天正10年(1582)
天正10年(1582)
1月1日
1月7日
1月16日
1月25日
2月2日
勝頼、兵1万5000で義昌討伐のため諏訪に出陣〔当代記〕
2月3日
2月5日
2月6日
2月6日
木曽義昌,急迫した情勢を信長に訴え,来援を請う〔塚本文書〕
2月9日
2月12日
織田信恵,木曽救援に出馬〔信〕
2月14日
2月16日
勝頼の将今福昌和,義昌を鳥居峠に攻め敗れる〔信〕
勝頼の将大熊長秀,遠江小山城を脱して甲斐に逃げ帰る〔家〕
2月17日
伊那郡大島城将武田逍遥軒信綱,城を捨てて退く〔信〕
2月18日
2月19日
勝頼夫人北条氏,願文を武田八幡宮に捧げ,武運長久を祈る〔矢崎鎌治郎家文書〕
2月20日
上杉景勝,勝頼に援兵を送ることを報ずる。
この日勝頼が上杉景勝の応援を求める〔上杉家文書〕
2月21日
2月23日
2月27日
織田信忠は大島城を河尻秀隆・毛利良勝に守備させる。
2月28日
2月29日
2月29日
2月28日
2月28日
3月1日
3月2日
3月2日
織田軍、「甲州之衆」と一戦に及び100余を討ち取る。〔多聞院日記〕
徳川家康、穴山信君へ甲斐国「乱入」にあたり甲斐国を進呈する約束について、年貢収入が無くとも2年・3年は織田信長より扶持が加えられるように取り成すこと、もし首尾通りにならなければ徳川家康が「合力」することを通達。〔記録御用所本古文書〕
3月3日
勝頼,新府中韮崎城を自ら焼き岩殿城に向け退く,この夜柏尾大善寺に泊まる〔理髪尼記〕
穴山梅雪,対徳川工作に功のあった竜霊寺清蔵主此感状を与える〔下山竜雲寺文書〕
織田信忠のこれ以上前方への進軍は一切無用であること、
織田信長自身は近々出馬するので武田軍を容易く撃破する予定であることを通達。
また先頃に河尻秀隆へもこの旨を通達したことを通知。〔関戸守彦氏所蔵文書〕
3月4日
家康は刀・鉄砲100挺を贈る
3月5日
3月10日
勝頼,土屋次郎右衛門尉に成田郷曽子分62貫文を賞賜〔旧西条村半兵衛所蔵文庫〕?
3月10日