入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)幕府、日陰山論争証拠調査

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)幕府、日陰山論争証拠調査
宝暦元年(1751)三月二十六日江戸表より代官と手代が来甲し、四月四日には韮崎に到着、その後宮脇村に一五日間、教来石村に一五日間滞在され、横手、白須、台ケ原三村が入会願を提出したことから始まった日影山山論についての証拠調査があった。そして三〇年聞に及ぶ明細帳、村絵図等が調査され、その結果、入会地の面積、年貢が決定されたことが甲府の代官に報告され、黒沢山のことも一部調査があった旨報告されたとしている。
宝暦二年(1752)正月には、黒沢、山高村より甲府代官に次のような書面が送られている。
昨、宝暦元年(1751)冬、横手村の者たちが当方の入会地にやってきて、小物成山の年貢の件について助け合っている間は、入会地の産物については互いに融通し合うようにと申し込んできたが、他村の者を入会地に入山させると山を荒し、山元の村も入会地にも支障をきたすことが起こるのでと断った。
今回横手村が、横手村分の山内、黒沢村分の山内は前々より無年貢で相互に入り会っていたと申し述べていることは偽りであって、黒沢、山高二か村の者は横手山に入ったことはないし、横手村の者達が黒沢山に来たこともない。このことは入会している村々の明細帳にも明白に記載されていることである。また先年の山論の折にも書面に記載してある。記載しなかったことから不埒な事が発生し申し訳なく存じている。
さらに黒沢、山高二か村は前記と同じ内容の書面を同年三月、横手村外二か村と出入乍恐返答書ヲ以申上候と題する書面で甲府代官所に再度提出している。これは横手村甲府代官所に働きかけをし、代官所よりの問い合せに答えたものである。
宝暦四年(1754)十一月には黒沢村は山手年貢納入遅延について願書を代官に送っている。遅延の理由は今回の横手村との山論のため出費多く、特に七月よりの江戸表行きの出費と絵図入用について、入会の関係村との会議を持ったところ柳沢村の同意が得られず、年貢を滞納したが、よう後く柳沢村の心得違いであったことの了解を得たので納入するのでご高配を賜わりたいとしている。
黒沢、山高、柳沢三か村は山手米の年貢納入が農家経済に重く押し掛っているためか減税の願書を提出し、役所の検分を受け、却って増税され、その覚書を宝暦六年(1756)七月、役所に提出している。
宝暦六年(1756)十二月二十七日には、横手村、台ケ原村、白須村が、黒沢村、山高村、柳沢村、三吹村、若神子村を相手取って起こしていた訴訟に対し裁決が出ている。その裁決の中で横手村、台ケ原村、白須村が主張していることの一つは、横手村、台ケ原村、白須村は、横手山の内、篠沢よヶ大武川までと、黒沢山の内、大武川より石うとろ川までの入会地は前々から無年貢で、相互に入会をしてきたのであるが、寛延三年の芦倉村との山論裁決によって、黒沢村、山高村、柳沢村は小物
成山の入会料が増額されたのでこの三か村は、横手、台ケ原、白須三か村に次のような相談を持ち込んできた。
小物成山の内、横手、台ヶ原、白須三か村分の入会地はすでに秣をはじめ薪等も採ることができなくたり、秣、薪、家道具材等を黒沢山から採っているので、黒沢山から採っている期間小物成山の年貢を村割で納めてもらいたい。この相談に横手、台ケ原、白須三か村と、黒沢、山高の二か村は同意したが柳沢村は承諾しないので、年貢納入を命じてもらいたい。その二の件は、横手、大坊新田の二か村が黒沢山への入会を新規に申し込んだところ、山元の黒沢、山高、柳沢三か村は、黒沢山は土
地悪く昔から山稼ぎをし、かろうじて年貢を納入している現状なので新規加入は不可能であると断ってきた。よって新規加入を認めて欲しい、とのことである。
これに対して奉行所は証拠調べの結果、次のように裁決を下した。横手、台ケ原、白須三か村の黒沢山入会の件は不許可。柳沢、三吹二か村の横手山の内の大武川より桑木沢までの入会権は取消。柳沢村は小物成山に無年貢で入会していたが、今後は年貢一石五升を横手、台ケ原、白須三か村に支払うこと。三吹村も三か村に米五升を支払うこと。黒沢村、山高村、柳沢村は小物成山の入会料が少額であったので、村割で米一石五升を年々納入のこと。
安永六年(1777)六月、柳沢、山高、黒沢三か村は御普請役米倉幸吉に対して、先に命令された三か村分内の新田開発の件については、土地極めて悪しく、百姓の困窮が続き、遂にはその土地に立ち入ることも拒否するありさまであるから、なにとぞ御慈悲をもって、新田開発の土地を従前どおりの秣場にして欲しい旨願い出ている。財政悪化の中に困窮している農民の苦悩のほどが察せられる。