・なた
斧・ふで・さらえ・肥杓・箕・たるみつち・こき・からさ・とううす
麦とふし米通し・からうす・石うす (地方の聞書)
2、肥料
又田畠を肥すに、苗糞、草糞、灰糞、泥糞の四色あり
(中略)
又上糞といふは、胡麻や蕪蕎の油糟、木綿ざねの油粕、又は干鰯、鯨の煎糟、同骨の油糟、人糞等の色々の力の及び貯へ、或は粉にし、或は水糞と入れ合はせてくさらかしをき、それぞれの土地と作り物によりて用ゆべし。黒土赤土の類には油糟を専らにすべし。砂地は鰯よし。湿気埴(ねば)り心なるには木綿さねの油糟よし。上糞の分は田畠にかぎらず何れの物に用ひてもよくきく物なり。(『農業全書』岩波文庫)
 
1、の牛馬耕と農具からは、牛馬がいかに農耕に必要であったかを知ることができ、
2、の肥料からは、従来の肥料(草木灰・厩肥・苅敷)のほか、油糟・干鰯・魚油糟などの新しい肥料の登場と、油糟が最上の肥料とされていることが分かるのであるが、これを本村(武川村)に当てはめて推量してみると、牛馬耕は当然のこととして、肥料については新しい肥料と最上の肥料とされる油糟等は入手困難と考えられ草木灰、厩肥、苅敷の類が主たるものであったろうと考える。そうすると、これらの素材の供給地は山林原野がその主たるものであったことは明らかである。ここに入会地
の重要性が存するのであり、入会地の確保こそ農業には欠かすことのできないものであった。
本村においても営農に欠くことのできぬ入会地確保のためと、入会地にまつわる諸間題解決のために、多くの努力が払われ、それに伴う文書が、そのつど取り交され、役所に訴訟も起こされている。