入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)山高村は、牧原村を 奉行所に訴訟

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)山高村は、牧原村を 奉行所に訴訟
明暦元年(1655)に入ると、六月十日の日付で山高村は、乍恐書付を以御訴訟申上侯との表題の文書で奉行所に訴訟を起こしている。
訴訟の内容は、山高村と牧原村の境界地を牧原村は勝手に新田開拓に使用している、さらに境界の土手の一部までも手をつけている。そのうえ、村境のせき(堰)の取水口を拡大までした。そのつど原状回復をさせてきたが、このようなことなきよう取り計らって欲しいとのことである。
これに対して牧原村は、翌年の明暦二年1656)三月十二日の日付で、五六年前の検地以来、さらに新田開拓のつど検地を受け、年頁を納入して来ているので、山高村の主張は当たらず、山高村と協議のうえ、両村の所有の絵図に印判のうえ、証文を取り交し、今後は申し合せを守ることを確約したとの和解書を奉行所に提出している。
 
万治二年(1659)二月二十四日には、塚川村より黒沢村清兵衛、小左衛門宛に、寛永十七年(1640)三月二十日の詑状と同じく入会料滞納の件と、新入会料の確認の件について文書が取り交されている。
 
寛文五年(1665)十一月は、御嶽山上之坊八郎右衛門から、塚川村、黒沢村、山高村、柳沢村、牧原村の者どもに、黒沢山地内における御嶽山との山境の件につき不服があるのか、不穏な動きがあった旨訴訟があり、同年十二月三日には、これらの村々は御嶽山の御神慮により黒沢村の奥山前山に出入りさせてもらっているので、古一証文のとおり守っていく旨の書面が提出され、さらに、塚川村は、相定め一札之事という文書を提出している。
内容は御嶽山との山境は決定された通りに守る旨を述べている。
 
寛文六年(1666)十一月には牧原村より甲府御役所宛に、官脇村、新奥村、牧原村の三か村と、上円井村外六か村との山論の件について奉行所に訴訟を起こし、御吟味をいただいたが、決裁の通りであると、牧原村には薪を取る入会山が無くなるので、昔のとおりにしてもらいたい旨の訴状が出されている。