2011-12-01から1ヶ月間の記事一覧

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)戦費増強の租税措置か

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)戦費増強の租税措置か 天正八年(一五八○)武田勝頼公より黒沢村清兵衛は呼び出しを受けた。 呼び出しの件については、黒沢村の西山は手広いと聞いているので奥山小物成分として米五俵を上納すること。さらに御朱…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)黒沢山大堺之事

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)黒沢山大堺之事 一、南は判行之道より八町庄治みつなぎより北は黒沢分北は真原下道より石うとろ(石空)にたば石塔鳥帽子大武川切ニ南ハ黒沢分也 天正九年(1581)八月廿日 入会山と山論(武川村誌 現在は北…

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)

入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町) 武川町の歴史(武川町の歴史サイト) 入会山と山論については一般に次のように言われている。 入会山と山論(武川村誌 現在は北杜市武川町)入会山(関連サイト) 入会山は、一定村落の住民が生植物を共同採取…

山梨県峡北森林組合の誕生

峡北森林組合の誕生 世情 農業より工業への労働力転換 人口の老齢化 外材の輸入 各種の原因が絡みあって、現在は林業に対する熱意が薄らいできた。放置する家もあれば、山林の経営をやろうと思っても手数がない家、老齢化して、その作業にたえない家もある。…

武川村森林組合の沿草

武川村森林組合の沿草 発足 武川村森林組合の起源は、昭和十六年十一月四日、追補責任武川村森林組合として、その設立を申請し時の地方長官、高野源進の認可を得て設立されたものである。 役員 役員は、組合長一、理事一四、監事七で発足した。初代の組合長…

山梨県武川町恩賜県有財産保護組合組織の歴史

恩賜県有財産保護組合組織 武川村関係の恩賜県有財産は既述のように七か所あったが、その区域に応じて、それぞれ保護組合を作り組合長、議員が出てその管理運営をはかった。組合長はたいがい該当地区の村長があたり、その区域から議員が若干名出た。七か所全…

山梨県恩賜県有財産保護組合の設置(武川村誌)

恩賜県有財産保護組合の設置(武川村誌) 恩賜県有財産の保護を管理規則で命ぜられたので県下市町村では、保護組合を設置して、その任務を果たすようにした。我が武川村関係の恩賜県有財産管理のための保護組合、組合の区域、保護すべき場所は次の表のようで…

山梨県恩賜県有財産に関すること(武川村誌)

恩賜県有財産に関すること(武川村誌) 山梨県では、御料地が御下賜になったので明治四十五年三月「山梨県恩賜県有財産管理規則」を制定してその管理に当たった。その一部を抜粋すると、 山梨県恩賜県有貯産管理規則制定(明治四十五年三月) 第一章総則 第五…

明治維新による林政の大転換(武川村誌)

明治維新による林政の大転換(武川村誌) 入会地の結末 江戸時代の末期、嘉永、安政ごろは米艦が渡来して外交を迫るし、国内は諸論がわき幕府も、その対応に四苦八苦した。全盛時代は厄介な山林台帳の提出を求めたり、お林守の役人も幅をきかせたであろう。…

〔武川村・動物〕(「武川村誌」)

〔武川村・動物〕(「武川村誌」) 動物については、他地域で見られる種類はほとんど生息し、ライチョウ、ニホソカモシカも生息するが、特筆すべきものは未だ発見されていない。 〔観光資源〕 本村は観光資源に富み、四季おりおり美しい景観を呈している。落…

〔武川町・植物〕(「武川村誌」)

〔武川町・植物〕(「武川村誌」) 本村は植物分布からみると、暖帯と温帯に移る境から始まり、垂直的に亜寒帯、寒帯にわたり広い範囲に植物分布をもち種類が多い。 温帯は本村では急峻な山岳地帯を除いた標高八○○メートル以下がこの区分の中に入り、落葉広…

〔武川町・地震〕(「武川村誌」)

〔武川町・地震〕(「武川村誌」) 本村の西側を糸魚川-静岡構造線が、東側を富士八ケ岳構造線の二本の活断層が走っており、活断層は震央につながると考えられている。近年東海大地震の発生説が唱えられ、大被害が予想される地域とLて、昭和五十四年八月七日…

〔武川町・気候〕(「武川村誌」)

〔武川町・気候〕(「武川村誌」) 本村の気侯は概括的には、中央高原型の内陸性の中にあって、少雨冷涼区に属するが地形上の要因で場所により、かなりの相違がある。また、海抜高度により垂直的な気象変化を示し、山岳気侯、高山気侯を呈する。昭和五十年か…

〔武川町・水害の村〕(「武川村誌」)

〔武川町・水害の村〕(「武川村誌」) 本村の地形、河川の要因から特筆すべきことは水害である。本村の歴史は水害史であり水との闘いの歴史である。村内を流れる河川の上流は勾配が急で、西都山岳地帯が豪雨に襲われると急激に増水し、脆弱な地盤を浸食し、…

〔武川町・水系・武川米〕(「武川村誌」)

〔武川町・水系・武川米〕(「武川村誌」) 本村の水系は、富士川水系の支流である釜無川を主流に、大武川、尾白川、石空川、黒沢川、小武川の六水系からなっている。これらの河川は南アルプスの峻峰に源を発し、河川勾配は上流で一七~二二度と急流であるが…

〔武川町・地形〕(「武川村誌」)

〔武川町・地形〕(「武川村誌」) 本村は東部の平坦地、標高四七五メートルから西端の鳳凰山上(二、八四〇・八メートル)まで三十分の一から五十分の一の急傾斜地で、その比高差は二、三六六メートルに及んでいる。居住地や豊耕地は東部の標高四七五~六八○…

〔武川町・交通〕(「武川村誌」)

〔武川町・交通〕(「武川村誌」) 東部の釜無川沿いに大動脈である国道二十号線が四、八三〇メートル南北に縦貫し、県道横手~日野春停車場線四、六二六メートルが新開地で国道と交叉して辺見台地や中央自動車道と連結している。一般村道四万九、六二一メー…

〔武川町・面積〕(「武川村誌」)

〔武川町・面積〕(「武川村誌」) 本村は東西平均一五キロメートル、南北平均四キロメートルで、その形はあたかも蚕の形に似ている。 総面積六、〇二四ヘクタールで県全体の一・四%にあたる。そのうち山林が最も多く、五、〇九〇ヘクタール(八四・五%)を占…

武川町〔位置〕(「武川村誌」)

武川町〔位置〕(「武川村誌」) 武川村は、県の西北部、北巨摩郡の西部に位置し、東は釜無川を隔てて長坂町及び須玉町に接し、西は鳳凰山頂(二、八四〇八メートル)を境に中巨摩郡芦安村に接し、南は小武川をもって韮崎市に接し、北は大武川・中山・尾白川を…

甲州の方言【お】

〔お〕 ○おい(おっ)こくる <むりやり追い出す。> ○おいる <生える。> ○おえる <―る。,い燭燹△海錣譴襦「魚がおえた」> ○お-きに <∥腓悗鵝,△蠅とう。「お湯(風呂)をおおきにありがと-ごした」> ○お-くだ <黒いしまの入った蜂。> ○お-くび…

甲州の方言【え】

〔え〕 ○え- <家。> ○え-からかん <いい加減。でたらめ。> ○え-かん <かなり。よほど。「え-かん待っつらね」> ○え-しろ- <相手になる。応対する。(-あいしらう)「あんなもんほえ-しらっちょ」> ○え-てばんてに <交互に。順番に。> ○え…

甲州の方言【〔う】

〔う〕 ○う-しんぼ- <,し。,△鵑海瞭?辰討い覆っ鳥劼笋焼き。> ○うさ-る <行く。出ていく。ののしって言う時に多く使われる。「ヘーうさ-れ」> ○うし <^隹諭\撒蹇閉號匹鮗蕕襪燭瓩龍綢腓量攸箸漾法 ○うしんベー <牛。> ○うずぶれる <寒さでふ…

甲州の方言【い】

い〕 ○い~ぐさ <言いわけ。不平。苦情。文句。> ○い~くめる <言って聞かせる。説得する。> ○いい~つこ(くら) <言い争い。> ○いきなり <だらしないさま。やりっばなしで始末をしない時などに使う。「おらんの嫁はいきなりだ」> ○いきやり <気ば…

甲州の方言(別編)【あ】

甲州の方言(別編) 〔あ〕 ○あ-ら・あら <荒れている湿地。この地に生えた革もいう。> ○あいく <歩く> ○あいさ・間 <え-さ・え-だ> ○あおど (ぞ) んびょ- <血の気のない人。顔色の悪い人。> ○あかげんつ- <髪の毛の赤い人。> ○あかし <あ…

〔武川村の歴史の流れ〕〔村の支配〕(「武川村誌」)

〔武川村の歴史の流れ〕〔村の支配〕(「武川村誌」) 村支配の行政機構は名主(庄屋といった時もある)、長百姓、百姓代、(五人組)組頭によって行われたが重要な項目については惣村中より連印を取った。名主の交替は八月で一年ずつ勤めたが再任されることもあ…

〔武川村の歴史の流れ〕〔宗教支配〕(「武川村誌」)

〔武川村の歴史の流れ〕〔宗教支配〕(「武川村誌」) また民衆支配という面より見ると幕府の宗教政策も注目される。だれもが檀那寺を持つという寺檀制度はキリシタソ禁制を目的としたものだといわれるが、寛永十七年(一六四〇)より宗門人別帳が作成され寺院…

〔武川村の歴史の流れ〕〔近世〕検地(「武川村誌」)

〔武川村の歴史の流れ〕〔近世〕検地(「武川村誌」) 慶長六年(ニハ〇一)二月平岩主計頭親吉が甲府城代となり前後十余年間にわたって在住し、徳川氏が領民の支持を得て支配体制の基礎を確立するために貢献した。 まず、国奉行大久保長安が慶長六年(ニハ〇一…

〔武川村の歴史の流れ〕〔武川十二騎〕(「武川村誌」)

〔武川村の歴史の流れ〕〔武川十二騎〕(「武川村誌」) さらに、慶長十二年(一六〇七)から、元和二・年(一六一六)まで甲府城番とたった、山高孫兵衛親重、馬場民部信成、青木与兵衛信安、米倉丹後守信継、入戸野又兵衛門光、山寺甚左衛門信光、折井仁左衛門…

〔武川村の歴史の流れ〕〔中世〕(「武川村誌」)

〔武川村の歴史の流れ〕〔中世〕(「武川村誌」) 律令制の時代の支配関係は、中央政府より派遣される守、介、橡、目の四等官によって、租・庸・調という租税を収めるというのが基本であったが、徐々に荘園制へと移行して行った。その中で特に甲斐国において…

〔武川村の歴史の流れ〕〔「宮間田遺跡」〕(「武川村誌」)

〔武川村の歴史の流れ〕〔「宮間田遺跡」〕(「武川村誌」) 平安時代の庶民の生活については、圃場整備事業に伴い、緊急発掘調査がなされた約一、○○〇年前の平安時代の集落趾「宮間田遺跡」からその姿を想像することができる。 平安時代といえば都の貴族の…